元年者
1868年5月2日に42人(男性40/女性2[女性のうち、子供1])の日本人がスペイン領グアム島[現、アメリカ合衆国グアム准州]へ、5月17日に153人(男性146/女性5/子供2)の日本人がハワイ王国[現、アメリカ合衆国ハワイ州]へむけて出発した。1868年に渡航した者たちは、のちに「元年者」と呼ばれた(先述のうち、ハワイ移民の人数は不明瞭である。ハワイ移民の人数については後述する)。
まず確認しておくべきは、1867年頃の南海諸島、フランス領ヌーヴェル・カレドニー島、イギリス領フィジー諸島[現、フィジー諸島共和国]などのヨーロッパ殖民地において、「奴隷制度」に代わる「殖民地奴隷制度」が存在した事実である。
経済社会において資本主義的発展が現実に到来した19世紀のヨーロッパでは、経済的上部構造の理論的指導者としての人道主義者たちの眼に「奴隷制度」は社会の政治的・道徳的に恐るべき変則として映るようになり、同時に「奴隷制度」が害悪以外のなにものでもないという風潮が一般化し、「奴隷制度」の廃止へとつながった。1833年8月にイギリスが黒人奴隷を解放したことにはじまり、1848年にはフランス、1855年にはペルー、1858年にはポルトガル、1860年にはアメリカ、1863年にはオランダ、1870年にはスペインが相次いで「奴隷制度」を廃止した。しかし、いまだ発展段階にある資本主義は、「奴隷制度」から「自由労働」へと完全に自己貫徹をとげるだけの条件をそなえてはおらず、なお社会経済機構の内部に克服するべき諸問題をかかえていた。それまで「奴隷を所有する」ことによって「畑を耕し、木を伐り、食物を調理し、子供を養育し」てきたヨーロッパ社会において、「農業に従事する奴隷労働に代わるべき、なんらかの形態の自由労働が具備されなければならなかった」のである。
「奴隷制度」廃止後の若干のヨーロッパ殖民地では、いわゆる「劣等人種」の労働をやや長期の契約で輸入することで「奴隷制度」の代用にしようとする試みがなされたが、多くの場合、「合法的奴隷貿易」という名目をとらざるを得なかった。こうした背景のもとに、「苦力貿易」が出現したのである。そしておそらくは、「開国」直後の「後進日本」も、「合法的奴隷貿易」を担う「劣等人種」としてヨーロッパ人の眼に映ったであろう。
1866年6月25日に江戸政権は、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国とのあいだに、輸入税率改正を取り決めた『改税約書』をむすび、『改税約書』第10条で、江戸政権の「印章」を得れば海外にでることは差し支えないとして、学術修行者と商業者にくわえて以下のとおり、海外で職につくこと、外国人に雇用されている日本人が海外へでることを許可した。
〔01〕日本と親睦なる各国船中に於て、諸般の職事を勤むる事、故障なし。
〔02〕外国人雇置く日本人海外へ出る時は、開港場の奉行へ願出、政府の印章を得る事、妨げなし。
「印章」とは、現在のパスポートのことであり、「手形」、「旅切手」、「往来切手」などとも呼ばれた。また「日本と親睦なる各国」というのは、日本と条約を調印している国のことである。1868年1月24日(日本暦:慶応3年12月30日。すなわち、慶応3年の末日)の時点で日本と条約を調印していた国は、アメリカ・イギリス・ロシア帝国[現、ロシア連邦]・オランダ・フランス・ポルトガル・プロイセン王国[現、ドイツ連邦共和国]・スイス・ベルギー・イタリア王国[現、イタリア共和国]・デンマークの11ヵ国であった。
外国船に乗りこむ者ばかりでなく、外国船以外で渡航する者も、すべて渡航地は条約締結国にかぎられていた。ただし清国[現、中華人民共和国]は、ほかの諸外国とは異なり、長年にわたり日本との隣交・通商関係が成立していたため、最初から条約締結国なみのあつかいであった。
グアム島は当時スペイン領であったが、1868年5月に42人の日本人がスペイン領グアム島へむけて出港したときは、いまだ日本・スペイン間の条約は存在しなかった。このため、条約締結国ではないスペインの領地へ渡航することは違法行為である。しかし、渡航人数が42人と少数であったためか世間からの注目を引かず、したがって江戸政権も新政府も渡航した事実を知らず、渡航を引き止められることはなかった。
グアム島への渡航者の雇い主は、横浜の山下居留地52番[現、神奈川県横浜市中区山下町280番の東側]にあるプロイセン商社の「ロートムント=ヴィルマン商会[Rothmund, Willmann & Co.]」であった。このプロイセン商社は記録上は「洋服仕立ておよび洋装店(tailors and outfitters)」になっているが、グアム移民を周旋した周旋業者である。スペイン領グアム島への移民契約条件は以下の8つである。
〔01〕雇人足 四拾二人
日本年限三ヵ年。但、三拾六ヵ月。一ヵ月に一人に付、給金洋銀四枚と相定候事。
〔02〕御役所様御聞済候上は
世話役は二人相立、右世話役は一ヵ月に給金の外に洋銀一枚づつ為世話料、御渡可被下候事。
〔03〕当港出帆日限より食事、船賃等は勿論、并に病気の節は御手当諸懸り、御賄被下候事。
〔04〕前書給金の内、只今支度金として一人に付、洋銀十枚づつ御渡し被下候事。
〔05〕当港出帆日限より三ヵ年の間、給金の義は毎月西洋朔日に半給金当人共え御渡被下、跡給金の義は預り手形銘々御渡し置、一同は無據入用筋出来候得ば、右手形引替に残金御渡し可被下候事。
〔06〕帰国の砌、右年限中残金の義は、横浜表え帰港の上、ホロシン国ロヲフマン(ロートムント=ヴィルマン商会のロートムント【E. Rothmund】のこと)方より半兵衛(口入屋の担当者名)立合の上請取、当人共え相渡し、一同の者引取銘々在所えさし戻し候事。
〔07〕右の通約定年限相立候上は、ホロシン国(プロイセン国)より一同の者横浜表え諸入用、御賄送届け被下候事。
〔08〕右の通半兵衛方より、私下請仕一同の者相揃へ候間、右人足共義に付万一不都合出来仕候得ば、私引請御迷惑筋、聊相懸け申間敷事。
スペイン領グアム島への渡航者は、横浜の口入れ屋によって横浜で集められた。開港後の横浜は、外国船の出入りでにぎわい、内戦と世相の混乱で疲弊していた民衆が、生活資金を得るために各地から集まっていた。このため、少しでも給料がよければ、相当数の人員を集めることが可能だった。
渡航条件の第2項目にある「世話人」には、安房国平郡大帷子村[現、千葉県安房郡鋸南町大帷子]の安五郎【やすごろう】、伊勢国松坂桜花町[現、三重県松阪市]の栄助【えいすけ】という者が選ばれた。
渡航者は全員で42人(男性40/女性2[女性のうち、子供1])。1868年5月2日4時頃にユージン・ミラー・ヴァン・リード【Eugene Miller VanReed 1835-1873】と契約していた国籍不詳のスクーナー船「エミュイ・トレーダー号[EMUY TRADER]」で横浜港を出港し、5月16日に小笠原諸島へ寄港して薪水を補給し、小笠原諸島に3日碇泊した。このとき、安房国の安五郎は船中で病気にかかっていたため、小笠原諸島で下船し、安五郎に同行していた妻のたけも一緒に下船した。安五郎たち夫婦は明治2年6月(1869年7月9日から8月7日)、横浜港に帰着した。
小笠原諸島を出港した「エミュイ・トレーダー号」は、1868年6月8日にスペイン領グアム島中部の西岸に位置するアガナ[現、グアム島ハガッニャ](帰国したグアム移民の三澤菊蔵の証言では「マルヤナス湾」)に到着した。
グアム島行きの「エミュイ・トレーダー号」がヴァン・リードと契約していたことは、グアム移民問題が発覚した当時、1872年4月4日附でスペイン側から日本側に送付された記録に言及されている。「ヴァン・リード氏が契約したスクーナー船『エミュイ・トレーダー号』に乗船していた日本人の呼び名と、かれらに関係する事象についての説明。(Relation nominale des Japonais qui ont gages dans leur pays par Mr Van Reed furent embarques a bord de la Goelette “Emuy Trader” avec une explication des evenements qui les concernent.)」。また、グアム移民が口入屋と交わした渡航契約書の末尾に「ホロシン国 横浜五拾二番 ロヲフマン」の名前と一緒に「ハワイ国コンシユール 九拾三番 ウエンリート」の名前があり、ヴァン・リードがグアム移民の周旋に関与していたことは明らかである。
ただし、ヴァン・リードは1868年4月4日附でハワイ王国外務大臣のチャールズ・ヴィクター・クロスナー・デ・ヴァリグニー【Charles Victor Crosnier DeVarigny 1829-1899】に宛てて「ちょっと閣下にご報告申し上げたいのは、スワロー号のバーディック氏はすでに日本人50人分のパスポートを入手し、彼等を農夫としてグアム島へ移民させようとしていますが、わたしは彼等の出港を許可しないように江戸政権に働きかけています。わたしには信ずるべき理由があるのですが、グアム総督の尊名が毀損されかねないからです。といいますのは、バーディックは総督の名前を使用する許諾状など、なにも持参していないのです。それでもわたしがこの移民の策謀を注視しているのは、無責任な連中が、とうてい果たせそうもない、えらそうな約束をして、日本人を移送することに成功するなら、その場合、我々をふくめたほかのパーティの企画する誠意ある取引(bona fide transactions)に対する反撥を、いくらか緩和するだろうと思うからです」と報告している。
口入屋の渡航契約書およびスペインから日本へ送付された報告の内容と、ヴァン・リードの証言の内容は、微妙にかみあわない。グアム移民の移送には、「ヴァン・リード氏が契約したスクーナー船『エミュイ・トレーダー号』」がロートムント=ヴィルマン商会に利用された(あるいは、「日本人を移送することに成功」させるために利用させた)のかもしれない。
グアム移民一行は到着後、グアム総督でスペイン海軍中佐のフランシスコ・モスコーソ・イ・ララ【Francisco Moscoso y Lara】に預けられた。
グアム総督のララに預けられたグアム移民一行は、アガナから「三里」ほど離れた「タンタンノ」という土地で「開拓」に取りかかった。はじめは平穏に暮らしていたようだが、そうしているうちに何人かが亡くなったようである。世話人であった伊勢国の栄助も、現地で世話人になった武蔵国橘樹郡飯田村[現、神奈川県横浜市港北区]の重五郎【しげごろう】も亡くなったという。
こののち信濃国伊奈郡島田村《現、長野県飯田市》の信吉【しんきち】、三河国岡崎下伝馬町[現、愛知県岡崎市]の勇次郎【ゆうじろう】という者が世話人になった。しかし移住2年目にもなると、このような日本人世話人の手を離れ、アガナ住人のタロモページロという者の指揮下に、タロモページロが「兼て雇入れ候黒奴男女凡七百人」と一緒に農耕に従事しなければならない状況に陥っていた。タロモページロは「黒奴」も日本人も同様に酷使し、耐えかねたグアム移民は明治3年8月(1870年8月27日から9月24日)、グアム総督のララへ訴えて、「世話人差換」を請願した。しかし、契約期間の3年間は経過していないにもかかわらず、グアム総督のララは、「現在の世話人で勤められなければ、もう『黒奴』も農業を覚えたから、雇いを解く」と回答した。
このためグアム移民たちは、「片時も早く日本へ帰してもらいたい。預け金および給料未払分を勘定し」、日本へ帰国させてくれるよう要求した。しかし、グアム総督のララは「雇用年限中に数人病死して少なからぬ入費をかけたから、もう支払うべき分はない。便船あり次第、帰国させるから、それまで勝手に待つがよい」といい、取り合わなかった。このためグアム移民たちは「如何とも致可様無之候に付、処々《ところどころ》え散在、住民へ依頼し、漸く飢渇を凌ぎ罷在」という状況だった。
グアム総督のララは、いつ船がくるとも伝えなかった。このためグアム移民たちは、まれにアガナへ入港する船をみつけては、日本へ移送してもらうよう請願した。幸いにそのつど、数人ずつは乗船できたが、グアム移民全員が同時に乗船することはできなかった。
こののち、外国船で最初にアガナを出港した者が1871年4月24日に横浜港に到着した。信濃国の信吉とほか3人、合計4人である。イギリス船の「オントレル号」で帰国した4人は、スペイン領グアム島における事情と、残留者の窮状を日本政府に訴えた。
先述のとおり、江戸政権も新政府も、スペイン領グアム島へ日本人が渡航した事実を知らなかったため、政府関係者は仰天して調査に乗りだした。調査の結果、当時の記録が少し残っていたようで、善後措置をこうずることになった。日本政府が、政府内でどのように協議を行ない善後措置をこうじたのか詳細は不明だが、「オントレル号」でグアム移民4人が帰国した際、引きつづき「オントレル号」の船長に残留者の移送を依頼しようとしている。また、グアム移民に関するスペイン側の調査記録も存在するため、スペイン政府へ問い合わせて調査を依頼したのだろう。
先述の「オントレル号」についで、同1871年8月3日に神戸港にアメリカ船で4人、11月12日に長崎港にロシア軍艦の「ウィテイアス号」で7人が到着した(「ウィテイアス号」から下船した日本人は9人。下船者のうち7人がグアム移民)。11月12日の時点で、アガナにはなお11人の日本人移民が残留していたが、翌1872年1月8日にアメリカ船で残留者11人全員が横浜港に到着し、1871年4月から1872年1月にかけて26人が帰国した。こうして、1868年5月にスペイン領グアム島へむけて出港した42人のうち、グアム島へむかう途中の小笠原諸島で下船し、のちに帰国した安五郎とたけの2人をふくめ、28人が帰国した。
ただし、帰国者28人のうち、口入屋の名簿に記載された年齢と実年齢が異なっている人物が3人いる。このうち1人は、口入屋名簿に記載された年齢と1歳違いなので同一人物である可能性はあるが、残る2人は10歳違いと8歳違いである。口入屋の名簿作成時か帰国時のどちらかで年齢を偽った可能性は否定できないが、帰国者28人のうち2人は、おそらく別人であろう。
1872年4月4日附でスペイン側から日本側に送付された調査記録によれば、スペイン領グアム島で11人が死亡し、このうち3人は渡航途中の船内で病死したとされる。1871年10月2日に帰国したグアム移民の三澤菊蔵【みさわ・きくぞう 1835-? 山梨出身】の1872年1月14日附の聴取記録によれば、グアム島現地で「同行四拾人のうち、安五郎(先述の「安房国の安五郎」のこと)、伊平のほか、生所不存伊佐吉ほか拾人は追々病死致し」、とありグアム島現地での死亡者は13人になる。
ただし、ここで注意したいのは「安五郎」である。三澤は「安五郎」は死亡したと証言しているが、これは「安房国の安五郎」のことだろう。というのも、三澤と同じ船便で帰国したグアム移民のなかに「越後国の安五郎」がおり、三澤は、「(明治1年4月)同廿四日夕、ブニニス(I'ile Boninas[フランス語]:小笠原諸島)と申す小島へ着船。薪水を乞、三日停泊。安五郎は船中にて病気相発候に付、同人召連候妻たけ共同所へ上陸為致、右両人は其後如何相成候哉不弁」とも証言している。しかし、「安房国の安五郎」は先述のとおり1869年に横浜港へ帰着しているため、三澤の報告どおりなら、グアム島現地での死亡者は合計12人で、4人は行方不明ということになる(渡航者42人-死亡者12人-[帰国者28人-年齢違い2人]=行方不明者4人)。
グアム移民の一件は、日本の官民に大きな衝撃を与え、外務省は、「いよいよ御国人、他国において、このごとく無頼無告の窮民と相成りましたことは、そのまま傍観されましては、政府所有の公権もいかにあるべきかと存じますので、始発よりの顛末を逐一詮議のうえ、相当の御慮ありたく」とした。
ハワイ王国への移民は、グアム移民の周旋にも関与し、横浜の山下居留地93番[現、横浜市中区山下町93番]に居留する自称ハワイ領事のユージン・ミラー・ヴァン・リードの進言によってはじまった。のちに「元年者」と呼ばれるようになるこの最初のハワイ王国への移民は、主にサトウキビ耕地の労働者として、ヴァン・リードが日本人の口入れ屋を使って京浜地区で集めた人々であった。集められた人々は職人が中心であったが、農民や武士もふくまれていた。
1868年当時の日本とハワイ王国間には、江戸政権・ハワイ王国間で1867年9月(日本暦:慶応3年8月)にむすばれた『日布臨時親善協定』が存在した。『日布臨時親善協定』がむすばれることになった発端は、『日米修好通商条約』(1858年7月29日調印。1860年5月20日批准)の批准書交換のために新見正興【しんみ・まさおき 1822-1869 東京出身】を正使とする万延元年遣米使節がアメリカ船の外輪フリゲート艦「ポーハタン号《USS PAWHATAN》」とスクリュー式蒸気船「咸臨丸」(スクリュー式蒸気船「咸臨丸」は万延元年遣米使節の随行艦として渡航。日本人操縦艦による最初の太平洋横断に成功)でアメリカへ派遣されたことによる。万延元年遣米使節一行の乗船する外輪フリゲート艦「ポーハタン号」は途中でハワイ王国に寄港し、ハワイ王妃のエマラニ・ナエア(ハワイ王妃エマ)【Emalani Na‘ea(Queen Emma of Hawaii) 1836-1885】に謁見する機会を得た。1860年当時はまだ日本・ハワイ王国間に条約はむすばれていなかったため、ハワイ王国外務大臣のロバート・クライトン・ワイリー【Robert Crichton Wyllie 1798-1865】から条約締結の申し出がなされていた。しかし、万延元年遣米使節は、帰国後に江戸政権に伝えるとだけいい、明確な回答を避けた。
江戸政権は、日本駐在ハワイ領事だと自称するヴァン・リードに対し、横浜居留地に居住する一介の商人でありながら国家の代表者である「領事」であるはずがない、との考えをもっていた。このため江戸政権の外国事務総裁であった小笠原長行【おがさわら・ながみち 1822-1891 佐賀出身】は、「ハワイ王国と条約をむすぶ意志はあるが、一介の商人であるヴァン・リードを相手に条約締結交渉を行なうことはできない」と、1867年10月20日附の書翰でハワイ王国側に伝えている。当時の日本は明治維新へつながる動乱期だったため、日本・ハワイ王国間で正式に和親条約がむすばれることはなかったが、1867年9月に『日布臨時親善協定』がむすばれた。『日布臨時親善協定』の締結交渉は、ヴァン・リードが日本駐在アメリカ公使のロバート・ブルース・ヴァン・ヴァールケンバーグ【Robert Bruce VanValkenburgh 1821-1888】の助力を得て実現させ、江戸政権とのあいだにむすんだのである。ヴァン・リードが1868年5月に日本人153人をハワイ王国へ渡航させたのは、江戸政権とのあいだにむすんだ『日布臨時親善協定』によるものだった。
ハワイ王国への移民契約条件は以下の6つである。
〔01〕契約労働年限は三ヵ年到着の日より三十六ヵ月を数ふ
〔02〕賃銀は月四弗(実際の支払いはメキシコ・ドルで行なわれた)
〔03〕全部の労働者を二十五人宛の組〔コンパニー〕に分ち、各組に二人の組長を置く〔組長は賃銀四弗の外別に一弗を受く〕
〔04〕全労働者の頭を一名設く〔この頭には一ヵ年百五十弗の給料を与ふ〕
〔05〕渡航船賃、来布後の住宅、食料、治療費等は凡て耕地会社より支給す
〔06〕賃銀支払方法
賃銀は毎月一日その半分を現金、半分を手形にて支払ふ。但し労働者が希望なれば、組長を通じ全部現金にて受取ることを得
ヴァン・リードは、江戸政権から180人分の渡航印章の発給を受けていたが、乗船3日目に日本の政権が徳川氏から天皇にいれかわり、新政府が樹立された。ヴァン・リードは、江戸政権から認められた渡航印章の効力を日本政府も認めるよう、数回にわたり働きかけたが、日本政府は「ハワイ義は条約未済の国」、すなわち、日本とハワイ王国は条約未締結であること、旧政府=江戸政権の与えた印章については、「旧政府限りの取計にて、この節、右を採用いたし候義には難至候」としてハワイ王国への移民を認めなかった。
このためヴァン・リードは、日本政府の許可のないまま渡航を強行。153人(男性146/女性5/子供2)のハワイ移民を乗せたイギリス船籍の「サイオト号[SCIOTO]」は1868年5月17日14時頃に横浜港を出港、6月19日ホノルル港に到着した。強行された渡航とはいえ、ハワイ移民の健康管理のために医師の同行を求めた日本駐在イギリス公使のハリー・スミス・パークス【Harry Smith Parkes 1828-1885】の勧告も受けいれて医師を乗船させ、日本駐在イギリス領事館や運上所(関税事務局)への手続きも行なったうえでの渡航であった。
ホノルル港までの航海は順調にゆき、こののち農場に入ったが、ハワイ移民たちは農業未経験者であるうえに、不慣れな気候のもとでの労働と、「皇朝の四割倍(日本国内の1.4倍)くらい」の物価高による生活の困窮に苦しんだ。このため、移民元締の牧野富三郎【まきの・とみさぶろう 1848?-?】と仙太郎【せんたろう 1851?-?】から連名で救出を求める嘆願書が、同1868年12月25日附(宇和島領士族の城山静一宛て、および神奈川県裁判所宛て)と12月26日附(城山宛て)で、日本政府に寄せられる事態にいたった。
日本政府は1869年10月15日、問題解決のために民部省(1869年5月に設置された戸籍・租税・鉱山・地方行政を管轄した省庁。1869年9月に改組されて大蔵省と合併し、土木・駅逓・鉱山なども管轄。1871年9月に民部省は廃止された)監督正の上野景範(上野敬介)【うえの・かげのり(うえの・けいすけ) 1844-1888 鹿児島出身】を使節として任命した(当初は花房義質【はなぶさ・よしとも 1842-1917 岡山出身】が候補にあがったが、新潟出張中だったため上野を派遣)。このほか、外務史生の三輪甫一【みわ・ほいち】が上野に同行した。上野と三輪は11月1日に横浜港を出港、サンフランシスコ経由で12月27日ハワイ王国に到着し、ハワイ王国外務大臣のチャールズ・コフィン・ハリス【Charles Coffin Harris 1822-1881】との交渉の末、1870年1月11日、帰国希望者40人の日本への帰国、残留者も契約期間が経過したときにはハワイ王国政府の費用で日本に送り届けること、などの合意がなされた。また1870年1月11日(明治2年12月10日)、元締めの牧野に3ヵ条からなる覚書が上野から手交された(以下、「『上野景範布哇国渡海日記』12月10日、12月11日、外務事務全「ハルリス」ト約定之条、覚〈上野景範関係文書36〉」東京都の国立国会図書館所蔵。より抜粋)。
・上野・ハリス間の取り決めの要点
〔01〕今般、百五十人のうち、病人、諸職人そのほか今日の職業に難堪者どもは四十人帰国可為為致候事。
〔02〕当島江相残り候者ども、年期相済次第ハワイ政府の入費を以て送届候事。
〔03〕もし期限に至、病気かまたは余の故障にて乗船難相成体の者は、看病人相付、相残置ハワイ政府より手当いたし全快次第、同政府の入費を以て送帰し候事。
・上野から牧野への覚書
〔01〕来る未五月(明治4年5月)中にて傭夫年期相済候間、右期限相済候うえは、直にホノルル政府江申出帰朝可致候。もしその節に至り相残り候者どもは日本の人別相除候事。おおよそ右はこの節、外国事務全権ハルリス江応接のうえ取極候事。
〔02〕使役方または何に而も主人の取扱振不充分か、または不適当の儀など有之候節は、速にその段書簡を以て冨三郎江申遣、政府江可訴出事。
〔03〕以后一ヵ月毎に各所江富三郎巡見可致。その節も訴出度事柄は直に可申出候。同人より政府江掛合候。
右の件々一統の者江申諭方、かつ別紙約定書の趣取調方など都てその方江令委任候間、厚く相心得懇に申談所置可致事。
上野から牧野へ手交された覚書のなかに「日本の人別相除候事」とある。つまり、契約期間を満了して、なお帰国せずハワイ王国に滞留する者は日本の「人別」=戸籍から削除する、という意志が日本政府にあったのである。
また、上野とハリスはこのとき、のちの『日布修好条約』(1871年8月19日調印、および批准)の基礎になる全6条からなる条約案を作成している。
帰国希望者が40人しかいなかったことに上野たちは驚きを隠さず、帰国後の4月29日の報告では、上野は「契約労働者たちは、昨年ハワイ到着直後は、言語が互いにつうじないために苦労したが、最近は仕事にもなれて、別段『苦役』ということもなく、巨細の情実も詳らかに分明した」とのべている。外務省関係者が「帰国希望者」の少なさを意外と感じた背景には、この出稼ぎ労働者を「苦力貿易(coolie trade)」と呼ばれた人身売買と類似した事件と考えていたことがある。
日本政府がハワイ移民問題を「苦力貿易」だと認識したことについては、以下の事実から判然とする。
日本政府は、ヴァン・リードから請願された渡航許可を許可しなかったことからもわかるように、条約を締結していないハワイ王国への移民は許可できないという立場をとっていた。このため、ハワイ移民問題が表面化した際の1868年5月25日、日本駐在アメリカ公使に対し、ヴァン・リードの行為は違法行為であると抗議したのである。
日本政府からの抗議に対し、日本駐在アメリカ公使のヴァールケンバーグは、翌5月26日附の外国事務局《現、外務省》輔兼神奈川裁判所総督の東久世通禧【ひがしくぜ・みちとみ 1834-1912 京都出身】に宛てた「布哇出稼人無免許出港事件に付干渉し難きも対策決定あらば斡旋すべき旨回答の件」に、「苦力売買禁止規則(The act of Congress to prohibit the coolie trade)」を添付して、ハワイ移民問題は「苦力貿易(coolie trade)」であるという認識を示し、暗にヴァン・リードの行為を違法であるとして、日本政府に同調する姿勢をみせた(このときのヴァールケンバーグの行為は、1868年7月5日附の『THE JAPAN TIMES' OVERLAND MAIL』[『日本時事』が隔週で発行した海外向け新聞]に「ヴァールケンバーグ将軍は、農奴的状態にある日本人の状況を改善しようと試みるヴァン・リード氏の慈善的な行為《philanthropic attempt》に干渉することによって、当人[ヴァン・リードのこと]の意図とは逆に、事実はかえってその農奴的状態を存続させる側に味方したのである。これは、アメリカ国民が誇りとするリンカン大統領の奴隷解放宣言の精神に反するものである」と批判され、のちにアメリカ国務省も、このときのヴァールケンバーグの布告を撤回するよう通知している)。
さらに、同1868年9月14日附の日本駐在プロイセン公使のマクシミリアン・アウグスト・スツィーピオ・フォン・ブラント【Maximilian Augst Scipio von Brandt 1835-1920】から東久世に宛てた書翰にも「くわえて、北ドイツ船が日本から労働力を連れ去ることを防ぐために、日本からのクーリー輸出について閣下が声明された結果、日本人から違法だとみなされていると、わたしに通知させてほしい。(I further beg to inform Your Excellency that in consequence of your statement that the exportation of coolies from Japan is regarded by the Japanese as an illegal act, I shall prevent north german ships from taking labourers away from Japan.)」とあり、日本人が「苦力貿易」の対象になり得ることを物語っている。
城山静一【きやま・せいいち 愛媛出身】は外国官判事輔の都築温(都築荘蔵)【つづき・あつし(つづき・そうぞう) 1845-1885 愛媛出身】に宛てた1869年1月6日附の移民救済の上申書のなかで「ウエンリート(ヴァン・リードのこと)より先般サンドヰツチ(Sandwich Islands:ハワイの旧称。イギリスの探検家であるジェイムズ・クック【James Cook 1728-1779】が1778年1月に「発見」したときに命名)え相送り候奴隷共、甚困却罷在候様子、是亦新聞紙にて承知仕候」と、ハワイ移民は「奴隷」であるとの認識を示した。
3月7日、ハワイ移民39人とハワイ王国で生まれた子供1人の合計40人がアメリカ船で横浜に到着し、3月26日に上野も別便で帰着した。1868年5月の横浜出港から、わずか10ヵ月足らずでの帰国であった。
グアム移民・ハワイ移民の事件処理では、外務省での官吏間のやりとりのなかに、グアム移民・ハワイ移民を指して「賎民」という言葉が散見される。律令体制の昔から日本では、人民を「良と賎」にわけていたことを考えれば、世話のやける移民たちを「賎」民としてあつかったとしても無理はなかった。
しかし、ハワイ移民たちは、こうしたマイナス・イメージを払拭する行動をおこした。1870年11月20日附で牧野から、労働契約期間の満了後、アメリカ本国へ渡航したいという嘆願書が外務省宛てに提出されたのである。「傭夫の銘目もとより御国辱の義」だから「差当アメリカえ渡海」して職業を得たいとのことであった。このときのアメリカ本国への渡航希望者は60人で、1869年の帰国希望者(40人)の1.5倍の人数であった。
こののち1871年3月1日附で牧野から、労働契約期間の満了後、アメリカ本国へ渡航したいという嘆願書が神奈川県宛てに提出された。神奈川県から嘆願書を転送された外務省は、労働契約期間満了後、アメリカ本国へ渡航する者、ハワイ王国で引きつづき滞留する者については、許可するので願書を提出するよう通知した。
最終的には46人が渡航願書を提出した。渡航希望者46人は年齢も若く、18歳から28歳の男性で平均年齢24.33歳である。アメリカ本国への渡航希望者46人は、渡航目的が明確で、希望職種も具体的に記載され、28業種にわたる。希望職種には「英語執業」や「蒸気器開製造方」などがあり、アメリカ文明の影響下にあるハワイ王国で、強い刺激を受けたであろうことがうかがえる。
こののち同1871年5月3日附で37人が、8月3日附で6人が新たに渡航願書を提出し、渡航願書の提出者は合計89人に達した。ハワイ王国での経験がアメリカ本国への渡航希望をいだかせたのであろう。最初に渡航願書を提出した46人は、のちにアメリカ駐在日本少弁務使(アメリカ駐在日本代理公使)の森有礼【もり・ありのり 1847-1889 鹿児島出身】の管轄下におかれ、「留学生」に準じたあつかいになった。
ここで、ハワイ移民の渡航人数についてのべる。1868年5月に「サイオト号」で渡航したハワイ移民は「153人」というのが定説で、日本政府の見解も同じく「153人」である。ただし、『大日本外交文書 第2巻第1冊』(1940年刊/外務省)にある口入屋の名簿には141人(男性137/女性4/子供0)の名前しかない。
先述のアメリカ本国への渡航希望者89人のうち(男性88/女性1)、口入屋名簿と名前(表記もふくむ)および年齢が一致している人物は12人、名前(表記もふくむ)のみ一致している人物は49人、名前の記載がない人物は28人である(合計89人)。名前のみ一致している人物のうち、口入屋名簿に記載された年齢と±1歳差に収まる人物は12人で、ほかの37人は1歳以上の年齢差があり(最大で18歳の年齢差がある)、別人だといえる。
1871年3月に40人が、9月に12人がハワイ王国から帰国しているが(合計52人《男性45/女性5/子供2》)、帰国者のうち口入屋名簿と名前(表記もふくむ)が一致している人物は36人(帰国者の年齢は記載がないため、口入屋名簿と照合できず)、口入屋名簿に名前の記載がない人物が16人である。渡航希望者と帰国者の合計は141人で、口入屋名簿に記載された人数と一致している。しかし、口入屋名簿に名前の記載がない人物が22人いるため、ハワイ王国からの帰国者には、漂流者がふくまれている可能性がある。くわえて、嘆願書を連名で提出した牧野と仙太郎の2人は、口入屋名簿に名前はあるが帰国していないため、143人の日本人がハワイ王国現地に居留していたことになる。さらに、1868年12月25日の救出を求める嘆願書には、12月25日の時点で4人死亡したと記載されているため、口入屋名簿にある141人から死亡者を除くと137人になり、渡航希望者と帰国者の合計と齟齬をきたしている。
このように数字だけをみると、口入屋名簿に名前の記載がない人物が16人帰国し、28人がアメリカ本国へ渡航したことになる。この44人は、1868年5月に「サイオト号」でハワイ王国へ渡航した日本人=ハワイ移民なのか、1868年のハワイ移民とは無関係の日本人なのかは不明であり、牧野たちが口入屋名簿と帳尻をあわせているようにも思える。
グアム・ハワイと移民の失敗をかさねた日本政府は以降、10年以上にわたり、海外への移民渡航を拒否した。グアム移民の最後の帰国者が日本に到着してから11年後の1883年、日本政府は、イギリス領オーストラリア[現、オーストラリア連邦]北東部のヨーク岬半島沖にあるサーズデー島へ、真珠貝採取の契約労働者として渡航することを許可した(1883年10月18日に37人[潜水夫6/綱持ち6/ポンプ係24/通訳1]が「キューバ号[CUBA]」で横浜港を出港。香港島経由で11月14日にサーズデー島に到着)。
サーズデー島への渡航の背景には、当時のイギリス領オーストラリアにおける日本人ダイヴァーへの需要、があった。これより先の1874年頃、野波小次郎【のなみ・こじろう 島根出身】がイギリス商船の水夫として横浜港から出港し、1878年にシドニーで下船。1859年にニュー・サウス・ウェールズ殖民地[現、オーストラリア連邦ニュー・サウス・ウェールズ州]から分離したクイーンズ・ランド殖民地[現、オーストラリア連邦クイーンズ・ランド州]北部のサーズデー島へわたり、真珠貝採取船のポンプ係になり、のちにパール・ダイヴァー(pearl diver:真珠採り)として名を馳せ、「ジャパニーズ・ノナ」として知られるようになった。こののち1881年には中山民治【なかやま・たみじ 兵庫出身】、1882年には中山奇流【なかやま・よりはる 和歌山出身】と渡辺俊之助【わたなべ・としのすけ 広島出身】がサーズデー島へ来島。野波と同様、中山も卓越した技術で有名になり「ジャパニーズ・キリス」と呼ばれた。こうした背景をもとに、日本人ダイヴァーに対する需要が、真珠貝採取船の経営者のあいだで急増したのである。
日本政府は当初、渡航契約の雇用期間が2年間だったため、1872年11月2日に発布した太政官布告第295号の第3条「平常の奉公人は一ヵ年宛たるべし、尤奉公取続候者は、証文相改むべき事」のなかの「平常の奉公人は一ヵ年宛たるべし」を理由にイギリス領オーストラリアへの渡航許可に難色を示していた。しかし、最終的にはサーズデー島への渡航が許可された。この渡航許可を契機に翌1884年6月には、オーストラリア現地からの呼寄せに応じて、15人がイギリス領オーストラリア北部のダーウィンへ渡航した。そして1885年1月には、契約労働者としてハワイ王国へ渡航することが許可される。
ちなみに、日本人で最初の「純粋な」逃亡者は、塚原昌義【つかはら・まさよし 1825-? 東京出身】と考えられている。塚原は江戸政権で外国惣奉行を務めた人物で、1860年の万延元年遣米使節にくわわっている。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで副総督として全軍を指揮した。しかし、戊辰戦争後の謹慎中に逃亡し、アメリカへわたっていた。1869年6月17日附の『SAN FRANCISCO MORNING CHRONICLE』には、「1868年、サンフランシスコ湾岸のアラメダに『アラメダ・コロニー』を名乗る一群の日本人が入殖している。アラメダ・コロニーを背後で支援しているのは、地元サンフランシスコ出身のヴァン・リード氏である。〈中略〉アラメダ・コロニーのなかには、江戸市の知事がいる」という記事がある(「アラメダ」はカリフォルニア州アラメダ郡[county of Alameda]のこと。1869年6月18日附『SACRAMENTO DAILY UNION』には『SAN FRANCISCO MORNING CHRONICLE』で報道された内容が紹介されおり、「アラメダ郡の土地に日本人入殖地が1年ほど定住している〈中略〉アラメダ・コロニーのうちの1人は、日本の政治的中心地である江戸市の知事[Governor of the city of Yedo]でもあった著名な人物である[colony of Japanese settled for a year on lands in Alameda county〈中略〉One of this Alameda colony was a man so eminent in his own counry that he had once been Governor of the city of Yedo, the political Capital of Japan,]」とある。ちなみに、浦賀奉行や箱館奉行も欧米側から「Governor of Uraga」「Governor of Hakodadi[「ハコダテ」ではなく「ハコダディ」。東北地方出身者が統治していたため、東北なまりがそのまま表現されている]」と呼ばれていた)。さらに、明治維新を体験した人々の談話や演説を収録した『史談会速記録』(1892年9月から1938年4月にかけて出版)には、塚原が会った人に「おまえが自分に会ったことは一言もしゃべらないでくれ」と語ったことが記載されている。「アラメダ・コロニー」は、アメリカ本土における最初の日本人入殖地と考えられる。




