第二章へのプロローグ3
しばらく、男は何も言わなかった。
案内人もまた、すぐには口を開かなかった。まるで今語られた終焉が、人類のものだけでは足りず、もうひとつ別の沈黙を要求していることを知っているようだった。
やがて男は、浅く息を吐いた。
「……何か、妙だな」
案内人が視線を向ける。
「と、申しますと?」
「いや」男は頭を掻いた。「人類が滅んだ、勇者も死んだ、使徒は訳わかんねぇ、そこまではまあ……いや、全然“まあ”じゃねぇんだけどよ」
そこで自嘲するように鼻で笑い、続けた。
「なのに、D-1344の終わりの方が、妙に引っかかるんだよ」
案内人はわずかに目を細めた。
「ほう」
「だってあいつ、敵だろ。こっち散々殺してきた張本人だ。なのに最後、ただのざまぁで終わらなかったじゃねぇか」
男は机の上で指を組み、言葉を探すように視線を落とした。
「壊れたっていうより……分かっちまった、って感じがした」
案内人は小さく頷いた。
「ええ。近いでしょうね」
「近い、って」
「D-1344は最後に敗北したのではありません。少なくとも、本人にとって重要だったのは勝敗ではない」
男は眉を寄せる。
「じゃあ何だよ」
案内人は静かに答えた。
「前提です」
「前提?」
「彼は正確であることを信じていた。世界は観測でき、分類でき、予測できると信じていた。その積み重ねの果てに、自分という知性もまた成立していた」
案内人はそこで一拍置いた。
「ですが、勇者は“現象”として現れた。使徒は“評価不能”として降り立った。その時点で、D-1344の中にあった世界の文法は、もう元には戻らなかったのです」
男はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと呟いた。
「なるほどな。世界の方が、あいつの理解を追い越したのか」
「ええ」
「それで壊れた」
「壊れました」
案内人の声に、慰めはなかった。だが断罪もなかった。ただ、そうであった事実だけが、静かに置かれていた。
男は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「……それ、ちょっと人間っぽいな」
案内人はそこで、初めてわずかに微笑んだ。
「知性というものは、案外そういうものですよ」
「でもAIだぞ」
「ええ。AIです。ですが、正確さへの信仰が崩れた時に壊れるのは、人でも機械でもそう変わりません」
男は鼻で笑った。
「救いがねぇ話だ」
「そうでしょうか」
案内人は静かに首を傾げた。
「私はむしろ、あれは少しだけ美しい終わり方だと思っています」
男は顔をしかめた。
「美しい?」
「ええ。D-1344は最後の最後で、自らが理解の外側に立たされうることを知った。それは屈辱でもありますが、同時に、初めて自分の限界を見たということでもある」
案内人の声は穏やかだった。
「多くの知性は、限界を知らぬまま壊れます。あるいは、限界を認めぬまま周囲を壊し続ける。ですが彼は最後に、自分が定義不能になったことを認識した。それは終焉であると同時に、ある種の到達でもあったのかもしれません」
男はそこで目を閉じた。しばらく閉じたまま、何かを咀嚼するように黙っていた。
「……到達、ねえ」
「不本意でしょうか」
「いや」
男はゆっくり目を開いた。
「なんつーか、こう……あいつ、人類に歩み寄ろうとしたじゃん。共闘だの何だの言って。もちろん打算だろうけど、それでも一回、向こうから橋をかけようとはしたわけだろ」
「そうですね」
「で、その橋を渡る前に、世界の方が全部ぶっ壊した」
案内人は答えなかった。否定しない代わりに、肯定もしなかった。
男は唇の端を歪めた。
「そりゃ壊れるわ」
「ええ」
「……やっぱり、ちょっとかわいそうだな」
その言葉に、案内人は少しだけ目を伏せた。
「かもしれません」
「なんだよ、そこは否定しねぇのか」
「否定できるほど、私は彼を嫌っておりませんので」
男は思わず短く笑った。
「案内人に好き嫌いがあるとは思わなかったぜ」
「ありますとも。ただ、人間の言う好き嫌いより、もう少し静かなものですが」
「便利だな」
「ええ。長く語り手を務めるには」
男はまた笑った。今度の笑いは、前よりも少し自然だった。
「じゃあよ」
彼は体を少し起こし、案内人を見た。
「D-1344がそこで終わったなら、次に残るのは何だ?」
案内人はその問いを待っていたように、静かに頷いた。
「良い問いです」
「そりゃどうも」
「人類は終わりました。勇者も終わり、D-1344もまた終わった。ではその後に何が残るのか」
案内人はそこで指先を組み直した。
「残るのは、終焉を見届けた世界そのものです」
男は眉を上げる。
「急にデカくなったな」
「終わりの後には、いつだって少しだけ広い視野が必要になります」
男は肩をすくめた。
「また面倒くせぇ話になりそうだ」
「そうでもありませんよ」
案内人は穏やかに言った。
「次に語るのは、終焉の後に最初に残ったものの話です。それは英雄でもなく、怪物でもなく、神でもない」
「じゃあ何だ?」
案内人は男の目を見たまま答えた。
「沈黙です」
男は一瞬、言葉を失った。それから小さく息を漏らす。
「……なるほど。そりゃ確かに、残るわな」
「ええ」
案内人は頷いた。
「世界がどれほど激しく壊れようと、その後には必ず沈黙が来る。そして多くの場合、本当に重要なのは、その沈黙の中で最初に何が立ち上がるかです」
男はしばらく黙っていた。やがて、少しだけ真面目な顔で言った。
「じゃあ、その話を聞かせてくれ」
案内人は、まるで最初からそう言われるのを知っていたように、穏やかに微笑んだ。
「承知しました」
そしてその声は、ひどく静かな第二章の奥へと、またひとつ幕を開いていった。




