第一章「記憶に似た波の音」
「……会ったこと、ありますか?」
私の問いに、青年――カイは少し驚いた顔をして、それから照れたように笑った。
「うーん……初めまして、だと思うけどなぁ。こんな綺麗な人に会ったら、絶対に忘れないはずだし」
さらりと、そう言ってのけたその笑顔が――
あまりに、あの人と同じで、胸が締めつけられた。
「そ、そう……ですよね、すみません。人違い、かも……」
咄嗟に視線を逸らすと、目の端に青い海が広がっていた。
波のきらめきが眩しくて、涙が紛れた。
バカみたい。三年も経ってるのに、こんな簡単に心を乱されるなんて。
「ナギサちゃんって、ダイバー? その装備、なかなか本格的だね」
「はい……学生の頃から、ずっと。ライセンスも持ってます。素潜りも好きで……」
言葉を紡ぐうちに、いつもの自分に戻っていくのがわかる。
仕事では営業スマイルばかりだったけれど、海の話になると、自然と素が出てしまう。
私の中に、まだ“ダイバーの私”が生きてることが、少しだけ嬉しかった。
「じゃあ、潜ってみる? ちょうど今日の午後、空いてるし。案内できるよ」
「……え?」
突然の提案に戸惑って、思わず口をつぐむ。
でも、彼の声は優しくて、どこかくすぐったくて――まるで、懐かしい風のようだった。
「ねえ、潜ってみない? きっと、忘れてた気持ちを思い出せる気がする」
その一言に、胸の奥がざわついた。
“忘れてた気持ち”。
それが、彼のことを指していないなんて、どうして思えようか。
「……お願いします。案内、してほしいです」
笑顔が返ってきた。
その瞬間、自分が笑い返しているのに気づいた。
海翔と過ごしたあの夏も、こんな風に始まった。
何気ないひとこと、手を伸ばしてくれたこと、目が合ったときの鼓動の高鳴り。
でも、それを思い出すたびに、私は心の中で叫びたくなる。
――お願い、同じ顔をして笑わないで。
それがどれだけ私を苦しめてるか、あなたは知らない。
午後、装備を整えて桟橋に立つと、カイが笑いながら手を振ってきた。
「ウェットスーツ、似合ってるね。特にその……ウエストのラインが綺麗で、すごく健康的っていうか」
「……なに、それ、営業トーク?」
「いや、ほんとに思ったこと言っただけ。嘘じゃないよ」
素直すぎるその言葉に、思わず頬が熱くなる。
私の身体は、よく“スタイルいいね”なんて軽く言われるけど、
彼の言い方はどこか真面目で、誠実で、だからこそ逆に照れくさかった。
「そんなに見ないでください……変なとこ、ついてたら恥ずかしいし」
「ごめんごめん。でも、俺も緊張してるんだ。久々に、こんなに綺麗な人と潜るから」
彼の手が、私のバックルを確認しながら、ふと優しく触れた。
その感触が、あまりにあの頃と同じで、身体がびくりと震えた。
水面に顔をつけた瞬間、世界が変わる。
陽光が揺れる海中は、幻想のように美しかった。
サンゴ礁の隙間を縫って泳ぐ色とりどりの魚たち。
カイが指差した先に、マンタの影がゆらりと現れ、思わず息をのんだ。
「――すごい……」
水中では声にならない言葉も、カイと目が合うだけで通じた気がした。
彼の手が、私の手を引く。
鼓動が速くなるのは、酸素不足のせいじゃない。
身体が、心が、彼を“覚えてる”。
海翔と初めて手を繋いで潜ったときと、同じだった。
それなのに、目の前にいる彼は――“カイ”であって、“海翔”じゃない。
でも、私は何度も心の中で呼んでいた。
(……海翔。あなた、なの?)
海からあがると、日差しはすっかり傾いていて、空が茜に染まっていた。
「楽しかったね。ナギサちゃん、潜ってるとき本当に綺麗だった。海と溶け合ってるみたいで」
「……うれしい。ありがとう、カイさんのおかげです」
濡れた髪を拭きながら、私はぽつりと呟いた。
「どうして……こんなに、懐かしく感じるんだろう」
「え?」
「初めて会ったはずなのに……カイさんの声も、手の温度も……知ってる気がするんです」
カイは少し驚いたように眉を下げ、それから静かに答えた。
「俺も……同じこと、思ってた。
君と目が合った瞬間、なんだか懐かしくて、胸がぎゅっとなって……不思議だけど、嬉しかった」
彼の言葉に、私はふと泣きたくなった。
今まで封じ込めていた想いが、潮のように押し寄せて、心が濡れていく。
「カイさん、明日も……一緒に潜ってくれますか?」
「もちろん。ナギサちゃんがいいなら、何度でも」
その笑顔に、私はひとつだけ嘘をついた。
“偶然似ているだけ”――そんなはず、ないのに。
でも、それを今はまだ、信じたくなかった。
私の胸の中で、波が静かに揺れていた。
あの日の記憶と、今日の彼の笑顔が、少しずつ重なり始めていた。