3.1.役場での接触–静かなる訪問者
2032年8月20日、春凪一は滞在していた移住・定住促進施設「ぶなの森」を後にし、野迫川村役場へと向かった。彼は、これ見よがしな派手な高級車で乗り付けることも、弁護士やコンサルタントをずらりと引き連れることもしなかった。ごく普通の、しかし手入れの行き届いた国産車を自ら運転し、奇をてらうことのない落ち着いた仕立ての服装で、一人の訪問者として役場の扉を静かに開けた。彼の物腰は、巨大プロジェクトを動かす億万長者のそれではなく、この土地と、ここに暮らす人々への深い敬意を払う、一人の思慮深い初老の紳士のものであった。
「こんにちは。少し、お話を伺えないでしょうか」
春凪一は、産業課の窓口にいた若い職員に、丁寧な態度でそう声をかけた。彼の目的は、土地買収の交渉や、一方的な計画の発表ではなかった。彼はまず、この村の歴史、文化、そして何よりも人々が何を大切にして暮らしているのかを、自身の耳で聞きたいと伝えた。
その言葉に、職員は一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。これまで村を訪れた者たちは皆、口を揃えて経済効果や雇用の創出といった言葉を並べ立てた。だが、この男は違う。彼のその誠実な態度と、時折垣間見える知性の鋭さに興味を引かれた職員は、多忙な業務の合間を縫って、彼を小さな応接室へと通した。
古びた長机を挟んで向かい合った二人。春凪一は、そこで初めて自身の共同体構想の輪郭を語った。しかし、その説明は、経済効果や最新技術の導入といった華々しい側面を強調するものではなかった。彼が語ったのは、「静寂」と「責任」という、現代社会が失いつつある価値観を核とした共同体のビジョンであった。彼は、この村が持つ穏やかな空気、澄み切った水、そして夜の静寂こそが、彼の理想にとって最も重要な、金銭には換えがたい資源であると力説した。
その言葉は、これまで数々の地域振興策や開発計画の話を聞いてきた職員の心に、これまでにない新鮮な響きをもって届いた。この訪問者は、村から何かを奪うのではなく、村が既に持っている最も貴重なものを「守る」ために来たのではないか。そう直感した職員は、その場で村の住民代表との面会の場を設けることを約束する。それは、春凪一の理念が、初めて公的な信頼を得た瞬間であった。