婚約破棄
「ダフネ・ベニトアイト!今この時をもって君との婚約を破棄する!」
私の人生を終わらせる宣告の瞬間、頭の中に突如沸き起こったのは「前世の記憶」だった。
「チャーム・ジュエル」。
それはヒロインであるリリー・クォーツが様々なキャラクターと恋愛をする大人気のファンタジー・乙女ゲームだ。リリーは平民の生まれでありながらある日突然神託を受け、聖女としての力を授かる。時には学生として友人たちとスクールライフを送り、時には聖女として仲間たちとともに敵と戦いながら世界を守る、そんなゲームだ。
かくいう「私」もこのゲームにハマったプレイヤーの一人である。ゲームでは隠しルート含め全ルートをクリア、スチルも全部集め切った。グッズだって大量に集めていたし、アニメだって全部見た。素直で明るいリリーのキャラクターには嫌味がなくストレスなくプレイできるのが良かったのだ。
そして
「私」はこの状況を何度も瞬きをしながら確認する。
目の前にはこの国の王太子であるアラン・ガーネット。その腕に抱き寄せられているのはリリー・クォーツ。周囲を取り囲む人々の不信の眼差し。アランの厳しい視線に射抜かれている私は。
私は。
「ダフネ・ベニトアイト…」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、「私」は今の私の名前を口にした。
ダフネ・ベニトアイト。
それは「チャーム・ジュエル」に登場する悪役令嬢の名前だ。この国の王太子アランの婚約者で、ヒロインのリリーを目の敵にしている。
無理もないだろう。王家と公爵家の政略結婚のために婚約した二人の間には、燃え上がるような愛はない。少なくとも王太子アランはダフネのことを愛していなかった。そこに現れた快活で努力家のリリーにアランが心を奪われるのも無理はない。
だけどダフネはそのことが許せなかった。公爵家令嬢としてのプライド、王太子妃、ひいてはこれから国母となるはずだった人間としての尊厳、そういうものを踏み躙られたと思ったダフネはリリーとアランの仲を引き裂こうとあれやこれやと手を回したのだ。
例えば、二人のデートを人を使って邪魔したり。
例えば、会う約束をしている日に強引に約束を取り付けたり。
…あれ、言うほど酷いことをしてないような。
そんなダフネに愛想を尽かしたアランは学園で開かれたパーティの場でダフネの所業を糾弾し、婚約破棄を言い渡す。
これがアランルートへ分岐する重要なシーンであることを私は知っている。
燃えるような怒りを赤い目に宿したアランは私をまっすぐに見つめながら、反対にリリーを優しく抱いている。腕の中のリリーは緊張しているのかカチカチに固まってしまっていた。
ハァ、アランとリリー尊い…原作一番の王道ルートなだけあってバエる…。
じゃなくて。
「私」がどうしてダフネになっているのか。前世の記憶が今になってどうして思い出されたのか。
そんなことはどうでもいい。
悪役令嬢として糾弾され、王太子から婚約破棄を告げられるという絶体絶命のピンチ。その後に続くアランとリリーの物語にはダフネはでてこない。
しかし、婚約を破棄された悪役令嬢の末路など碌なものじゃないのは想像に難くない。
何か言わなくては。アランとリリーの二人の仲を邪魔した言い訳か。殊勝に婚約破棄を受け入れるのか。
…いや、婚約破棄を受け入れることはできない。王家と公爵家の盟約なのだ。いくら王太子であっても一方的に破棄することはできないし、家の許しもなく私が受け入れることもできない。
口を開こうとして、声が詰まった。
目頭に熱が集まるのを感じる。辛うじて涙こそ堪えるが、油断すれば声が上擦ってしまいそうだ。
「ダフネ」は悲しいのだ。令嬢としてのプライドを捨てて泣き出したいほどに。
「声も出ないか、ダフネ」
アランの冷たい声色にまた一つ心にヒビが入るのがわかる。「私」がゲーマーオタクだから踏みとどまっているものの、私の心は砕け散ってしまいそうだ。
でも何か言わなくてはならない。そう思っていた時に。
「あ、あの、王太子殿下、」
柔らかな声が間に割って入った。