1.2.方法論の模索と理念の具体化
共同体設立という、あまりに壮大な決意を魂に刻んだ春凪一は、しかし、熱狂に浮かされることなく、その翌日から、自らを冷徹な現実主義者の椅子に深く座らせた。彼の書斎は、外の世界のあらゆるノイズから遮断された、完璧な静寂の空間だった。そこに置かれているのは、選び抜かれた数冊の古典と、最新の演算能力を持つ思考支援インターフェースのみ。彼は、その静寂の中で、途方もない目標へと至る道筋を、一つひとつ、慎重に手探りし始めた。
武力をもって既存の秩序を覆し、新たな版図を切り拓くという選択肢は、彼の思考の俎上にすら上らなかった。それは、彼の平和を希求する信念とは水と油であり、何より、彼が最も嫌悪する「騒音」と「暴力」の究極的な発露に他ならなかったからだ。彼の理想は、血と硝煙の匂いとは無縁の場所でこそ、静かに花開くべきものだった。
代替として彼の思考が巡ったのは、より穏健で、法治の枠組みの中で実現可能な道であった。彼は、自らが持つ広範な人脈の中から、国内で最も信頼の置ける法律家と社会学者を、数名だけ密かに自邸へと招いた。
* * *
「――つまり、私が構想しているのは、特定の理念を共有する人々による、高度な自治権を持ったコミュニティです」
春凪一は、書斎の暖炉の前に座る、旧知の老弁護士、坂本に向かって静かに語りかけた。坂本は、春凪一の言葉を最後まで遮ることなく聞き終えると、深く息を吐き、ゆっくりと首を横に振った。
「春凪さん、お気持ちは痛いほど分かります。しかし、法的な観点から言わせていただければ、それは限りなく不可能に近い。地方自治法、国土利用計画法、そして何より、この国の統治の根幹をなす憲法。それらが、いかに強固な壁として立ちはだかるか……。既存の行政区画の中で、あなたが望むような絶対的な自治権を持つ『特別区』を創設するなど、前例がありません」
坂本は、言葉を選びながら続けた。
「仮に、宗教法人格を取得し、その治外法権的な領域に共同体を形成するとしても、それはあくまで限定的なもの。あなたが目指すような、独自の社会システムを完全に実装することはできないでしょう。既存の日本社会に深く染み込んだ価値観や、複雑に絡み合ったシステムを根底から覆し、新たな秩序を打ち立てるには……失礼ながら、下手をすれば『千年単位』という、我々の個人の一生を遥かに超える時間スケールでの意識変革が必要になるかもしれません」
その途方もない事実に、春凪一は一種の絶望にも似た感覚を覚えていた。彼の構想する共同体の魂は、深く日本文化に根差すものであった。それゆえ、その揺籃の地は、必然的に日本の国内であることが望まれた。しかし、その道は、今、専門家の冷静な分析によって、事実上閉ざされた。
* * *
その夜、春凪一は一人、書斎で巨大なホログラムの地球儀を前に、瞑想に耽っていた。彼の思考は、既存の枠組みを飛び越え、より自由な発想の翼を広げ始める。彼の視線は、地球儀の上を滑り、いずれの国家の主権も及ばない「無主地」と呼ばれる領域にまで注がれた。南極大陸の奥深く、マリーバードランドのような氷雪に閉ざされた大地。あるいは、さらに思考を飛躍させ、月や火星といった地球外の天体に、新たな文明の種を蒔くという、SF小説さながらの壮大な構想も、彼の脳裏を一瞬よぎった。
そこは、しがらみのない、完全な白紙のキャンバスだ。彼の理想を、何ものにも邪魔されることなく描き出すことができる。
しかし、と彼は思う。
彼が真に求めていたのは、無機質な大地や、人間的な温もり、歴史的な連続性から切り離された真空の世界ではなかった。彼が夢見るのは、四季の繊細な移ろいを肌で感じ、豊かな文化の香りが息づく土地での、血の通った共同体の創造だったからだ。彼が心に描く理想の共同体は、単に個人的な理想を投影した「ミクロネーション」のような箱庭を作ることを目指すものではない。それは、より普遍的な理念に立脚し、持続可能で、現実的な社会モデルとして世界に提示しうるものでなければならなかった。その意味において、極寒の地も、遥かな宇宙空間も、彼の最終的な選択肢とはなり得なかったのである。
この一連の思索の旅路は、春凪一が、単に理想を語る夢想家ではなく、その理想を現実の土壌に根付かせるために、冷静かつ実践的な手段を粘り強く探求する行動家に他ならないことを示している。武力という選択肢を初めから放棄したことは、後に誕生する共同体が、軍事力に頼らない平和的なものとなることを運命づける、極めて重要な分岐点であったと言えるだろう。それは、目的の崇高さと、それを達成するための手段の清廉さを、分かちがたく結びつけようとする彼の誠実な姿勢の表れでもあった。
こうして、あらゆる可能性を思考の俎上で検討し尽くした結果、一つの道筋だけが、微かな光を放って彼の前に残された。
――日本国内で、既存の社会から隔絶され、それでいて、豊かな自然と文化の香りを失っていない場所。そのような「聖域」を見つけ出し、そこに住まう人々と、魂のレベルで合意を形成すること。
それは、最も困難で、最も繊細な、しかし唯一残された道であった。彼の探求は、次の段階へと移行する。理想の地を、その足で探し出す旅が、今、始まろうとしていた。