第四章「さよならを、ひとつだけ」
「ねえ、私たち……もう、死んでるの?」
夜明け前の浜辺。
紫がかった空の下、波打ち際に立ち尽くしたまま、私は問いかけた。
震える声が、風にかき消されそうだった。
カイ――いいえ、“海翔”は、私の方を静かに見つめたまま、うなずいた。
「正確には……“半分”だけな。お前も、俺も」
「事故のとき、ふたりとも心肺停止だった。でも、魂のどこかが、まだこの世界に留まってる。
……たぶん、後悔があったから。言い残したことが、あるから」
私は、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
心臓の鼓動が、彼の言葉に合わせて静かに鳴る。
「この島は……“魂が最後の選択をする場所”だって、知ってるか?」
海翔がそう呟いたとき、私は首を振ることもできなかった。
「残るか、還るか。ふたりで、生きるか、消えるか。
どちらを選んでも、片方だけはきっと、生き残れない。
でも……このままじゃ、どちらも永遠に、ここに閉じ込められたままだ」
言葉の意味を、ゆっくりと理解していくうちに、私は、
胸にしまっていた言葉をようやく吐き出す。
「だったら、また一緒に、潜ろう」
彼の目が、大きく見開かれる。
私は、一歩、彼に近づいた。
「今度こそ――離さない。
あなたを一人にはしない。海の底に引かれても、手を繋いだまま、ふたりで進むの」
彼がそっと笑った。
それは、あの夏の終わり、夕暮れの海辺で見せてくれた、私だけに向けた笑顔だった。
「ありがとう。……ナギサ」
彼の手が、私の指に絡む。
そのぬくもりは、まるで本物の人間のようで――だからこそ、涙がこぼれそうだった。
空が明るみ始める頃、ふたりで最後の装備を整えた。
「最初に潜ったときみたいだな」
「……うん。でも、もう怖くない。あなたがいるから」
ウエットスーツの背中を彼が締めてくれるその時間すら、愛おしかった。
ゴーグルをつける前に、私は彼の頬にキスを落とした。
「……大丈夫。きっと、どこにいたって、また会える。たとえ形が変わっても、私はあなたを見つけるから」
彼は目を細めて、照れたように微笑む。
「来世でも、同じこと言ってくれよ?」
「言うよ。何度だって。何度でも、恋するから」
手を取り合い、波間へ歩く。
朝の光が射す海に、ふたりの影が映っていた。
海の奥深くへと沈むほど、音が消えていった。
最初は自分の呼吸。
次に鼓動。
そして、水の流れすら感じなくなるほど、世界が静かになる。
「――ねえ、ナギサ」
彼の声が、水中なのに聞こえた気がした。
いや、きっと心で聞いていた。
「もし、どちらかしか戻れなくても、俺は後悔しない。
お前に出会えて、恋して、もう一度こうして一緒にいられて……幸せだった」
「ダメだよ、そんなこと言わないで。
一緒に戻るって、約束したじゃない……!」
「うん、約束した。だから、信じてる。
魂が本当に繋がってるなら――また、同じ世界で目を覚ませるって」
海翔の手を、私は強く握った。
冷たい水の中で、ただそれだけが私のすべてだった。
そして――
「ねえ、海翔。来世も、また恋しようね」
彼が微笑んだ。
その笑顔の中で、世界が、音も、光も、すべて消えていった。
意識が沈んでいく。
深く、深く、何もない無の底へ――
でも、そこには確かに彼の手があった。
離れない、絶対に。
ふたりで、もう一度――
……そして私は、目を覚ました。
乾いた空気。消毒液の匂い。
まぶしい蛍光灯の明かり。
機械音。ピッ、ピッと鳴る心電図のリズム。
「……ここは……病院……?」
呼吸器が外され、視界が少しずつクリアになっていく。
喉が渇いている。
全身がだるい。でも、意識ははっきりしていた。
そして、ガラス越しに立つひとりの青年がいた。
白いシャツ。少し長めの髪。
そして、私が何よりも忘れられなかった、その瞳――
「……かい……と……?」
扉が開く音。
彼が、震えるように私のベッドに駆け寄る。
「凪紗……! 良かった……!」
泣き笑いの顔で、彼が私の手を取った。
「目、覚ましてくれて、ほんとに……!」
「海翔……なの?」
「……うん。……俺もさっき、目が覚めたばかりなんだ。
二人とも、奇跡的に助かったって……医者が言ってたよ。
でも、俺は知ってる。
“あの島”で、もう一度君に会って……君が、俺の手を引いてくれたんだ」
私は、ぽろぽろと涙を流した。
夢じゃなかった。幻じゃなかった。
私たちは、生きている。
心も、体も、そして――魂も。
「……おかえり、海翔」
「ただいま、ナギサ」
その手は、確かに温かかった。
夏は、まだ終わっていなかった。