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マッチョなアヒル男 MLB三冠王 ジョー・メドウィック(1911-1975)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/11/26

現役メジャーリーガーでは二塁打といえばフレディ・フリーマンの十八番だが、メドウィックは明らかに不利な右打者でありながらナ・リーグのシーズン二塁打記録を保持しているばかりか、シーズン最多三塁打(18本)も記録したことがある。大谷でもシーズン最多本塁打、最多三塁打、最多打点、最多得点、最高出塁率どまりだが、メドウィックは最多安打、首位打者、最多本塁打、最多三塁打、最多二塁打、最多打点、最多得点、最高出塁率とオールマイティーさが際立っている。

 メドウィックの綽名は「ダッキー(Ducky)」という。それは歩いている後姿がアヒルのようにヨチヨチとしていることからこう名付けられたものだ。

 ところがこのアヒル、人懐っこそうな顔をしているわりには、一たびフィールドに入ると猛禽類のように好戦的で荒っぽいことこのうえない「獰猛なアヒル」だった。それもそのはず、メドウィックが在籍していた頃のセントルイス・カージナルスは「ガスハウス・ギャング」の異名をとるほどの荒くれ集団で、毎試合ユニフォームを真っ黒にしてしまうほどの激しプレーを売りにしていたからだ。

 しかもこのチームの凄いところは、闘うべき相手がチーム内にもごろごろ転がっており、全く油断も隙もなかったことだ。

 若い頃のメドウィックが外野守備で失態を演じてベンチに戻ってくると、「気にするな」どころか、「この阿呆!」とエースのディジー・ディーンからいきなり首を絞められたこともある。

 そんなチームで鍛えられたせいか、メドウィックもキレやすく、自軍の投手が長いことバッティングゲージを占領しているのに業を煮やして殴りかかったのをはじめ、チームメイトとの小競り合いはしょっちゅうだった。ちなみにガスハウス・ギャングとは19世紀末のニューヨークのストリートギャングの呼称である。


 攻撃的な二塁手、フランク・フリッシュ、狡猾な遊撃手、レオ・ドローチャー、毒舌の豪速球エース、ディジー・ディーンらの中で揉まれているうちに、メドウィックも若きギャングスターの一人として頭角を表わしていった。

 一九三四年のワールドシリーズ第六戦の六回表、タイムリーを放ったメドウィックが三塁にスライディングした時のこと。タイガースの三塁手マービン・オーウェンに足を踏みつけられたメドウィックが両足でオーウェンの腹を蹴り上げたのをきっかけに二人が殴りあいを始めると、両軍入り乱れての大乱闘になった。

 審判が間に入って一旦は落ち着いたものの、その裏のタイガースの攻撃になると、外野守備についていたメドウィック目がけてブーイングとともに瓶やりんご、オレンジなどの果物が次々と投げ込まれ、収拾がつかなくなった。

 一旦ベンチに下がり、改めて守備についてもタイガースファンの嫌がらせは止まなかった。ここまでタイガースファンが執拗にメドウィックに嫌がらせを続けたのは、このシリーズ絶好調の彼に対する恨みつらみが溜まっていたからである。

 遊撃手のドローチャーが、守備位置まできて「何でもないよ。気にするな」となだめたところ、メドウィックは余計に熱くなって「何でもないだと?そう思うんなら、お前が外野をやれ。俺は遊撃手をやる」と味方のドローチャーにまで毒づく始末で、なかなか試合再開のめどが立ちそうにないため、事態を重くみたコミッショナーのランディスは、特別処置としてメドウィックを退場させ、試合を再開した。

 暴力を振るった選手をその場で退場させることはあっても、回が変わってから改めて退場させるというルールは存在しないが、ランディスはメドウィックの安全確保のために強硬手段をとったのだ。

 幸いスコアが九対〇だったためメドウィック抜きでもカージナルスの勝利が揺るがなかったからよかったものの、接戦であればさらなる大混乱を招いていたかもしれない。

 続く第七戦を制したカージナルスは見事ワールドチャンピオンに輝き、ガスハウス・ギャングの意地を見せた。

 ワールドシリーズでの強制退場処分はメドウィックが唯一の例だが、これは攻撃的なプレーヤーとしての勲章でもある。以後、メドウィックは「ダッキー」転じて「マッスル」と呼ばれるようになった。


 メドウィックが見ようによってはアジア人的な顔立ちに見えるのは、彼が純粋なハンガリー人であるからかもしれない。

 両親ともにハンガリーに生まれ、一八九三年にアメリカにやってきた。父ジョンは大工であった。

 同時代のハンガリー系のスポーツヒーローであるプロレス王、ルー・テーズの両親もハンガリー出身だが、こちらの方はともにドイツ系であるせいか、少し雰囲気が違う。

 高校時代はアメリカンフットボールの全米最優秀ハーフバックに選出され、多くの大学から奨学生として勧誘されたが、自身は野球の方が好きだったので、大学進学は断念し、カージナルスとマイナー契約を結んだ。

 一九三〇年、十八歳のメドウィックは今日の1Aに相当するC級中部大西洋リーグのスコットデール・スコッティーズの外野手としてプロの第一歩を踏み出すと、わずか七十五試合の出場で一三九安打(打率四割一分九厘)、二二本塁打という凄まじい猛打をふるい、「リーグ始まって以来の強打者」と絶賛された。

 この活躍でB級をスキップしてA級に昇格したメドウィックは、A級二年目の一九三二年に三割五分四厘、二六本塁打という数字を残し、シーズン終盤にはメジャーに引き上げられている。

 この時同じリーグで二割九分〇厘、三九本塁打という長打力を見せつけ、翌年にメジャー再昇格を果たしたのが、同い年のハンク・グリーンバーグであった。

 その後、デトロイト・タイガースの四番として数々のタイトルを獲得するグリーンバーグとは、リーグを隔てたライバルとして競い合い、やがてワールドシリーズでも激突することになる。

 メジャー二年目の一九三三年からレギュラー外野手として定着したメドウィックは、ここから十一年連続三割を記録する。

 三年目にはオールスターに三番左翼手として初選出され、ア・リーグの先発ゴーメッツ(ヤンキース)から3ランを放っている。アメリカでは日本と違って三番に最強打者を置くことが多いため、メドウィックは二十二歳の若さでナ・リーグ最強打者として認められたということになる。対するア・リーグの三番はベーブ・ルースでこの試合はノーヒットであった。

 同年のワールドシリーズでも十一安打(三割七分九厘)一本塁打、五打点の活躍で自信をつけたメドウィックは、翌一九三五年には、三割五分三厘(二位)、二十三本塁打(五位)、一二六打点(二位)と打撃三部門で上位に食い込み、塁打数はリーグトップだった。

 全盛期にあたる一九三六年から一九三八年までは三年連続打点王、一九三七年には三割七分四厘、三十一本塁打、一五四打点で三冠王に輝き、同年のMVPも受賞した。

 三年連続打点王というのはベーブ・ルースやセシル・フィルダーらと並ぶ、メジャータイ記録であり、三冠王もナ・リーグではメドウィック以来八十年以上も出なかった。

 また一九三六年七月から八月にかけてはメジャー史上初の二ヶ月連続月間五〇安打を記録しているが、細かい記録に執着がなかった当時はあまり話題にならず、イチローが二〇〇四年の同時期に達成したことで大きく取り上げられた。この記録は今もなおメドウィックとイチローの二人しか達成者がいない。

 打数の多いリードオフマンのイチローはまだしもクリーンナップのメドウィックにこれほど安打が多かったのは、バットコントロールに優れていたため、際どい球でも積極的に打ちにいったからである。そのため四球が少なく、高打率のわりには出塁率が低いという弊害もあったが、悪球打ちを得意とし滅多に空振りしないぶん、ベンチとしてはヒット・エンド・ランなどの作戦が立てやすく、打点が稼げる打者だった。

 攻撃的な走塁もまた彼の魅力で、一九三三年から七年連続四十本以上の二塁打を放っている(MLB記録)。

 右打者である彼がこれほど長打を稼げたのは、安打製造機といってもシングルヒッターではなく、基本的には長距離打者だったことと、ベースランニングとスライティング技術に長けていたことによるものだ。

 走塁に関してはメジャー最高と言われるタイ・カッブですら二塁打四十本以上のシーズンは四度に過ぎず、彼が最も得意とした三塁打も含めた本塁打以外の長打数が五十本を超えたのも五度しかない。ところがメドウィックは上記の記録期間は全て二塁打・三塁打の合計が五十本を超えており、七年連続はメジャー史上彼だけしかいない。

 現在もナ・リーグ記録の六十四本の二塁打を打った一九三六年は、三塁打も十三本記録しており、合計七十七本というのも通算最多三塁打記録を持つサム・クロフォード、同二塁打記録を持つトリス・スピーカーといった走塁のスペシャリストさえも及ばない不滅の記録である。

 歴代二位の七十二本にポール・ウェイナー、チャーリー・ゲーリンジャーが名を連ねているが、本塁打を含まない長打数のトップテンを占めている選手のうちメドウィックとグリーンバーグ以外は全て左打者である。


 二十五歳の若き三冠王の前には無限に未来が広がっているかのように見えたが、その眩いばかりの輝きがチームメイトや球団フロントとの確執を招く要因となろうとはメドウィック自身も思いもよらなかっただろう。

 メドウィックは好機に強い強打者で、足も速く肩もいい三拍子揃った選手である。ただし、独りよがりというのか瞬時の判断力に欠けるというのか、進塁を意識しすぎるあまりリードが大きすぎて牽制死することもしばしばだった。

 しかもリーグ最高の打者であるという自負からか、契約更改ではいつも揉めており、金に汚いというイメージが染み付いてしまった。元々天才肌の自信家であったため、一部のチームメイトからは良く思われておらず、次第に孤立を深めていった。

 決定的だったのは打点王を獲得した一九三八年の契約更改だった。タイトルホルダーであるにもかかわらず、二万ドルの年俸が一割ダウンの一万八千ドルに下げられたメドウィックは激昂し、それが一九四〇年のシーズン途中でのトレードの伏線となった。短気なオーナー、サム・ブリードンはメドウィックが例年より不調(といっても三割はキープしている)と見るや、躊躇うことなくドジャースに放出したのだ。

 客観的に見れば、金に渋いことで有名だったカージナルスにメドウィックの年俸が不当に抑えられていることは明白である。それでも「野球とはヒットを打ち、(その分の)報酬を貰うことだ」と割り切っているメドウィックのことを、チームは「金だけのために野球をやっている男」と蔑視していた。

 両者の見解の相違は遺恨となって残り、トレードから六日目のカージナルス対ドジャース戦で、メドウィックがかつての同僚ボウマンから頭部にデッドボールを受けて脳震盪を起こしたことで、カージナルスの報復かと騒がれた。

 メドウィックが昏倒するや、ドジャースベンチから一斉に選手が飛び出し、ボウマンに襲いかかった。球場はドジャース社長のラリー・マクファイルまでが拳を振り回すほどの修羅場となり、ボウマンは警官が護衛して場外に連れ出された。

 当時の打者はヘルメットを着用していなかったため、頭部へのデッドボールは野球生命に関わる重大な事故だった。幸いメドウィックは入院四日目に退院できたが、三週間もの記憶が欠落していたという。

「マッスル」の綽名はだてではなく、メドウィックは短期間の低迷期を乗り越えて見事に立ち直った。

 カージナルスはやっかいな男を怒らせてしまったようだ。翌一九四一年のメドウィックは三割一分八厘(リーグ三位)と復活し、かつての僚友ドローチャー率いるドジャースをリーグ優勝に導いた。


 メドウィックは闘争心が旺盛すぎてチーム内で疎まれ、カージナルスからは厄介払いされたものの、いざ居なくなってみるとその存在価値を改めて痛感したのであろう。一九四七年、レギュラーの座を失ったメドウィックを拾い上げたのは古巣のカージナルスだった。

 今や伝説となったガスハウス・ギャング時代のカージナルスを象徴するトッププレーヤーだったメドウィックは、終生カージナルスとは縁が切れず、晩年には巡回打撃コーチとしてチームのために尽くした。


 通算成績 3割2分4厘 205本塁打 1383打点 2471安打

メドウィックはまだ全盛期にもかかわらず、他球団に放出されたため、カージナルス史上最高の打者と謳われるスタン・ミュージアルとチームメイトだったのは選手生活の晩年の短期間だけである。年齢は9歳違いであり、メドウィックがドジャースの主力打者だった時分にミュージアルもカージナルスのクリーンナップを担っていたことを考えると、球団が感情的にメドウィックを放出したりしなければ、ミュージアルとのツートップでカージナルス王朝を築くことができたかもしれない。


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