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第28話:黄金の希望


「これが――ウチらのラストショットやああああ!!」


 雪兎ちゃうの絶叫が、虚無の城塞の最上階に木霊した。

 500万人のリスナーの熱狂、祈り、そして「楽しみ」という名の純粋なエネルギーを背負い、空間を埋め尽くす黄金のバナナの奔流が、世界の調停者を名乗る「御方」へと殺到する。その光景は、もはや一つの宇宙の誕生にも似た、神々しくも圧倒的な暴力的なまでの輝きを放っていた。


 勝利は目前。誰もがそう確信し、物語は大団円へ向かうはずだった。


 だが、その瞬間。不自然なまでに世界の色彩が抜けた。

 黄金の輝きは、ビデオテープのノイズが走るように乱れ、不気味なモノクロームへと変色していく。


「……特異点の精神構造を……再走査。深層心理における……最大抵抗値を……検索。これより……個体名:雪兎ちゃうの『根源的な停滞』を……現在へ固定。……フェイズ・ゼロ。絶望への回帰を開始する」


 無機質で、何重にも重なった機械的な音声が、ちゃうの耳元で直接囁くように響いた。

 放とうとした究極のバナナが、彼女の手の中で霧のように消えていく。黄金の熱量は急速に奪われ、代わりに辺りを支配したのは、古びた蛍光灯が、死にかけの虫のようにチカチカと明滅する、あの嫌な青白い光だった。


「え……? 嘘やろ、ウチの攻撃が、消えた……?」


 ちゃうが呆然と立ち尽くす中、足元から這い上がってきたのは、バナナの甘い香りなどではなかった。それは、胃をキリキリと締め付けるような「あの頃」の記憶の匂い。湿ったホコリと、安物のタバコのヤニ、そして飲み干した後に数日が経過したぬるいエナジードリンクの、あの吐き気を催すような臭いだった。


────────────────────


 気がつくと、彼女は祭壇の上に立っていなかった。

 そこは、窓一つない、狭く換気の悪いオフィスのデスクだった。

 

 机の上には、終わりの見えないエクセルの表、バグだらけの古いコード、そして真っ赤に修正指示が書き込まれたPDFの山が、物理的な重圧となって積み上がっている。

 右手のマウスは手垢で汚れ、クリックするたびに鈍い音を立てる。肩は岩のように凝り固まり、慢性的な睡眠不足で視界の端には常に黒い影がちらついている。


「おい、※※※。聞いてるのか?」


 背後から、低く、湿り気を帯びた威圧的な声が降ってくる。

 ちゃうの身体が、彼女の意志とは無関係に、脊髄反射でビクンと跳ねた。

 振り返らなくてもわかる。そこにいるのは、かつて彼女の心を一歩ずつ、丁寧に、そして冷酷に踏みにじっていった「現実」の象徴――上司だ。


「この修正、今日中に終わるって言ったよな? 今、何時だと思ってるんだ。お前さ、自分がどれだけチームの足を引っ張ってるか自覚あるのか? 期待した俺が馬鹿だったよ。お前の『頑張り』なんて、会社にとっては一円の利益にもならないんだ。わかったら、さっさと手を動かせ。代わりはいくらでもいるんだからな」


 言葉の暴力が、冷たい毒針となってちゃうの心臓を刺し貫く。

 

「すみません……すぐに、やります……。申し訳、ありません……」


 自分の声が、信じられないほど掠れ、消え入りそうなほど震えていた。

 それはバーチャル配信者として数万人の前で大声を張り上げ、自由を謳歌していた「雪兎ちゃう」の声ではなかった。ただの無力な、二十代の「コスト」としてしか扱われない、名もなき歯車の一つの声だった。


 時計の針が刻む音が、秒針の一つ一つが自分の命を削り取っていく音に聞こえる。

 窓の外は、もう真っ暗だ。

 終電の時間はとっくに過ぎ、街の明かりが消えていく。このビルの、このフロアの、このデスクだけが、死んだ魚の目のような光を放っている。

 同期の親しかった同僚は、三ヶ月前に「もう、朝起きるのが怖いんだ」と言って、涙を流しながら辞めていった。

 残された仕事は、物理的に不可能な量まで膨れ上がり、それでも「お前の効率が悪いからだ」「責任感がないからだ」の一言ですべてが片付けられた。

 

 ――なぜ、わたしだけが、こんな目に遭わなきゃいけないの?

 ――頑張ればいつか報われるなんて、誰が言ったの?


 当時のちゃうが、深夜のオフィスで一人、誰に届くこともなく吐き捨てた絶望が、黒い泥となって足元から溢れ出し、彼女の身体を包み込んでいく。


「……違う。これは、偽物や。ウチは、もう、ここに、おらん……ウチは、雪兎ちゃうなんや……!」


 必死に声を絞り出すが、周囲の「現実感」がそれを許さない。

 キーボードを叩く指先には、確かな皮膚の感触がある。冷房の風が、カサカサに乾いた頬を叩く。目に見えるすべてのものが、あまりにも解像度高く、彼女を「あの日々」に繋ぎ止めようとする。

 

『なぜ、現実逃避をする?』


 目の前にいた上司の顔が、次第に「御方」の無機質な輪郭へと変貌していく。

 オフィスの壁が崩れ去り、無限に続くデスクの列が、秩序だったグリッドへと姿を変えた。

 

『お前が手にした自由、お前を称賛するリスナー、お前が愛したバナナ……それらはすべて、この悲惨な現実を覆い隠すための、脆弱な嘘、一時的な麻酔に過ぎない。秩序とは、お前のような不純物が、ただ椅子に座り、歯車として摩耗していくことを指すのだ。それが、この宇宙において最も効率的なエネルギーの形なのだから』


 足元の床が抜け、わたしは暗闇へと落下し始めた。

 落下する先には、あの孤独な四畳半のワンルームがあった。

 床にはコンビニのパンの袋と、飲みかけのペットボトルが散らばっている。洗濯機を回す気力もなく、明日の仕事のことだけを考えて吐き気を催し、ただ「明日が来ないこと」だけを願って、毛玉だらけの布団にくるまって震えていた、あの地獄のような夜。


「……ちゃう……ちゃうちゃん……起きて……!!」


 闇の底で、微かな、だが力強い誰かの声がした。


「うるさい……もう、放っておいて。どうせ、誰も、本当に助けてなんてくれへん。ウチなんて、ただの、代わりがきく消耗品なんや。消えたって、誰にも気づかれへんのや……」


 自暴自棄な言葉が、呪詛のように口を突いて出る。

 その瞬間、世界は完全に「静止」しようとした。ちゃうの心が「自分は無価値だ」と認めてしまったことで、世界の法則を司る「御方」の権限が、彼女の存在そのものを抹消しようとしたのだ。


 だが、その絶対的な暗闇を切り裂いたのは、一発の鋭い「銃声」だった。


「――寝ぼけてるんじゃないわよ、このバナナお姫様!!」


 アカリの、震えながらも気丈な叫び。

 そして、暗闇の空を、無数の「光り輝く文字」が流星群のように流れ始めた。


『ちゃうちゃん! コメント見ろ! 俺たちはここにいるぞ! 幻覚に負けんな!』

『仕事なんてやめちまえ! お前の居場所は、その冷たいオフィスじゃない。ここなんだよ!!』

『画面が真っ暗だって関係ねえ! 俺たちの熱量を、その胸に刻め!!』

『赤スパいくぞおおお!! 全財産投げてでも、その闇を赤スパに塗りつぶしてやる!!』


 真っ暗だったはずの視界に、虹色の光が降り注ぐ。

 それは、500万人を超えるリスナー。その一人一人が、現実世界で同じように「辛いこと」や「やりきれないこと」を抱えながら、それでも「雪兎ちゃう」という存在が見せてくれる笑顔を、自分の光として信じて集まった人々だ。


『ちゃうちゃんの配信で、俺は救われたんだ! だから今度は、俺たちが君を助ける番だ!』

『不器用だっていいじゃん! 効率悪くたっていいじゃん! 楽しそうにバナナ食ってる君が、俺たちの正義なんだよ!』


 リスナーたちのコメントが、一つ一つ物理的な「黄金の手」となって、暗闇の中に沈んでいたちゃうの身体を掴み、力強く引き上げ始めた。


「……あ、あぁ……」


 ちゃうの脳裏に、かつて自分が配信という名の救いを見出した瞬間の記憶が蘇る。

 あの孤独な夜、たまたま開いたスマホの画面の向こう側で、誰かが楽しそうに、そして馬鹿みたいに笑っていた。それを見ただけで、なぜか涙が出て、もう少しだけ明日も生きてみようと思えた。

 だから、今度はわたしが、誰かにとっての「明日を生きる理由」になりたかった。

 誰の代わりでもない、世界で唯一の、おバカで自由な「雪兎ちゃう」になりたかったんだ。


「そうや……代わりなんて、おらん。ちゃうは、ちゃうや……!!」


 ちゃうの瞳に、黄金の炎が灯る。

 目の前にいた「上司」という名の、自身の恐怖が生み出した幻影を、真っ直ぐに見据えた。


「お前が言ったことは、全部正解かもしれん。ウチはミスもするし、不器用やし、バナナを最強やと思い込むような、どうしようもないアホや。でもな、その『無駄』な時間を、全力で笑って、一緒にバカやってくれる仲間が、今、ウチの背中には何万人もおるんや!!」


 ちゃうの咆哮と共に、灰色のオフィスが内側から黄金の光によって爆発した。

 机も、書類も、冷たい空気も、すべてが粉々に砕け散り、光の粒子へと還元されていく。



「秩序? 合理? コストパフォーマンス? ……そんな死んだ言葉で、ウチの、そしてウチらの『自由』を縛れると思うなあああああ!!」


 パリン、と。  彼女の心を、魂を拘束していた「赤い秩序の結晶」が、物理的な音を立てて粉砕された。絶対的配信者『雪兎ちゃう』は再び、城塞の最上階へと舞い戻った。


────────────────────


 視界が戻った瞬間、目の前には「信じられない」といった様子で、物理的にエラーを吐き出しながらたじろぐ「御方」の姿があった。


「精神基盤の破砕に……失敗……。論理的……説明が……不可能。なぜ……単なる不純物の集合体に……これほどの出力が……。計算外……すべてが計算外だ……」


「当たり前や! 人間の心は、お前の持ってるエクセルの表には、一セルだって収まりきらへんのや!!」


 ちゃうの背後には、アカリとイソーが立っていた。

 二人とも、武器を杖代わりにするほどの満身創痍でありながら、その表情にはかつてないほどの、魂の深い部分での信頼が宿っていた。


「……待たせたわね。ロー、最後のパッチ、あてちゃいなさい! これが最後の『運営』とリスナーの共同作業よ!」


「了解だ、アカリ。……ちゃう、今の君の情熱、その『非論理的な輝き』は、あらゆるシステムの壁を貫通し、書き換える。全多層次元における『バカげた肯定』を、君のバナナに集約させる! 限界を超えろ!」


 イソー(ロー)の両手が、残像が見えるほどの速度で空間を叩く。虚空に浮かぶ数千万行の文字列が、ちゃうの手元に再び具現化した「黄金のバナナ」へと、怒涛の勢いで吸い込まれていく。

 バナナは次第に巨大化し、ただの果物の形状を超え、概念的な「希望の光」そのものへと変貌を遂げた。その大きさはもはや城塞を飲み込み、この国全土を包み込むほどの、神々しいまでの黄金の光を放っている。


 配信の同時接続数は、ついに550万人を超え、600万人に迫ろうとしていた。  リスナーたちが放つ赤スパの嵐が、黄金のバナナをさらに超強化バフしていく。画面はもはやコメントで見えないが、その文字の奔流こそが、ちゃうにとっての最強の武装だった。


「みんな! もう一度、もう一度だけウチに力を貸して!! あの気取った秩序(上司)を、バナナの皮で盛大に滑らせて、奈落の底まで叩き落とすんや!!」


『いけえええええええええ!!』

『全財産持っていけ! 俺の明日への希望も、全部このバナナに乗せる!!』

『バナナ! バナナ! バナナ! バナナ!』

『これが俺たちの、世界で一番無駄で、世界で一番最高の、自由だああああ!!』


 ちゃうは、究極のバナナを天高く掲げた。

 それはもはや攻撃手段ではない。この世界に生きるすべての「不器用な者たち」の、存在の証明だった。


「これで……最後やああああ!! 撮れ高、全多層次元最大出力――」


 ちゃうは全身の筋肉が軋むほどの力を込め、黄金の概念バナナを真っ向から振り下ろした。


「バナナ・アルティメット・グランド・フィナーレ!!」


 放たれた黄金の奔流は、御方が展開した、絶対不可侵のはずの赤い数学的防壁を、まるで薄い紙細工のように容易く貫いた。

 どこからともなく現れる一本一本の小さなバナナが、かつて彼女を苦しめた「無価値だ」という呪いの 言葉を塗りつぶし、上司の冷たい叱責を、リスナーたちの温かい、そして力強い笑い声へと上書きしていく。

 御方の演算装置は、バナナの皮が論理の回路に挟まったかのように火花を散らし、連鎖的なバグを引き起こしていく。


「何故……バナナごときに……。秩序が……滑る……。物理法則が……皮のせいで……摩擦係数が……ゼロに……。あ……あああ……!! 存在が……滑落して、いく……!!」


 御方の多重音声が、激しい不協和音を奏でながら光の中に溶けて消えていく。伯爵の肉体を支配していた、禍々しいまでの赤黒い支配の魔力は、黄金の光に飲み込まれ、慈しみを持って浄化されていった。


 そして。

 城塞の祭壇を中心として、目も眩むような黄金の爆発が巻き起こり、世界のすべてを包み込んだ。


────────────────────


 爆風が収まり、長い静寂が戻った。


 ちゃうがゆっくりと目を開けると、そこにはかつてのどぎつい紫色の空ではなく、澄み渡った、美しい黎明の蒼が広がっていた。

 城塞を覆っていた不気味な光の糸はすべて消え去り、開かれた窓からは、高原を渡るような爽やかな風が吹き込んでいる。


 ちゃうの手元には、もうあの巨大なバナナはなかった。

 ただ、戦いを終えた圧倒的な安堵感と、魂を使い果たしたような、心地よい疲労感だけがそこにあった。


「……終わった、んやね」


 ちゃうの微かな呟きに、隣にいたアカリが、泥だらけの顔で小さく頷いた。


「ええ。……最高の配信だったわよ、ちゃう。同接、世界記録じゃないかしら」


 イソーもまた、自身の解析ウィンドウを閉じ、そっと微笑んだ。その眼鏡の奥の瞳には、かつての冷徹なシステム管理者の面影はなく、一人の友人としての温かい光があった。


「システムは完全に正常化された。もう、この世界に『強制された秩序』も『誰かに押し付けられた人生』もない。君が望んだ通りの、最高に無秩序で、最高に楽しい世界が待っているよ」


 祭壇の下、城塞の広場からは、倒れ封印されていたトモタンたちリスナー戦闘班や、共に戦ったアヒル兵士たちの、空を揺らすような歓喜の声が響いてくる。


 ちゃうは、空中に浮かぶ『スキル雑談』の配信ウィンドウの向こう側にいる、600万人超のリスナーたちを見つめた。  コメント欄には、止まることのない祝福と、「お疲れ様」という言葉、そして「ありがとう」という感謝の文字が、滝のように流れ続けていた。


「……みんな。見てたか。ウチら、勝ったで。自由を、取り戻したんや」


 ちゃうは、かつての自分が一人で泣いていた、あの灰色のオフィスの夜を、もう一度だけ思い出した。

 そして、今、この輝かしい朝の光の中にいる自分を見つめ直した。

 

「……ウチ、生まれてきてよかった。……配信者になって、みんなに会えて、本当によかった……!!」


 堪えていた涙が、一気に溢れ出した。

 それは悲しい涙ではなく、自分の存在を、世界を、そして何より自分自身を許すことができた喜びの涙だった。

 

「よっしゃあ!! 打ち上げや!! 今日のメニューは……全アルカディアから集めた最高級バナナとベーコンエッグ丼の、食べ放題、投げ放題、滑り放題パーティーやああああ!!」


 ちゃうの全力の宣言に、世界中が、そしてウィンドウの向こう側にいる全てのリスナーが、「うぇーい!」という魂の叫びで応えた。




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