2.3.野迫川との邂逅
九死に一生を得た春凪一は、もはや一刻の猶予も、そして一分の疑念も抱かなかった。砂浜で意識を取り戻したその足で、彼は啓示に従い、直ちに「のせがわ」について調査を開始した。彼の思考支援インターフェースが弾き出した答えは、奈良県の山深くに実在する、一つの村だった。野迫川村。2032年現在、人口約300人という、いわゆる過疎の村である。彼は村の移住ポータルサイト「nokuru」で、簡素だが誠実に綴られた村の紹介文と、数枚の美しい風景写真を食い入るように見つめ、そして、迷うことなく移住・定住促進施設「ぶなの森」に宿泊予約を入れた。
2032年8月18日の夕刻、彼は現地調査のため、一人で車を走らせていた。村へと続く道は、降りしきる雨に濡れた、険しい山道だった。
錆びついたガードレールの外は、吸い込まれそうなほど深い谷底へと落ち込み、対向車とすれ違うのも困難な狭い道が、どこまでも続く。ワイパーが、まるでメトロノームのように単調なリズムで、フロントガラスの雨を絶え間なく払い続ける。鬱蒼とした木々が空を覆い、まるで緑のトンネルの中を進んでいるかのようだった。それは、俗世から聖域へと向かうための、現代における巡礼の儀式のようでもあった。
彼の内なる理性が、その片隅で「本当にこんな場所なのか?ただの偶然、あるいは疲労が見せた幻覚だったのではないか?」と、冷ややかに囁きかけてくる。彼は、那智の海で死の淵をさまよったあの瞬間の、絶対的な確信だけを頼りに、その理性の声を必死で振り払っていた。
長い時間をかけて、ようやく移住・定住促進施設「ぶなの森」に到着した頃には、日はとっぷりと暮れ、あれほど激しく降り続いていた雨も、嘘のようにぴたりと止んでいた。車のエンジンを切ると、世界から一切の音が消え失せたかのような、圧倒的な静寂が彼を包み込んだ。聞こえるのは、雨に洗われた木々の葉から、ぽつり、ぽつりと滴り落ちる水の音だけ。車から降りて空を見上げた彼は、息をのんだ。そこには、天の川が、まるで白い帯のようにくっきりと見えるほどの、無数の星々が輝いていた。都会の光害に汚されていない、本物の夜空だった。
そして、その時だった。
空気が、ほんの僅かに振動した。直後、北の空、霊峰高野山のある方角が、ふわりと、名状し難き「優しい光」に包まれ、そして静かに消えていった。それは、かつて平維盛の死の際に記録された現象と、あまりにも似ていた。幻ではない。これは、天からの承認の印だ。この地こそが、自分が探し求めていた運命の場所なのだと、春凪一は確信した。
* * *
翌8月19日の朝、施設の管理人に勧められ、彼は近くの展望台へと向かった。そこで彼が目にした光景は、彼の理想郷のイメージを、もはや揺らぐことのない決定的なものにした。
眼下には、見渡す限りの雲海が広がっていたのだ。
彼が逃れてきた世界の騒音も、対立も、醜悪さも、すべてがその純白の雲の下に隠されている。静寂と美だけが支配する世界。それは、彼が構想してきた共同体の理念そのものが、大自然によって具現化された姿だった。この圧倒的な美しさは、春凪一の心を捉えて離さなかった。ここだ。ここでなければならない。
彼は、野迫川村の「過疎」という現実が、もはや障害ではなく、むしろ彼の構想にとって最大の好機であると、この時、はっきりと理解した。少人数であるからこそ、一人ひとりと向き合い、丁寧な合意形成が可能になる。そして何より、この村が持つ静けさと美しさは、過疎であったからこそ、現代の喧騒から奇跡的に守られてきたのだ。
この村は、彼が埋めるべき「空白」なのではない。彼が守り、未来へと受け継いでいくべき、かけがえのない「器」なのである。彼の計画は、この地を征服することではなく、この地の守り手の一人として加わることなのだと、春凪一は深く悟った。
「優しい光」と「雲海」は、この地が彼の理念である「静寂」と「美」を、何よりも雄弁に、そして完璧に体現していたのである。