エピローグ「この夏を、君に還す」
目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは、
ピッ、ピッと刻まれる心電図の電子音だった。
瞼が重く、身体の感覚はまだ朧げだったけれど――
確かに、私は“現実”に戻ってきたのだと、理解した。
目の前には、ガラスの向こうで肩を震わせて泣く母の姿。
その隣で、父が静かに目頭を押さえていた。
でも、その後ろに――
たったひとり、私をまっすぐ見つめる青年がいた。
透き通るような黒い瞳。
私が、ずっと忘れられなかったその目が、私を射抜いていた。
(……海翔……?)
扉が開き、彼が駆け寄ってくる。
病室の空気が一瞬、息をのむように張り詰める。
そして彼が、震える声で名前を呼んだ。
「……凪紗……!」
その瞬間、私の視界は涙で滲んだ。
「……海翔……っ」
彼の手が、私の手をそっと握る。
懐かしくて、あたたかくて、でも確かに“今の”私たちの温度だった。
「生きててくれて、ありがとう――」
彼の額が、私の手の甲にふれる。
私は弱々しく微笑んで、言った。
「……また、恋しよう?」
退院したのは、それから二週間後。
私たちは同じ日に意識を取り戻し、奇跡的に後遺症もなかった。
医者たちは、“神様に選ばれたんだよ”なんて冗談交じりに笑ったけれど――
私と海翔だけは知っていた。
私たちは選んだのだ。生きることを、ふたりで。
その夜、彼の部屋へ行った。
見慣れた家具、学生時代と変わらない本棚、
そして、壁にかかったダイビングマスク。
全てが変わらずにあって、でも、何もかもが新しく見えた。
「シャワー、先に浴びてきなよ。タオル、ここ」
「……うん」
借りたシャツを着て部屋に戻ると、彼がソファに座っていた。
見慣れたはずの彼の背中が、今日は少しだけ遠く見えた。
「……ねえ、こっち、来て」
私がそっと呼びかけると、彼は静かに立ち上がり、
私の前にしゃがんで、膝の上に頭を預けた。
「本当に、生きてるんだな、俺たち……」
「うん。やっと……届いたんだと思う、想いが」
「夢みたいだよ、まだ。こうして君の匂いを感じて、声を聞いて……手を握ってるのに、
次の瞬間、また目を覚ましたら、あの島に戻ってそうで……怖いんだ」
私は、彼の頬を両手で包んで、ゆっくりと唇を重ねた。
「……ねえ、証明しようよ。
今度こそ、私たちはちゃんと生きてて、愛し合ってるって――体で、心で」
彼が息を呑むのが分かった。
でも、もう止める理由なんてなかった。
心も体も、すでに全部、彼に向かっていた。
ベッドの中で、彼の手がゆっくりと私の肩に触れる。
濡れた髪を撫でるように撫で、指先が鎖骨をなぞる。
「……ナギサ」
私の名前を呼ぶその声に、背中が震える。
身体が熱を持つたび、心の奥に沈んでいたものが、ひとつずつ浮かんでいく。
(あの時、言えなかった言葉。
あの日、触れられなかった想い。
今、すべて――)
「好きだよ。ずっと。生まれ変わっても、きっとまた……お前に恋してる」
彼の手が、私の胸元に触れる。
熱くて、優しくて、でも確かに“欲望”もそこにあった。
でも私は、怖くなかった。
この人になら、全部委ねられる。
そんな気がした。
私も、そっと彼の背中に手をまわして、耳元に囁いた。
「……初めてだったの。あなた以外に、触れたいって思った人、いない。
だから、お願い。最後まで、全部、私を受け止めて」
「……ナギサ……」
唇が重なり、舌が触れ合い、深く結ばれていく。
何度も呼吸が重なって、溶けて、そして――
ふたりは、ようやく、心と体をひとつにした。
そのとき私は思った。
“あの島で交わした誓いは、夢なんかじゃなかった。
ここに、ちゃんと続いてる。生きるということは、愛することと繋がっているのだと”
彼の胸の上で、私は深く息を吐いた。
「また恋しようね……生きて、何度でも」
「もちろん。何度でも、君に恋するよ」
それから数日後。
私はふと、病院の看護師に訊ねた。
「あの島って……あの時、私たちがいた南の島。なんて名前でしたっけ?」
看護師は首をかしげ、不思議そうな顔をした。
「え……? いえ、おふたりとも発見されたのは、静岡の沖ですよ?
その島の名前なんて、聞いたこともないし……記録にもありません」
「……そう、ですか……」
私は黙って微笑んだ。
もう、あの島は存在しない。
でも、私たちだけは、知っている。
あの青く澄んだ海。
光の届かない海底で交わした約束。
そして、ラストダイブのぬくもり。
ラストサマー、ラストダイブ――
あの海で、私はもう一度、生きる決意をしたの。
そして、私は今も、彼と共に――
“次の夏”を、生きている。