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プロローグ「泡になった恋のあと」

――どうして、あの時、私が手を離したんだろう。


潮風が髪を撫で、濡れた肌を優しく包む。

波の音が、遠い記憶を呼び起こすたびに、胸がぎゅっと締めつけられた。


私は今、南の小さな島にいる。

観光客の少ない、でも信じられないほど海が透き通っている――そんな場所。

学生の頃、海翔とよく語り合った“世界一青い海”って、こんなだったかもしれない。


あの事故から、三年。

仕事に追われて、泣くことも忘れて、ただ生きてきた。

新卒で入った旅行広告会社では、海の取材案件を率先して引き受けた。

“忘れるため”に海を選んだくせに、結局どこへ行っても思い出すのは彼の笑顔だった。


「海の底って、星が降ってるみたいなんだよ。今度、いっしょに見よう?」


夜の浜辺で、そう言って笑った彼の声が、今も耳に残ってる。

……叶わなかった。

あの夏、台風接近中の急な潜水に出て、そのまま――彼は帰ってこなかった。


たちばな 凪紗なぎさ、23歳。

社会人一年目。

167cmの身長は、男の人からよく「モデル体型だね」って言われるけど、褒め言葉として受け取ったことはなかった。

胸はDカップあって、ウエストは絞れてる方だと思う。でもそんなこと、どうでもよかった。

今の私は、誰に見られても、恋する目で見られることなんてないって、どこかで思っていた。


それでも、海だけは、私を“女”として受け入れてくれる。

ウエットスーツに身を包み、マスクをつけて海に潜れば、心と体はすべて裸になる。

だから私は今日もひとり、機材を担いで、この島に来た。


朝の光が波にきらめく中、私は海沿いの一本道を歩いていた。

すると、小さな看板が目に入る。手書きのようなロゴの先に、白い平屋のダイビングショップが見えた。


「……ここ、営業してるのかな……?」


扉をノックしようとした瞬間、開いたドアからひょいっと顔を出したのは――


「やあ、おはよう」


……その声で、時間が止まった。


私の心臓が、ありえない速さで跳ね上がる。


黒く日焼けした腕。さらりとした黒髪。

しっかりとした肩幅と、穏やかな笑み。

なにより、その目――


「どうしたの? どこかで会ったこと、あったかな?」


声が震える。言葉にならない。

私はただ、立ち尽くしていた。

足元に、潮が満ちては引くように、記憶の波が押し寄せてくる。


彼は、“あの夏”に海に消えた、私の恋人・海翔かいとに、そっくりだった。


……瓜二つなんて言葉じゃ足りない。

同じ顔、同じ声、同じ笑い方。


いや、そんなわけがない。

海翔は、もう……。


「大丈夫? 顔、真っ青だよ。ちょっと座ろうか」


彼は私の腕をそっと取った。

その手の温度が、まるで生きているみたいで、逆に怖かった。

でも、私は抗えなかった。

ただ、されるがままにウッドデッキの椅子に腰を下ろした。


「俺、“カイ”っていいます。インストラクターやってる。……君は?」


「……た、橘……凪紗です」


やっとの思いで名乗った私に、彼――カイは柔らかく微笑んだ。


「ナギサちゃんか。いい名前だね。今日、海に潜りに来たの?」


「……はい。一人で、ちょっと、リフレッシュに」


彼の顔を直視できない。

でも、視線を外しても、彼の姿が視界の端から消えてくれない。


――どうして?

どうして、あなたがここにいるの?

……あなたは、死んだはずなのに。


「ふふ……」


「ん? どうかした?」


気づけば、私は泣き笑いをしていた。

おかしいよ、こんなの。夢か幻か、それとも私が壊れただけか。


でも、確かに言えることがひとつある。


この人と会ってしまった今、私は――もう、戻れない。


心の奥底に封じていたはずの想いが、潮にさらわれて浮かび上がってくる。


私の心も、身体も、そして魂までも。

あの夏に、凍ったまま、止まっていた。


「……カイさん。今、時間ありますか?」


私の声は、かすれていたけど、彼にはちゃんと届いていた。


「もちろん。よかったら……案内するよ、この島の海を」


ふたりで、海へ――

もう一度、潜ることになるなんて、この時の私はまだ知らなかった。


でも、あの笑顔に微かに重なる懐かしい影が、

私の世界を、確実に揺らし始めていた。

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