3.3.静かなる警告–台湾からの第一報
2032年12月31日、世界中が新年への期待に沸き立つ大晦日の夜。台北の街は祝祭の光に溢れ、人々はカウントダウンの瞬間に向けて心を躍らせていた。しかし、その喧騒から隔絶された台湾疾病対策センターの地下深く、空調の低い唸りだけが響くサーバー室では、無数のLEDが静かに明滅していた。その一角で稼働していたのが、春凪一の会社が開発・納品した感染症対策AIシステムであった。人間の専門家たちが家族と過ごす中、AIは休むことなく、世界中から集まる膨大な医療データを24時間、365日、片時も休むことなく監視し続けていた。
その、静寂の番人が、突如として未知のパターンを検出した。
台湾南部の病院から報告された数例の非定型肺炎のデータ。その膨大なテキストと数値の奔流の中に、既存のどのウイルスとも異なる、極めて高い感染力と長い潜伏期間を示唆する、あまりにも微細なシグナルを捉えたのだ。人間の目であれば、あるいは見過ごしてしまったかもしれないその僅かな異常を、AIは見逃さなかった。直ちに数百万通りのシミュレーションを開始し、このウイルスがパンデミックを引き起こす確率が、危険なレベルにあると判断。即座に台湾当局の最高レベルの危機管理担当者に対し、最高優先度の警告を発した。
同時に、AIはもう一つの行動を起こした。それは、春凪一が設計した、極めて高度なプロトコルに基づくものだった。AIは、他の国や地域に導入されている姉妹AIシステムに対し、暗号化されたメッセージを送信すべく、担当者の端末に承認確認画面を表示した。
「未知の病原体の脅威を検知。限定的かつ緊急性の高いデータの共有を許可しますか?」
この問いは、国家の機密情報を守りつつ、人類全体の利益のために協力するという、春凪一の思想そのものを反映していた。台湾当局がこれを承認した瞬間、ウイルスの遺伝子情報や感染モデルといった必要最小限の情報が、日本の福岡、千葉、愛知、そして奈良の山深い村を拠点とする春凪AIのサーバーを含む、世界中の春凪AI導入機関へと瞬時に共有された。
* * *
年が明けた2033年1月15日、日本政府は国内で初の感染者を公式に確認したと発表した。このニュースは国中に衝撃を与え、多くの地域が後手の対応に追われ、パニックの淵に沈んでいく。ドラッグストアからはマスクが消え、人々は疑心暗鬼に駆られ、街は静かだが重苦しい不安に満たされていった。しかし、春凪AIを導入していた自治体や機関の風景は、全く異なっていた。
彼らは、二週間以上も前から台湾からの警告を受け、AIによる詳細な感染拡大予測シミュレーションを手にしていた。AIは、どの地域で、いつ頃、どれくらいの規模の感染爆発が起こるかを正確に予測し、マスクや消毒液といった医療資源の最適配分、効果的な接触者追跡ルートの提示、そして住民への冷静かつ具体的な行動指針の通達まで、あらゆる対策を提案していた。その結果、これらの地域では、感染拡大は奇跡的とも言えるレベルで抑制され、医療崩壊も経済の停滞も最小限に食い止めることに成功した。
一方、AIを導入していなかった他の国や地域では、初動の遅れが致命傷となった。感染は爆発的に拡大し、都市は次々とロックダウンされ、経済は麻痺し、数え切れないほどの命が失われていった。テレビの画面には、AI導入地域が冷静に日常を維持する姿と、非導入地域で医療現場が崩壊し、街から人が消えた対照的な光景が、連日映し出された。このあまりに顕著な差は、春凪AIが単なる便利なツールではなく、社会の運命そのものを左右する力を持つことを、全世界に強烈に見せつけたのである。