第2話 運命の始まり
コツンコツンと足音が廊下に響く。教室まで続く廊下がやけに長い。高等部の廊下だけ長く造られている筈はないので、これは新学年という悩みの種からくる、私自身の憂鬱のせいなのだろう。
窓の外には早朝特有の青く涼やかな空気が充満している。この嫌な緊張感さえなければ、気持ちの良い朝だった筈だ。
「一年一組」と書かれた小さな下げ札を視線の先に捉える。手に持った進学案内のプリントに目を落とし、教室を間違えていないことをもう一度確認する。何度も読んだため間違っているわけはないが、必要が無くても確認してしまうのは性分というものだろう。
教室が目前に迫ってきたことで、心臓の締め付けがさらに強烈になってきた。体が縮こまり、歩き方も小さくなる。
ここまで来れば覚悟を決めるしかないが、願わくばまだ誰も登校していないで欲しい、という思いが新たに芽生えてくる。いたとしてもせめて、中等部からの顔見知りであって欲しい。どうせ誰が同じクラスでも変わらない、と玄関前のクラス名簿をよく確認しなかったことが悔やまれる。
この特別実習コースは一コース一クラスのため三年間クラス替えが無い。そのため、今日が高校生活全てを決めると言っても過言ではないにも関わらず、このままでは普通に失敗しそうだ。
これから毎日見るであろう下げ札の下で立ち止まる。目の前には廊下と教室を隔てる金属製の引き戸。それを開けようと腕を腰あたりまで上げたところで、体がぴたりと硬直した。
この学校の教室の引き戸には、ちょうど顔の高さの辺りに小窓が取り付けられており、廊下からでも教室の様子を見渡すことが出来る。教室に入る時には必ず、今のようにこの小窓から教室の中を見渡し、誰が中にいるかを確認するのが、中等部の頃からの私の癖だ。
校庭側の窓際に誰かがいる。変に足音を立てないような歩き方をしていたせいか、こちらには気が付いていないようだ。身を乗り出して校庭を見下ろしているその後ろ姿は、見知ったものではない。軽い絶望感の襲来と共に、私の祈りは早々に叶わぬものとなってしまった。
窓からの逆光のせいで分かりにくいが、長く伸ばした明るい髪を三つ編みにして二房に分けている。髪型と制服からして女子生徒だろう。頬杖をついて窓の外を眺めているその顔には、大きな丸眼鏡が乗っかっていた。
このままここで固まっていても仕方がないので、硬く動かない腕に無理矢理力を込め、引き戸の取っ手に指を掛ける。
カラカラと軽い音を立てて戸が開く。目を伏せて視線を合わせないようにしつつ、壁際に沿って通り抜ける。――そうしようとしたところで、まだ自分の席がどこか知らないことに気が付いた。
黒板にでも席順表が書いていないか、とぱっと振り返った瞬間、にこにこと逆光の中で笑う女子生徒と目が遭ってしまった。
「おはよう。席なら黒板に書いてあるよ」
「あ、うん。…おはよう」
言われるがままに黒板を見ると、確かに先生が手書きしたであろう席順表が書いてあった。
「ねえねえ、席どこだった?」
突然、悪戯を思いついた子供のような声が横から聞こえてきた。いや、私が勝手に会話を終わらせた気になっていたが、先程の挨拶からの流れであれば、別に突然でもなんでもない。正直初対面の人と話すのは億劫ではあるが、これから三年間同じ教室で学ぶ仲である。あまりぞんざいに扱うのは良くない。
「そこ、真ん中」
「あー惜しい。私そこの端っこの席。もう一個ズレてれば隣だったのにね」
笑いながら気の毒がる女子生徒が指さすのは、その場所から最も遠い廊下側の席。私の席はその二つ隣、教室の中央辺りの席だった。
「あ、ねえ、トークやってる?交換しよー」
「あ、うん。えっと…ちょっと待って」
「はーい。ね、名前なんて言うの?私、燈子」
「えっと、堀江下理咲」
「理咲ちゃんかー。ていうか堀江下って総統のお孫さん?同じ学年っては聞いてたけど、いきなり会えるなんてすごいラッキーだね。あ、携帯あった?交換しよしよ」
私が手間取りながらもバッグから携帯を見つけ出すと、燈子さんはとことこと近づいて来た。
というか、このクラスに入れるくらい優秀なのに私が知らないということは、燈子さんは高入生の筈だが、その燈子さんでも私のことは知っているのか。
学内はもう仕方ないと割り切っているが、学外でもそこまで有名になってしまっているとは思わなかった。なんだかさらにテンションが下がってきた。
ぺらりと差し出されたトークの画面を携帯でスキャンすると、「犬飼燈子」の名前がフレンド欄に追加された。意外と本名をそのまま登録するタイプだったようだ。苗字の読みは「いぬかい」で合っているだろうか。
アイコン可愛いねー、と笑う燈子さんは、近くで見ると少し見上げる程度には背が高い。軍服を参考にデザインされた制服もよく似合っている。ころころと笑う少女然とした様子とは裏腹に、纏う雰囲気は紛れもなく見慣れた軍人のものだ。高校受験からいきなりこのクラスに入ってきたことも考えると、既にどこかでそういう経験があるのかもしれない。あまり詮索はしない方が良いだろうか。
「ねえ、理咲ちゃんって元からこの学校なんでしょ?実は内部進学の子に案内頼もうとか思ってたんだけど、ダメ?」
「え、うーん…あんまり高等部まで来たことないから、実は私もそんなにこの辺は詳しくないんだ。だから、ごめん、案内とかは出来ないかも」
「あ、ほんとに?じゃあ一緒に探検しよ。そっちの方が楽しいしね」
「あ、うん。…分かった。じゃあ、一緒に行こう」
「やったー!じゃあ行こー」
燈子さんはぴょこぴょこと嬉しそうに教室を出ていく。
人付き合いは苦手な筈だが、なんとなく提案を了承してしまった。そうだ、一緒に校内を回るということは、二人きりになるということだ。今からでも断れば――いや、もう無理そうだ。燈子さんは既に廊下から「はやく―」と私を催促している。
もうこうなっては仕方がない。大人しく燈子さんについて行くとしよう。
クラスメイトと仲良くなるきっかけが舞い込んで来たのだから、逃げ出したい今の心境を抜きにすれば良いことではある。それに、逃げ出したいとはいっても、この燈子さん本人に対しては拒否感を持ってはいない。この人であれば仲良く出来るかもしれない、などと自分でも驚くような感想が出てくるほどに。
そう考えると、高校生活初日としては良い滑り出し、と言えるのかもしれない。
トーク:ラ〇ンとイ〇スタの中間みたいなアプリ。再登場するかは不明。