第1章 蝕み
痛覚を失ってから、僕の生活は今まで以上に慎重にならざるを得なくなった。翔が教えてくれたことだけど、痛覚が無いとほんの小さな怪我でさえ命取りになるらしい。傷を負うことに気がつかず、血を流していることがわからなくなる。そんなまさかと思いたかったけど、実際この前、部屋で料理をしている時に包丁で軽く指を切ってしまった。ボーッとしていたのもあるけど、ふと僕がまな板を見ると、まな板はある程度真っ赤に染まっており、改めて痛くないことの恐怖を思い知った。
あのアーケードの事故(現実には起こっていないことになっているけど)から2ヶ月。その間にも、歩道橋で滑り転けて階段から落下するおばあさんを助けるため、セレクターが発動した。その時は代償として嗅覚がボヤけた。完全に匂いを感じ取れないわけではなく、微かに感じ取れるけど常に鼻詰まりのように匂いが遠のいている。さすがに誰かが死ぬような事態ではなく、大怪我をするはずだったおばあさんの運命を変えただけだから、何かを完全に失うことはなかったのが唯一の救いだろうか。
結局僕が今までにセレクターで支払った大きな代償は、味覚(酸味)の鈍化、右目の失明、痛覚の消失、嗅覚の鈍化となっていた。
「…………さすがに、少し堪えるなぁ。」
確かにこの力で救えた命は沢山あるし、誰かが痛い思いをしなくて済んでいる。この力が発動するのも、どうしようもないことだったんだと理解もしているし、納得もしている。でも、だからこそ、「今まで出来ていたことができなくなる」、「しなくてよかったことをしないといけなくなる」、その現実を実感していくことで、いつしか僕の世界を灰色に蝕んでいるような気がした。
「次力が発動した時…………僕は何を失うことになるんだろう…………。」
代償に対する漠然とした恐怖が拭えず、答えの出ないまま時だけが過ぎていく。いつしか僕は、一人でいる時に笑顔を作ることが出来なくなっていた。




