王宮生活開始
新婚ほやほやの妃、リリスは王宮生活を満喫していた。
問題の夫はスーモ国の視察に遠征に行かなければならないということでしばらくは不在だった。
第3王子の住居も本殿からは離れている。
つまりは、噂は駆け巡る。
王宮に出入りする貴族たちも、本殿から布やら水やらパンやらを運ぶ下働きのメイドたちも、口さがなく囁き合った。
「第三王子が娶られたタンケ―国のお妃様は、ダリオン様に嫌われているそうよ。初夜も別々に寝られて、すぐに遠征に行ってしまわれて」
「もちろんそうなると思っていたわ! だって見た? リリス様はあどけなくて、ほっそりされていらして……ドグマにだって初めて来られたのでしょう? 言い方は悪いけれど、まるで捕まえられた子ウサギのようだったわ。ダリオン様のような猛々しい殿方の奥方稼業なんて、とても無理じゃないかしら」
「ええ。我がドグマの『赤い魔王』ですもの。簡単に外国の女なんかになびきませんわね」
「あら、失礼よ。でも……女性というより子どものようだったわね? 『魔王』にはとてもとても……」
「釣り合わないわ」
「やだわ、そんな、はっきりおっしゃって」
「ねぇねぇ見た? ダリオン殿下の奥方様」
「見たわよ! ダリオン様がすぐに出ていってしまわれてお可哀そうだったわ」
「うまくいかないのかしらねえ」
「あたしたちには分からないけれど、尊い方々っていうのもいろいろあるのねえ」
「新婚なのにねえ」
「これは聞いた話だけど……本殿のパーティーにも呼ばれていないそうよ。貴族同士のお茶会だとか、晩餐会にも。きっと外国から嫁がれたリリス様を省こうとしているんだね。新しい環境に体調を崩されて、しばらくは養生されるからとか何とか理由をつけて」
「ていのいい無視ね。お可哀そう」
「ダリオン様も守ってあげればいいのに」
「そうね、でも『魔王』だから……妻なんか子どもを産む道具としか思っていないのかも」
「うわあ、悲惨ね」
そんな外野はさておき、お茶会だの何だの、挨拶巡りをしなければならないと思っていたリリスは拍子抜けしていた。
実のところいくつかの公式行事や、好奇心旺盛な貴族によるティーパーティーの誘いは届いていたのだが、
「リリス妃は体調を崩されているので」
という文言で、キャサリン・バーナーズが全てを断っていた。
キャサリンとしてみれば、リリス妃が翡翠のような淑女に仕上がるための準備期間が数週間必要だった。
しかし、リリスにとっては違った。
普通であれば、周囲の貴族から無視され虐められているのではないかと考える場面でも、リリスの思考は別にあった。
正直なところ、お茶会だの何だのはどうでもよかった。
宝石とドレスが自分の興味の何に役立つだろう?
持たざる者は強い。
つまりは、この本殿の中において、リリスは最も自由だった。
「ふわぁ……」
物置部屋――否、『研究室』で、リリスは至福のため息をついた。
かつてのこの部屋は薄暗く、切れた電球に埃がかぶさっているような有様だった。錆びついた器具や足の折れた家具が積み重なって、蜘蛛の巣が天井の隅に張り付いていた。
しかし、今はまるで別の空間へと変貌していた。
もともと大きな窓はぴかぴかに磨かれ、柔らかな陽光が中庭から差し込んで、ろうを塗って磨いた木の床を明るく照らしている。棚にはガラスの瓶が整然と並び、それぞれに淡い琥珀色や透明な液体が満たされ、手書きのラベルが貼られていた。
古くすすけた長机は磨きなおすと、しっかりとした材質の良いオークの太い木枠であることが分かった。
端が少し欠けているが、問題はない。
その机には精油を垂らすスポイト、白い陶器のアロマポットが並んでいる。
書物と対角線上には小さなキャンドルがあった。
火を灯せば、ほのかな柑橘の香りが部屋全体に広がる。
天井の梁からは乾燥させた花や植物の束を吊るした。
もともとあった物を埃をとってまとめただけなのだが、分類しやすく、何よりも見ていて美しい。
ここは天国だ。
リリスはうっとりと本の背を撫でた。
いったい誰の物だったのだろう。
香草学の元祖レーネ・モリスの初版本だ。
博物館に飾ってあってもいい代物である。
気を抜けばよだれが出そうになる。
危ない。
こんなに貴重な物を汚してしまっては、後世に顔向けできない気がする。
「ジーン・バーネット……マルガレーテ夫人……ハァ……古典本かと思ったらティーズリンドみたいな現代本もある……ハァァ……最高……」
この黄金にも代えられないような数々のシリーズ本を発見したとき、リリスはもうこの物置部屋の長机に転生してもいいという気にさえなった。
いったい誰が置いたのか分からないが、天才だ。
このシリーズの並びは古典から現代の、おさえるべき所を全ておさえている。
リリスはぼんやりしながら読後の余韻に浸っていた。
すると、そこに来客が登場したのだった。
やれやれ顔のキャサリンに連れられて入って来たのは、王宮のシェフのグレッグだった。
「失礼いたします。リリス様」
「あら! グレッグさん。もう腰はよろしいんですか」
「おかげ様で……いやあ、香草というのはすごいですな。この年になって教えられたような気分ですよ」
リリスがグレッグに渡したのは、特製の精油だった。
王宮のシェフがぎっくり腰でふせっているという情報をキャサリンから聞いたリリスは、いてもたってもいられずに駆けつけた。常識的に妃がとか、王宮の領地に与えられた特別な使用人のための住居とはいえ、であるとか、キャサリンの有難い忠告も耳にしていたが、左から右へと聞き流した。
この物置小屋のかなりの部分を片付け終わり、喜びのあまり神経を興奮させていたリリスとしては、研究成果を試すことができるまたとないチャンスである。
矢も楯もたまらず、半泣きで文句を言うキャサリンを連れて、初対面のグレッグの住居まで小一時間歩いていった。
もちろん警戒されたが、相当痛かったのだろう。
グレッグも最終的にはリリスの提案をのんでくれ、そして今に至る。
この様子だと効いたようだ。
「経過はいかがでしたか」
と尋ねながら、リリスは手元の紙束を開いた。
久々に記録を取れる。
わくわくして仕方がない。
グレッグは腰の痛みの経過を丁寧に報告してくれた。
「いやあ、痛みがふっと和らいでね」
「ふむふむ……ラベンダーは万能なんですよね。痛みを和らげてくれますし。あとですね、ローズマリーは血行を促進し、筋肉のこわばりをほぐすんです。ミントが入っていたので、少しひんやりしたと思います。鎮痛作用があるので、部分的な痛みには効果があるかと」
リリスはいそいそと棚のところまで歩いていって、茶色い小瓶を取り出した。
「今日からはこちらをおすすめします。植物油にレモンとユーカリを混ぜています」
「レモンってあのレモンかい」
「はい。抗炎症作用があるので腰の痛みにはいいと思います。ですが、柑橘系は光毒性があるので、日焼けには気を付けてください。赤くはれたり染みになったりしてしまいます。あと、妊婦さんや子どもには刺激が強いのであまりおすすめしませんが……あと、柑橘は揮発性が早いんです。半年以内に使い切るようにしてください。さもなければ毒になってしまいます」
「そうかい。はあ……長い間レモンと付き合ってきたが、こんな効果があるとは知らなんだ」
グレッグは帽子をとり、丁重に頭を下げた。
「リリス妃の真心と優しさに感謝いたします」
「いえ、そんな。頭をあげてください!」
その時、バタンと扉が開いた。




