第1話 入学任務 前編
よろしくお願いします。
その言葉が呑み込めず、ソファの隅で思わず固まった。
執務机の向こう側ではそんな私をおいて、黙々と書類の山が片付けられていく。
この小さな書斎のような部屋には、壁一面の本棚と大きな執務机、小物用の棚、そして来客用のテーブルとソファセットが置かれている。翻せば余計な一切が除かれている。そのようなよく整理された様には、その持ち主の性格が如実に表れていた。
だからこそ、その持ち主たる目の前の人物、そこから発せられた言葉に驚愕しているわけだが。
今ではすっかり定位置となった来客用のソファ、その肘掛にもたれ掛かり、疑わしい言葉の真意を確かめるため、その確認を取ることにする。
「…ごめん、もう一回聞いてもいい?」
「学校に行け、と言ったんだ」
声が聞き取れなかったわけではない、ということは理解してくれているようで、先程よりも端的な言葉が返って来た。それが分かっているならもっと詳細を教えろ、とも思うが、相変わらずその手が止まることはなく、その続きが口から出てくる様子も無い。
軍人とはかくあるべし、と効率至上主義を掲げる令ちゃんらしくもない。その様子に嫌な予感をひしひしと感じはするが、このままでも話が進まないので「理由聞いてもいい?」と先を促す。
それを受け、令ちゃんはようやくその手を止めた。こちらに顔を向けつつ、顔にかかった長い黒髪をさっと耳の後ろに流す。
以前から大分老け込んだその顔には、これから面倒ごとに取り組まなければならない、といったような苦々しい表情が張り付いていた。
「来年、堀江下理咲という人物が陸校の高等部に入学する」
「堀江下って…真央ちゃんの孫?」
「そうだ。お前には対象に近づき、その行動の監視、誘導を行ってもらう」
「…分かんないな。いくら総統の孫だからって、そんなことする必要ある?」
私が困惑の色を示して見せると、令ちゃんはより一層眉間の皺を深くした。そんな顔ばっかしてるから部下から怖がられるんだよ、と思ったが、そもそも元の顔が怖い上に、怒ると実際怖いのであまり関係なかったかもしれない。
「対象は能力的にも人格的にも非常に優秀でな。その将来性と血筋を買って、陸高卒業後、もしくは陸大卒業後、対象の下でプロバガンダを兼ねた精鋭部隊を設立することになった。これは国内外に広く宣伝される、この国を代表する部隊となる。変な気を起こされては困るわけだ」
「ふーん…変な気起こすような子にそんな部隊任せるのがダメなんじゃない?人選ミスってるでしょ。それかその計画そのものがミスってるか」
「変な気と言っても本人が悪意を持つような想定はしていない。先程も言ったが、対象は人格的にも優れているからな。ただ、知っての通りこの国は清廉潔白というわけではない。何かしでかす可能性はある」
「根っからの良い子ってことね。真央ちゃんの孫らしくもない。…いや、真央ちゃんもあれはあれで良い子ではあるのか」
「私の前で総統の陰口を叩くな」
「いやいや、陰口じゃないよ。真央ちゃんは良い子って話」
令ちゃんが私の発言に苦い顔をしたので、一応真央ちゃんのフォローをしておく。ついニヤニヤしながら言ってしまったせいで、令ちゃんの表情は変わらなかったが。
「…でもまだ分かんないな。そもそもそんな部隊が必要かって話。今って別に戦況が苦しいわけでもないよね?この国。わざわざ危険分子作ってまで、そんな目立つ部隊作る必要ある?」
「だが、この部隊が期待通りの活躍をすれば、これ以上ないほどの戦力になる」
「いや、そりゃ全部完璧にできた時の成果なんてどんな作戦もそんなもんでしょ。そんな博打みたいな作戦、令ちゃんらしくもない…あ、もしかしてこれ考えたの真央ちゃん?」
「…そうだ」
「上司のおもりも大変だね」
「総統の方針には慣れている。あとおもりじゃない、補佐だ」
ここでようやく、令ちゃんの張りつめたような雰囲気がふっと消えた。心労を吐き出したことで、少し気が楽になったのだろう。机の上で組んだ両手を膝に下ろし、ずっしりと背もたれに上体を沈めた。陸軍総司令官という立場は、相変わらず苦労が絶えないようだ。
「珍しく令ちゃんから声掛かったからさ、何か緊急事態?って思ってたんだけど、発案はいつも通り真央ちゃんか。令ちゃん通してきたってことは、令ちゃんもこの作戦に何か噛んでくるんだ?」
「そうだ。陸校は私の管轄だからな」
「あー、そういえばそうだったね。懐かしい」
陸校、正式名称は「陸軍学校」のようなシンプルなものだったか。今話題に上がっているのは高等部なので、その仲の陸軍高等学校のことだ。先程の令ちゃんの言葉通り、他のものとは異なり、学務省ではなく陸軍省の管理下に置かれる、陸軍の各種人材を育成する教育機関だ。
将来、陸軍でそれなりの地位に就きたければ、この学校の卒業は必須とも言われている。それも、階級がものを言う指揮官界隈だけでなく、実力至上主義の現場でも同様に、だ。箔をつけるという以上に、実力をつけるという意味でもほぼ必須なのだろう。それだけ人材育成に貢献しており、教育機関として成功している証拠だ。
その陸校に生徒として潜入し、同じく生徒である堀江下理咲に接触しろということか。確かに、陸校について最上位の権限を持つ令ちゃんのサポートが入るのであれば、作戦内容が多少突飛とはいえ、その遂行はかなり楽だろう。とはいえ、陸軍総司令官の権限はあまりにも上位すぎる気もするが。ただ、その場合でも引っかかる箇所はまだまだ残っている。
「まあ、その対象を抑えなきゃいけないってのは分かったけど、生徒として学校に通うって突拍子無さすぎない?部隊設立した後に副官に配属する、とかの方が大分現実的だと思うけど」
「学生時代からの友人の方が心を開くそうだ」
「いや…そりゃそうだろうけど…」
「諦めろ。既に総統が決定したことだ。それに、総統の決断が間違っていたところを私は見たことが無い。確かに突拍子も無い話だが、何か考えがあるのは間違いない。…ただ遊んでいるだけの可能性もあるが」
「最後本音出たね」
やはり令ちゃんも同じことを思っていたようだ。真央ちゃんはこういうことをよくやるし、私もそれに便乗してよく遊んでいる。今回は私が遊ばれる側に回されたというだけだ。
ただ、いくら遊んでいようと真央ちゃんはしっかり成果は出す。それも通常の方法以上の成果を。その手腕は疑いようが無い。意味は全く分からないが真面目にやるしかないようだ。
「まあ、総統閣下の指令だからね。言われた以上はちゃんとやるよ」
「ああ、すまない。こちらからも出来る限りのサポートは行う」
「うん。今回はお互い同じ苦労を背負う立場だからね。協力してこっか」
すっかり仲間意識が芽生えてしまった令ちゃんと軽く笑い合い、作戦の細かい打ち合わせに入る。
しかし学校か。そういえば学校と呼ばれる場所に通うなんて、というより、他人にものを教わるなんてすごく久し振りだ。たった今、令ちゃんと苦労を分かち合おうと言い合ったばかりではあるが、少しだけ楽しみにもなってきた。せっかくの学校生活だ。とことん楽しむとしよう。