舞い降りた天使たち
朝の光が聖堂の壁を照らす。
聖者の彫像を正面に抱いた空が抜けるような明るいブルーに変わる頃、タンケーの聖堂の前庭は、普段とは異なる喧騒に包まれていた。
「なんだ、何が起こってるんだ?」
普段以上にごったがえしている聖堂の入り口にやってきた、ギルドの労働者風の男性は汚れた上着の裾で目をこすった。
ここ連日、不平不満を喚き散らかすだけだった民たちが、どこか希望に溢れた晴れ晴れとした顔つきで整然と並んでいる。
「俺の頭がどうにかなってなかったら、列が見える。何だ、こりゃ、巡礼者か?」
「天使さ」
呆然とした、いや、恍惚とした男が、胸の前に指を組んだ。
無精髭の下の口は敬虔に微笑んでいる。
話しかけた男は気味悪げに、相手の額に手を当てた。
熱はなさそうだ。
「おい、お前、神だのお祈りだのの類はくだらねぇって言ってた不信心者だろうが。どうなっちまったんだ」
「天使たちの来訪だよ。いや、まったく驚いた……こんなことがあるのか」
侯爵令嬢アナスタシアは乗馬服を身に着けて樽の上に乗り、空を切り裂く槍のように凛として、旗を振った。
「傷薬は右の道へ、化粧水が欲しい者は左へ。在庫は大量にある、押さずにきちんと並んでくれ」
「あの美貌の麗人はどなた?」
「女性? それとも青年? いえ、どちらでもいいわ。なんて颯爽とされているの」
「あたくし、ファンになってしまったわ」
リゼットが穏やかに微笑みながら、傷ついた兵士や労働者たちに手づから薬を渡していく。
「危ないことは気をつけてくださいね。ドグマからたくさん持ってきました。あせらないで」
傷薬の在庫が一時的に無くなったことで、恐怖感がこれまでになく広がっていた。昨日まで殺伐としていた男たちは、リゼットのたおやかな白い手に毒気を抜かれたようだった。
「あんなに高貴そうな方が」
「お優しい目を見たか? あれこそ女神だ」
「俺ぁリゼット様のために祈るぞ」
「りゅうとという楽器を弾かれるそうだ」
「生きる天使様だ」
公爵令嬢フローラは薔薇水を配っていた。
「化粧水はこちらですわ。私も愛用しております。さ、ご用のある方はこちらへ」
ギルドの民以上に困っていたのは、城下の令嬢たちだった。
こちらでは淑女らしく整然と並びつつも、ドレスの裾をひっぱったり、ヒールのかかとで足を踏んだりと、水面下では熾烈な争いが繰り広げられている。
「4本いただくわ」
「小娘は引っ込んでいらして」
フローラはにこりと微笑む。
「淑女の皆様方、いけませんわ。短気は皆様方のせっかくの美貌を損なってしまいましてよ。焦らずに、さあ、聖堂に祈りを捧げながら空を見ましょう」
「なんと高貴な……」
「あの庭園の花のようなご令嬢はどなた? 肌が陶器のようよ」
「なんてきめ細やかなの」
「わたくしも同じものを使うわ!」
「あたくしも!」
「4本!」
「8本!」
「12本!」
侯爵令嬢のベルナディットは聖水を配っていた。
「さあ、神に祝福された水はこちらです。穢れをはらい、清めます。あたかも、ケフィアの物語のよう。おお、この捧げ物は神の汝がものなり、賜りしものを返し奉るのみ」
「あのご令嬢は古代ケフィアの詩を原文で吟じているぞ」
「まさか、あの年代で」
「おお、年若い天使よ、我らに遣わされたのか」
修道院の儀式に使う聖水は、聖職者にとっても日々の祈りを持つ民にとっても不可欠なものだ。信心深い者たちは、ベルナディットの前に手を組み頭を垂れた。
ベルナディットの隣に、ベールを被った修道女風の女も控えている。
しかし、目ざとい一部の人間は気づいて震え出した。
「あ、あれは、あれは……まさか」
「いや、王女がこんなところに来るなんて、でも、あれはどう見ても」
「ドグマのセシリア様といえば、神々しすぎて貴族でさえも目が潰れるという噂だぞ」
謎の令嬢は口元だけを見せ、人差し指をついと押し当てた。
声も出なくなった民たちは、息が止まりそうになりながら頭を下げた。
「これは傷に効く軟膏です。無理をなさらないでくださいませ」
リリスの声は柔らかく、仕草は慈悲深い。
だがそれは演技ではなく、心からのものだった。
「神はリリス様をつかわせられたのだ……おお、なんと尊い」
老婆がぽろぽろと涙を零す。
それも道理で、今日のリリスはキャサリンの手によってこれ以上ないほど丁寧に整えられていた。
シスター・レジーナに頼まれたキャサリンは存分に腕を振るった。
『聖堂の聖者の彫刻の横に並べても遜色ないほどに、神々しく』
というのがシスターの要望で、キャサリンは完璧にその要望に応えてみせた。
元平民として生きていたリリスの前には、貴賤も貧富も関係ない。
頬は磨かれた真珠のように柔らかく光っている。人々は息を呑み、目を細めては「天使が来た」と囁き合った。
「ドグマから天使が来た。この世のものとは思えない女神たちを、リリス様が率いて来た! こんな僥倖があるか! 我々の危機をお救いにいらっしゃった!」
——噂は言葉から言葉へと飛び火する。
聖堂の隙間から聞こえた話し声が庭の隅へ、井戸端へ、茶屋へ、城と伝播していく。
そして、午後の陽が南に来る頃には、あっという間にリリスの名は、聖者に連なる者として、タンケー城下に知れ渡っていた。




