第3話 任務の始まり
コツンコツンと廊下から足音が響いてくる。聞くだけでその足取りが重いことが分かる、酷く緩慢な足音だ。
十中八九、対象のものだろう。こちらに近づいていることは分かっているが、この距離でそれに気付いているという事実は、学生としては少々不自然だ。怪しまれないように気付いていないふりをしておこう。久し振りに見下ろす校庭は、中々に心地良い懐かしさをくれるので、このまま待つ時間も大して苦ではない。
いよいよ足音が教室の前までやって来た。ここまで来れば反応を示しても良いかもしれないが、教室の直前あたりから足音を立てないような縮こまった歩き方になったため、やはり戸が開けられるまではこのままでいたほうが良いかもしれない。
カラカラと軽い音を立てて戸が開く。くるりと振り返れば、女子生徒が目を伏せてそそくさと通り過ぎようとしているところだった。
肩下まで伸びた灰色の髪。下を向いており表情も暗いため分かりづらいが、若い頃の真央ちゃんの面影のある顔立ち。任務対象の堀江下理咲で間違いない。
念のため早朝から教室で待機していたことが功を奏した。元々、事前資料で人間不信ぎみであることは知っていたため、緊張して早い時間から登校するのではないかと予想していたのだが、それが運良く的中したようだ。
ふと、対象が立ち止まる。自分の席を知らないことにでも気が付いたのだろう。私もつい先程、高校には自分の席なんてものがあったことを思い出し、懐かしさを感じていたところだ。
どこかに席が分かる場所がないかと思ったのだろう、対象がぱっと振り返り、その瞬間目が合った。
「おはよう。席なら黒板に書いてあるよ」
「あ、うん。…おはよう」
目が合ったので印象が良いように挨拶をしてみたが、反応はあまり良くない。まあ、予想はしていたので、気を取り直してコミュニケーションを続けよう。
「ねえねえ、席どこだった?」
「そこ、真ん中」
「あー惜しい。私そこの端っこの席。もう一個ズレてれば隣だったのにね」
あまり口数が多いタイプではないようで、お世辞にも会話が弾んでいるとは言い難い。しかし、表情を見る限りでは、明確に拒絶されている様子は無い。多少強引に接近してみても良いか。
「あ、ねえ、トークやってる?交換しよー」
「あ、うん。えっと…ちょっと待って」
「はーい」
携帯が見つからないのか、鞄をごそごそと漁っている。と、そういえば自己紹介すらまだしていなかった。こちらは既に相手のことを知っていたので忘れていた。
「ね、名前なんて言うの?私、燈子」
「えっと、堀江下理咲」
「理咲ちゃんかー。ていうか堀江下って総統のお孫さん?同じ学年っては聞いてたけど、いきなり会えるなんてすごいラッキーだね。あ、携帯あった?交換しよしよ。…おー、アイコン可愛いねー」
今のところ距離を縮められそうな糸口は見つけられていない。まあ、そこまで焦らなくてもある程度仲良くなるくらいなら難しくない。
問題は行動を手中に収めるという点だ。これは場合によっては三年でも短い。タイミングを見計らい、多少強引な手を使うことになる可能性は高い。今からでも対象をよく観察して、そのタイミングと方法を見極める必要がある。
「ねえ、理咲ちゃんって元からこの学校なんでしょ?実は内部進学の子に案内頼もうとか思ってたんだけど、ダメ?」
とりあえず、対象を教室から連れ出して二人きりになっておこう。後から登校してきたクラスメイトに、この絶好の機会を奪われる恐れがある。
「え、うーん…あんまり高等部まで来たことないから、実は私もそんなにこの辺は詳しくないんだ。だから、ごめん、案内とかは出来ないかも」
知っている。私は外部生という形で入学しているため、怪しまれないよう、この学校のシステムには無知である、と印象付けただけだ。あとは多少申し訳ない気分にさせた方が、こちらの要望が通りやすいかと思ったのもあるが。
「あ、ほんとに?じゃあ一緒に探検しよ。そっちの方が楽しいしね」
「あ、うん。…分かった。じゃあ一緒に行こう」
「やったー!じゃ、行こー」
良かった。とりあえず登校時刻までの一時間弱は確保できた。
新しい組織で特定の個人と仲良くなるにはその初動が重要だ。今日一日で少なくとも友達くらいにはなっておきたい。出来れば学校外で遊ぶ予定まで取り付けられればベストだが、そこはあまり期待しない方が良いだろう。
任務初日、悪くない滑り出しだ。
実際にこの距離の詰め方してくるやつに会ったことない。