第26話:……準備、整っちゃったみたいやね
巨大な真鍮の歯車が噛み合い、地響きのような重低音が鼓膜を震わせる。
アビスとの死闘、そしてアカリによる「強制再起動」を経て、迷宮の最深部はかつてないほどの熱量に包まれていた。わたしたち一行は、回り始めた「最初の歯車」の隙間を縫うようにして、最後の螺旋階段を駆け上がった。
その先にあるのは、この世界の物理法則が記述された『最初の祭壇』。
辿り着いた瞬間、肌を刺すような冷気と、視界が白濁するほどの高密度な『法則の力』に、わたしは思わず息を呑んだ。
「……あそこにいるのが、伯爵?」
祭壇の中央。かつてわたしたちを執拗に追い詰めようとしていたバルドゥーク伯爵は、そこにはいなかった。
代わりにいたのは、宙に浮き、身体の節々から無数の半透明な光の糸を伸ばした「何か」だった。糸は天井を突き抜け、この迷宮、ひいては城塞都市全土のシステムへと接続されている。
伯爵の瞳からは光の色が消え、深い虚無だけが宿っていた。
「……遅かったか。伯爵の意識はもう、完全に消滅している」
イソーの声は沈んでいた。彼が空中に出現させた解析ウィンドウは、真っ赤な警告色を放ちながら、激しいノイズに晒されている。
「彼の肉体は今や、この世界の管理システム……『御方』の末端ユニットとして上書きされている。言わば、世界そのものが肉体を得た状態。……解析不能だ。これはもう、人が扱える力なんてレベルじゃない」
「私は……この世界を……純粋な法則で満たす……」
伯爵の口から漏れたのは、複数の男女の声が重なったような、無機質な多重音声だった。感情の起伏が一切ないその声は、聞いているだけでこちらの思考まで停止させられそうなほど冷たい。
「……争い……悲しみ……不確定要素……すべてを排除し……平和な……安定した……静止の世界を……構築する……。それが……生命に対する……最善の……救済……」
「救済、救済って、さっきからうるさいんじゃあああ!」
わたしは叫び、目の前の配信ウィンドウを盾にするように構えた。
だが、祭壇から放たれる圧倒的な「圧力」が、わたしたちの膝を折らせようとする。重力が数倍になったかのような錯覚。アカリが隣で『法則を書き換える銃』を構えようとするが、銃身からはパチパチと苦しげな火花が散り、システムエラーの音が鳴り響いていた。
「ダメね……。法則の密度が違いすぎる。あいつ自身が『ルール』そのものになってるわ。わたしの銃じゃ、書き換える隙間さえ見当たらない!」
────────────────────
絶望的な沈黙が広間を支配しようとした、その時だった。
わたしの視界の端。空中に浮かぶ配信コメント欄が、唐突に真紅の閃光を放った。
(ドガーーーーン!)
それは、記念イベントなどでは割とおなじみの爆発サウンドによる赤スパ通知音だった。
「真紅のスーパーチャット?」
表示された金額は、わたしの視力が一瞬バグったかと思うほどの桁数。そして、そこに添えられたメッセージは、画面をスクロールしても終わらないほどの熱い長文だった。
「えっ……ちょ、なにこれ!? 赤スパ!? 誰!? 読み上げます、今すぐ読み上げます!」
わたしは震える指で、その熱狂の塊のようなテキストを追い始めた。しかし、極限状態の緊張と漢字読解能力不足が災いした。
「『私は世界各国に……軍事……しえん? ……あ、軍事支援という目的で……はけん? ……派遣され、失われてゆく……命を数えきれないほど目にしてきた。……でも、それは自らの自由意志や……そんきょ? ……あ、尊厳を守るための結果だ!』」
わたしの読み間違い――「尊厳」を「そんきょ」と読み、「自由意志」を「じゆういし(自由遺志?)」と勘違いしたような間の抜けた響きが、祭壇の冷たい空気を一瞬だけ揺らした。
「『……もちろん平和や安定は必要だけど、無理やり押し付けられた……価値観による平和など……クソくらえだ! どうかこの世界に本当の自由を取り戻してくれ! ちゃうちゃん!!』」
わたしが読み上げ終えると同時に、コメント欄が文字通り「爆発」した。
『待って、いい話なのに「そんきょ」で草。でも泣いたわ!!』
『赤スパニキ、ガチの退役軍人かよ……。重みが違いすぎる』
『ちゃうちゃん、漢字練習しような! でも、その声はちゃんと届いたぞ!』
『クソくらえだ! 押し付けの平和なんていらねえ! 自由を返せ!』
『同接が……100万、200万を超えた! まだ上がってるぞ!?』
リスナーたちの熱狂が、真紅のスパチャを触媒にして、青い光の奔流へと変わる。それは「歪み」のエネルギーとなり、祭壇の冷たい静寂を内側から食い破り始めた。
────────────────────
一方その頃、祭壇のある塔から一望できる都市――城塞都市の地上では、さらなる異変が起きていた。
アビスが管理していた法則を書き換えた結果、再起動を果たした街の人々は、自分たちの時間を奪っていた元凶が、空高くそびえる時計塔の頂上で追い詰められていることを知っていた。
だが、彼らが手にしていたのは、武器ではない。
「おい、これだ! 使徒様が教えてくれた、伝説のお食事だ!」
スラムの広場では食料班として残っていたスメチとマルさんが、これでもかという程のベーコンエッグ丼を作り出し、スラムの住民たちが城塞都市の各方面へと輸送していく。それは「静止」していた街の人々へと、そして聖地に集結している信者たちへと広がっていく。
「これが……ベーコンエッグ丼!」
聖地に集まっていた熱狂的な信者たちは、涙を流しながらその丼を口に運んだ。
「うまい……うますぎる。これが、生きている味か!」
「使徒様! 俺たち、あんたを一生推し続けるぜ!」
ベーコンエッグ丼を食べた人々の目の前には『スキル雑談』によって付与された視聴ウィンドウが次々と現れる。彼らは戸惑いながらも、その状況を理解し、ウィンドウに映し出される雪兎ちゃうの姿に向かって拳を突き上げる。その動きが加速するたびに、わたしのチャンネル登録者数は垂直に近いグラフを描いて爆増し、高評価ボタンの連打はもはや高橋名人もビックリするようなリズムでシステムを更新し続けていた。
「なにこれ……登録者数が秒単位で一万人ずつ増えてるんだけど!? 街の人全員がリスナーになったの!?」
雪兎ちゃうが配信ウィンドウに釘付けになっているそのとき、イソーの解析ウィンドウが、今度は「喜び」と「熱狂」という、御方の法則とは対極にあるエネルギーのオーバーフローを検知していた。
────────────────────
さらに、広間の背後にある重厚な大扉が、激しい音を立てて外側から蹴破られた。
「クワッ! クワッ!」「クワッ!」
その鳴き声と共に乱入してきたのは、あの辺境の村アルカディアの村人たちだった。
先頭を進むのは、アヒル歩きが完全にクセになってしまった元兵団の兵士たち。彼らの後方には、村の農夫たちが山のような荷物を背負って続いていた。
「使徒様! 助けに来たぞおおお!」
彼らが背負っていたもの。それは、あの法則の歪みの副産物として一夜で収穫された「巨大すぎるバナナ」の山だった。
「これを使ってください、使徒様! 村のバナナは、もはやただの果物じゃねえ。使徒様が起こした奇跡の結晶だ!」
投げ込まれた巨大なバナナが、祭壇の床を埋め尽くしていく。
アヒル歩きの兵士たちは、その特異な姿勢を活かして、バナナをまるでミサイルのように次々と祭壇の結界へと運び込んでいく。
「何ですか、これは……。不純物……不確定要素……計算外の……バナナ……」
伯爵(御方)の声に、初めて戸惑いに似たノイズが混じった。
高度な論理で構成された管理システムにとって、数万人のリスナーの熱狂的なスパチャ、街中から漂うベーコンエッグ丼の匂い、そして物理法則を無視して実った巨大なバナナの山は、あまりに理解不能な「バグ」そのものだったのだ。
────────────────────
準備は、すべて整った。
わたしは、目の前に積み上がったバナナの山から、一際立派な一本を手に取った。それはもはや果物というより、黄金に輝く聖剣か、あるいは最高性能のコンデンサマイクのように見えた。
「……準備、整っちゃったみたいやね」
わたしは腰に手を当てて、不敵に笑った。
読み間違いをしてリスナーに笑われてもいい。バナナを武器にするマヌケな配信者だと思われてもいい。
この世界のみんなが、自分の意志で飯を食い、自分の意志で拳を突き上げている。その「自由」という名の歪みが、今のわたしの最強の武器だ。
「御方だか何だか知らんけど、あんたの言う『平和』は、死んでるのと一緒や。わたしのリスナーは、もっと騒がしくて、もっと勝手で……もっともっと自由に生きてるんや!」
わたしはバナナをマイクのように口元に寄せると、全ての意識を『スキル雑談』に集中させて、全次元、全世界、全チャンネルに向けて絶叫した。
「全リスナー、そしてこの世界の全住民に告ぐ! これが最後の撮れ高……いや、ラストバトルの開幕や!! 一秒たりとも、画面から目を離すなよ!!」
雪兎ちゃうの宣言と共に、真紅のスパチャの輝きと、バナナから溢れ出す青い光が融合し、祭壇の冷たい「法則」を粉々に打ち砕くべく膨れ上がった。
再起動した世界の、その先へ。
雪兎ちゃう一行は、ついに神の領域へとその一歩を踏み出した。




