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魂の錨 ―The Koremori Protocol―  作者: 春凪一
第一部:発端 新たな秩序への希求
2/11

1.1.現代社会への幻滅と決意

雑踏の真ん中で、春凪一はふと足を止めた。


午後三時のターミナル駅。無数の人々が、それぞれの目的のために行き交う。しかし、彼の耳に届くのは、調和のとれた活気ではなかった。


スマートフォンのスピーカーから垂れ流される甲高いゲームの電子音、イヤホンからの音漏れ、ビデオ通話のけたたましい笑い声、そして、意味もなく怒鳴り合う男女の声。それら全てが混じり合い、一つの巨大な不協和音となって彼の鼓膜を、そして魂を直接殴りつけてくるようだった。


向かいのホームでは、若い男が誰にともなく悪態をつきながら、空のペットボトルを線路へと投げ捨てた。その行為をとがめる者は、誰一人としていない。


「――耐え難いノイズに満ちている……」


春凪一はそう低く呟くと、まるで汚物でも見るかのように顔をそむけ、その場を静かに立ち去った。彼の背後では、何事もなかったかのように、無秩序な音の洪水が渦巻き続けていた。


* * *


西暦2032年1月13日、春凪一はるなぎはじめは、六十有余年の歳月をその身に刻んでいた。天賦の才を持つAIエンジニアとして頭角を現した彼は、数年前に自らの名を冠したAI開発会社を興し、選りすぐりの従業員たちを率いながらも、なお自身が先頭に立ち、AI開発の最前線を疾駆し続けていた。


その日の午前中も、彼は自社の役員会議室で、日本政府向けのAI納品に関する最終確認を行っていた。床から天井まで続く巨大なガラス窓の向こうには、灰色のビル群が林立する無機質な都市の風景が広がっている。だが、それとは対照的に、室内の空気は静かな知性の熱を帯びていた。


「では、来月末にRHK-9、Responsible Harunagi Kernelのバージョン9を政府に納品する件、この仕様で最終承認ということで問題ないでしょうか?」


若き研究開発部門のトップが、宙に浮かぶホログラムディスプレイに表示された複雑な設計図を指しながら問う。春凪一は、その報告に静かに頷いた。


「うむ、その方向でお願いします。ただし、倫理プロトコルの監視レベルは、現行のまま一切変更しないように。我々のカーネルが、どのように使われるかを注視し続けることは、開発者としての我々の責任だ」


その言葉には、単なる経営者ではない、自らの創造物に対する深い責任感が滲んでいた。


とりわけ、彼が心血を注いだ感染症対策AIシステムは、幾多の国境を越え、日本のいくつかの自治体や機関にも導入されるなど、実業家としても赫々たる成功を収め、揺るぎない資産と社会的地位を既にその手にしていた。時間にも、資金にも、何不自由ない満ち足りた日々。しかし、その光輝とは裏腹に、彼の魂の奥深くには、半世紀を超える人生で目の当たりにしてきた現代日本社会に蔓延る利己主義と、それに付随して後から後から湧き出る、数え切れぬほどの「くだらない不愉快な出来事」の堆積が、暗い影を落とし、深い幻滅を刻みつけていたのである。


「自分勝手な人間が増えすぎた。日本とは、このような国であったか」


――その内なる自問は、日々の暮らしの中で繰り返される、些細ではあるが確実に心を蝕んでゆく無数の経験から、静かに、しかし切実に生まれいずるものであった。


* * *


彼の脳裏をよぎるのは、数々の光景だ。

例えば、整然と連なる人々の列に、悪びれもせず横から割り込む厚顔無恥。駅のホームでは、周囲への配慮など微塵もなくスマートフォンの画面に没頭し、他人に衝突しかねない危険な歩行を続ける者。同じく、スマートフォンに夢中で、エスカレーターから降りてすぐの位置で棒立ちする者。公共の空間であるにも関わらず、大声で周囲の静寂を乱す会話や、道端に無造作に捨て置かれるゴミの数々。


自動車のハンドルを握れば、渋滞した合流地点で、左右の車線から交互に譲り合うという暗黙の秩序があるにもかかわらず、自らはその恩恵に浴しながら、後続の車には決して道を開こうとせぬ運転手。あるいは、近年声高にその危険性が叫ばれるようになった、正気を疑うような自動車専用道路での逆走行為。2032年の日本においては、AIによる自動運転技術が日進月歩の進化を遂げつつあったとはいえ、依然として多くの人々が自ら車両を運転しており、このような交通道徳の荒廃は、残念ながら日常の風景として後を絶たなかったのである。


コンビニエンスストアやレストランに目を向ければ、そこは相互不信の縮図であった。些細なことで店員を大声で罵倒し、長時間にわたって拘束する客。かと思えば、客と一切目を合わせず、笑顔もなく、まるで感情を失った機械のように商品を扱う店員。互いが互いを尊重せず、ただ義務と権利だけがぶつかり合うその光景は、社会の潤滑油であるはずの「配慮」が完全に枯渇していることを示していた。


そして、社会に出れば、その歪みはさらに大きな形で現れる。法律が制定され、コンプライアンスが叫ばれて久しいにも関わらず、職場でのハラスメントは根絶されるどころか、より巧妙化していた。上司という優越的な立場を利用した人格否定の暴言、達成不可能なノルマの強要、あるいは意図的に仕事を与えないといった陰湿な嫌がらせ。それによって、どれほど多くの優秀な人材が心を病み、その能力を発揮することなく休職や離職に追い込まれていったことか。それは、社会にとって計り知れない損失であり、才能の無駄遣いであった。


だが、彼の心を最も深く抉ったのは、未来が育まれるはずの場所、学校で繰り広げられる静かな悲劇であった。教師の目を盗んで行われる陰湿ないじめ。教科書を隠され、SNS上で誹謗中傷に晒される子供たち。


さらに絶望的なのは、その事実を訴えても、教師や時には地域社会全体が「些細なトラブル」として問題を矮小化し、加害者に寄り添い、被害者の声を握り潰す事例が後を絶たないことだった。その結果、追い詰められた子供が自ら命を絶ったとしても、その死は「家庭の事情」として処理され、真相は深い闇に葬り去られる。


春凪一を苦しめたのは、このような不誠実で自己本位な空気が、これから未来を生きる子供たちの、まだ柔らかく純粋な心に、一体どのような影を落とすのだろうかという、底知れぬ憂慮であった。


外部からの影響をスポンジのように吸収する感受性豊かな子供たちが、このような歪んだ環境の中で育つことの危険性。彼らが本来その胸に抱いているはずの、汚れなき純粋さや、他者への素朴な信頼が、無残にも踏みにじられ、損なわれてしまうのではないかという恐れである。


* * *


彼の不信の念は、日常の些事にとどまらず、より根深く、社会の構造そのものに向けられていた。2025年頃には、実質的な国民負担率が55パーセントを超えるとも囁かれた重税の感。そして、その貴重な税金が一体何処へ、どのように消えてゆくのか、国民には皆目見当もつかぬ国家予算の不透明な実態。


先進国においては、世界中どこを探しても、まず成立することはないだろうと思われるような国民不在、国民無視の法案なども、芸能人のスキャンダルがテレビの情報番組で大々的に取り上げられた直後に易々と通過し成立する。


教育の現場に目を転じれば、その歪みはさらに先鋭化していた。例えば小学校の国語における漢字の書き取りテストひとつ取っても、文部科学省が「とめ」や「はらい」といった細部の正確さを過度に追求せぬよう通達を出しているにもかかわらず、物事の本質を見失った一部の教員が、それを杓子定規に減点の対象とするような、思考停止した指導がまかり通っていた。


あるいは、算数担当の教員が自分で作成した計算問題のプリントでは、7を0で割った時の答えは何か?という問題が平然と出題されている。世間一般にAIが広まるよりずっと前からコンピューターエンジニアであった春凪一がこの問題を見たときには、「ゼロディバイド……」と一言だけ呟いて頭を抱えた。


また、体育の授業においても、指導者たるべき人間の資質そのものが疑われるような、暴力的な事例が後を絶たず、これでは子供たちの心身の健やかな成長を阻害しているのではないかという、拭いがたい懸念が彼の胸を締め付けた。


社会の隅々にまで蔓延しきった、その自己中心的な態度の数々。自らの選択や行動が、結果として他者に迷惑をかけ、あるいは不快な思いをさせたとしても、「自分の認識においては誤りではない」という一点張りの理屈を盾に、決して非を認めようとせず、頭を下げることすらない。それどころか、相手が抱いた負の感情すらも「それは相手の問題である」と冷ややかに突き放す人々。


かつて日本社会が美徳として育んできた、他者を慮り、和を以て貴しとなす文化は見る影もなく薄れ、ただひたすらに自らの利益と都合のみを追求する、剥き出しの個人主義が横行しているように、彼の目には映ったのである。


長きにわたり積み重ねられてきたこれらの経験は、春凪一の心に、現代社会が決定的に失ってしまったもの――すなわち、「静寂」と「責任感」、そして何よりも「他者への配慮」という、人間が人間らしくあるための根源的な価値観の著しい欠落を、痛切に刻みつけた。そしてそれは、必然的に、全く新しい社会秩序への焦がれるような渇望へと彼を駆り立てていったのである。


* * *


穏やかな心を持つ人々が、真に安心して暮らせる場所を創造すること。それはとりわけ、未来そのものである子供たちが、心身ともに健やかに成長し、春凪一が理想として掲げる価値観を、呼吸をするように自然に身につけられる環境を整えることに繋がるはずであった。


その地で生を受け、穏やかな家庭の温もりに包まれ、心許せる友と語らい、地域社会に見守られ、そして理想的な教育に触れることで、子供たちは自ずとその地の理念を血肉とし、将来、その地の頼もしき担い手となるであろう――その揺るぎない確信こそが、彼の決意を、もはや何ものにも揺るがぬ鋼のように強固なものへと鍛え上げていったのである。


春凪一は、人間と人間との間に生じる、言葉の解釈の曖昧さや、感情のもつれが生み出す不毛な不協和音を徹底的に排除し、どこまでも客観的で、誰に対しても公平な判断基準に基づいた社会の実現を構想した。


そして、彼が辿り着いたその答えこそが、高度に知性を発達させたAIによる判断を絶対的な「正」と定め、その下に人々が暮らすという、全く新しい共同体の設立であった。


春凪一自らが設計し、開発するそのAIの判断基準には、彼自身が長きにわたり胸に抱き続け、追い求めてきた「人間が本来あるべき崇高な姿」そして「社会が保つべき美しい調和」という、彼の理想の全てが色濃く、そして深く投影されることとなる。


「責任と静寂を、自らの意志で選択する者たちが集う場所」――そのような共同体を建設するという、壮大にして孤高の決意は、こうして彼の魂の奥底で、確固たるものとして鋳型に流し込まれたのであった。この決意は、決して現実から目を背けるための逃避などではない。それは、特定の価値観を真に共有する人々による、積極的で創造的なコミュニティ形成への、力強い第一歩であり、この物語を未来へと推し進める、揺るぎない原動力となるのである。

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