第三章「死んだのは、誰だったの?」
それは、夢だった。
――はずなのに、あまりにも鮮明で、私は目を開けたあとも、心がざわついていた。
白い岩肌。細い洞窟。海翔の手を握って進んだ、あの夏の潜水ルート。
進むたびに水流が強くなり、不意に轟音が響いた。
「崩れる……! 凪紗、戻れ!」
海翔の声。泡。冷たい潮。
突如として、天井から岩が落ちてきて、私たちの間に暗闇が広がった。
その時、私は彼に向かって手を伸ばした。
――でも、私の手もまた、海に引かれていた。
暗闇の中、意識が遠のく直前に感じた“あの引力”を、私は今になって思い出した。
「……ナギサ?」
うわごとのように名を呼ばれ、私はハッと目を覚ました。
木の葉が擦れる音と、海のざわめき。
島の小さな宿のベッド。カイの顔が、すぐ隣にあった。
「どうしたの……泣いてる?」
「あ……ううん、平気。ごめん、夢見てて……」
唇を濡らすように舌を通して、私は呼吸を整える。
「海翔と……事故のときのこと、思い出した。……私も、沈んでた。気を失って、息が……」
カイの表情が曇る。
いつも穏やかに笑う彼が、初めて戸惑いを見せた。
「ナギサ。俺……本当は、自分が何者なのか、わからないんだ」
「え……?」
「名前も、記憶も、“カイ”っていうのもこの島の管理人に言われて、なんとなく納得してたけど……。
でも、最近、どんどん夢を見るんだ。“誰かを助けようとしていた記憶”とか、“海の奥で叫んでた自分”とか」
彼はベッドに腰を下ろし、ぐしゃっと自分の髪をかき乱した。
「ナギサに会ってから、それが加速してる。君の声、姿、香り……全部、懐かしくてたまらないのに、思い出せない。
でも、確かに……君を探してたんだって、心が叫んでる」
私は思わず、彼の手を強く握った。
「……わたしも。あなたを見つけた瞬間から、心の奥で何かが震えてる。
最初は混乱してた。でも今は……もう、確信してる」
「あなたは、海翔。私の、海翔なんだって」
その言葉に、彼の表情が崩れた。
何かが溶けるように、目元に熱が宿る。
「ありがとう……そう言ってくれて、救われる。
でも……俺はまだ、自分が“ほんとうに生きてる”のか、自信がないんだ」
彼の声が、静かに震えた。
次の日、私たちは海沿いを歩いた。
日差しは眩しく、潮風は肌に心地よく、空も海もどこまでも青い。
……でも、その青さが、どこか“現実離れ”しているような気がしてならなかった。
「そういえば……この島に来てから、他の観光客、一人も見てないよね」
「……うん。スタッフも最初の日以来、誰とも会ってない」
「時計も、止まってた。スマホも、電波はあるのに、ネットに繋がらない」
「それって、普通じゃないよね……?」
私の胸に、不安のしずくがぽたりと落ちる。
「この島……私たち、どこか“おかしい場所”にいるんじゃないかな」
ふたりで言葉を交わすたび、空気が少しずつ重くなる。
太陽は沈まない。
波の音は規則正しすぎて、生きている感覚がない。
まるで“時間”が止まった世界に、私たちだけが取り残されているみたいだった。
夕暮れ、海岸沿いの東屋で、私は地元の伝承を集めた古い資料を読み漁っていた。
そこに、ひとつの記述があった。
「海の境界――生と死のあいだに存在するとされる場所。
そこに迷い込んだ魂は、最期の選択を迫られる。
現世に戻るか、あるいは海へ還るか。
決断のときを過ぎれば、魂は永遠に“泡”となって消えるという」
背筋が、ひやりと凍る。
「……生と死の、あいだ……?」
その瞬間、足音がして、カイが東屋にやってきた。
私の顔を見た彼は、すぐに異変に気づいた。
「ナギサ……何かあった?」
私は震える手で資料を差し出し、唇を噛んで言った。
「この島、普通じゃない……わたしたち、もしかしたら――」
「……ここは、“海の境界”なのかもしれない」
彼の声が、驚くほど落ち着いていた。
まるで、すでに気づいていたかのように。
「思い返してみて、事故のあの日。ナギサ、お前も、俺も……一度、死んでるんだ」
「……!」
「でも、死にきれなかった。たぶん、どちらかが、どちらかを思い続けたから。
その想いが、この島を作ったんだと思う。ふたりの魂が“決断”を待ち続けてる――そんな場所が、ここなんじゃないかって」
私は口元を押さえて、震える。
「そんなの、怖いよ……! じゃあ、私たち、現実にはいないの?」
「それは……まだわからない。
でも、ひとつだけ言えるのは――このまま何もしなければ、ふたりとも“泡”になる。
思い出にも、記憶にも、誰の中にも残らずに、海に溶けていくだけだ」
「だったら……決めなきゃいけない。ここに残るか、生きるか」
私は、彼の目を見つめた。
怖かった。でも、彼の隣にいたいという気持ちは、何よりも強かった。
「……私、決めたい。もう迷いたくない。
だって、あなたに会えて、もう一度笑えて――それだけで、こんなに胸があったかいの。
失いたくない。あなたと、生きたい」
カイの目が、ゆっくりと細められる。
「……ありがとう。ナギサ」
その瞳の奥に、光が差し込んだように見えた。
あの日のように、彼が微笑む。
“ほんとうに、この人が海翔だったらいいのに”――
いや、もう疑ってなんかいなかった。
彼は、私の“海翔”だ。
そして、あの日海に沈んだ私たちは――
まだ、“決断”していなかっただけだった。