2. 八代 紺はホストである
仕事のある日の紺は、早ければ始発、遅ければ始発にお客様をお乗せして、そこから一旦店に戻ってその日の〆の作業をしてから帰ってくる。だから帰宅途中の道すがら、大体のこれから出勤する人々と、どこかですれ違う。
ちらりとすれ違いざまに視線を紺にやる者もいれば、気にしない者もいる。夜勤明けであろう疲れた顔の者もいれば、これから出勤であろうに疲れた顔の者も大勢いた。
紺もまたそれらにちらりと視線をやったり気にも留めなかったりで、家路を歩く。
新宿駅から徒歩で十五分ほどのマンションの、204号室。安くない家賃ではあるけれど、ペット可。それだけで、人によっては二十万でも三十万でも出す。
そこに、紺は現在請われて無料で住んでいる。ここ何年か、204号室には人が居つかなかったという。それをどうにかするために、紺が呼ばれたのであった。
新宿発の始発は多少のばらつきはあれど大体六時ごろである。その日は、深夜の内に営業を終えた。終電はとうにない時間であるのに、最後のお客様が帰られたのだ。近くに住んでいるとか迎えに来てもらうとかタクシーで帰るとか、方法は様々あるからそれはいい。紺たちはこれ幸いと閉店準備を行った。こういう時に飛び込みでやってくる客というのは大概よろしくないものである。始発が動き出してもう閉店だと言っているのに帰らない、なんなら金を持っていないとかもざらである。
だからそういうことが起きる前に、閉めてしまうのだ。
それぞれ仮眠を取ったり掃除をしたりして、朝。従来の閉店時間になったので、それぞれが家路についた。
朝の六時ごろといえば季節によっては日が出ていたりまだ薄暗かったりとする。その日は、割と明るかった。
人通りがあったりなかったりする住宅街の道を紺が歩くと、目の前を猫が横切った。薄い茶トラの猫だった。その猫は道路を渡り終えて生垣に前脚をかけてから、紺の方を向いて少し止まり、尻尾をくるりと回してから立ち去った。
おそらくあの猫は草太を知っていて、だから同居人の紺にも挨拶をしたのだろう。律儀な猫もいたものだと思いながら、紺は歩く。
紺がマンションのエントランスに入ったところで、キジトラの、薄い茶色に黒い縞模様の入った猫が、足元をすり抜けて出て行こうとした。
「おう待て待て、お前どこの誰だ」
うにゃ、あにゃ。にゃーにゃあん!
ひょいと手を伸ばして、紺はそのキジトラの猫をすくい上げた。外からマンションの中へ入り込もうとするだけならばまあどうでもいいが、いや後で大家の石井さんに話はしておいた方がいいかもしれない。けれど出ていく、となると話は別である。
つまりこのキジトラ猫は、このマンションの住人の飼い猫である、ということなのだから。もちろん単なる野良猫が通り抜けて出て行こうとしている、という可能性もなくはないが、そのキジトラ猫は、赤い首輪をつけていた。飼い猫である。
興奮しているのだろう、猫は何かをずっと訴えているが、それは言葉になっていない。人の姿をしている紺に通じるはずがない、と思っているとかではなく。あのね、えっとね! を繰り返しているだけだ。せめてもうちょっと、分かることを言って欲しい。
外で暮らしている猫が紺の前を通り抜けるのであれば、さっきの猫のように適当に挨拶をしていくだけだろう。ここまで混乱はしていないはずだ。いやしている猫もいるかもしれないが、まあそれは今はいい。
暴れる猫の背中をトントンと叩いてやりながら、とりあえずは大家の石井さんの部屋へと向かう。紺は把握していないが、大家の石井さんならきっと、どこの家の猫であるかわかるだろう。わからなかったら、草太に聞けばいいか。
大家の石井さんの部屋の前まで行って、紺はそっと耳を澄ます。
時刻的には早朝で、早い人はそろそろ家を出るけれど、まだまだ寝ている人もいる時間帯だ。石井さんは大家業をしているから勤め人ではなくて、もしかしたら勤め人なのかもしれないけれど、少なくとも、今はまだ起きて活動をしていないようだった。人が動き回る音がしない。猫が動く音も聞こえないから、フローラちゃんもまだ寝ているようだ。
マンションのどこかからも、特に猫を探す声はしない。自分が玄関ドアを開けた時に飼い猫がするりとドアから出てしまえば、声を上げて探すだろう。猫の名前を呼んだりもするはずだ。それがないということは、まだ気が付いていないのか。
大家の石井さんを叩き起こすのも忍びないので、紺はキジトラ猫を胸に抱えて、その背中をそっと撫でてやりながら、階段を登った。キジトラ猫はだんだんと落ち着いて、にゃぐにゃぐ言わなくなっていたが、かといって分かるように何かを言う、ということもなかった。言いたいことがあるならちゃんと言ってくれ。
猫を抱き抱えたまま、紺は慣れた手つきでポケットから鍵を取り出して、家の鍵を開ける。
まだ、猫を探す声は聞こえない。




