虚空に吼えるような心持ちで
気が付いたら、年が明けていた。
もちろん、年末のいつかわからない日に就寝なりをした後、再度覚醒に至ったら年をまたいでいた――という意味ではない。そんなことは、通常の読解能力を有した人であれば、説明されるまでもなく分かることであると言えるだろう。恐らく。
ここでいう「気が付いたら」という表現には、無意識的な日々の浪費に対する、そこに伴う価値の低減ないし消失――つまりは本来であれば何かが出来ていたであろう時間に対し、そこに想像した理想的な成果が存在していないことへの無念や、あるいは後悔の念がこめられている。
しかしながら、とは言え基本的には長い人生、その全てに自覚的有意味を埋めることが出来るのかというと然に非ず、そのようであるべきかというとそうでもないような、そんな感じもするのである。
もちろん、それが「出来たほうがいい」と感じ、そのようでありたいと願うことは自体簡単なことでしかないが、現にそのように在れる人というのは、まぁいない。努力にしろ成果にしろ、それに至る才能や運勢、その他諸々の生きた過程というものが、たとえ誰かが傍から見てそのようであったのだと感じようと、恐らくは
「そのようでなければならないから、そのようにした」
という動機に因って生じたものであることは稀で、
「そのようでなければならないから、そのようにした」
という事にただ取り組んだことが、まるでそれ自体が普遍的な成功に至る経路の解であるのではないかと、細かいことを一々考えたくない惰弱で愚かな者達が、そうであればよかったのに――というよりも、我々がいま幸せでないことは、そういう類稀な努力の才覚が欠如していたことに由来する、不可避の事象だったのだと諦めるための想いに捻じ曲げられているだけだと、私は考えている。
……という文章を、初見で発言者の意図通り認識出来る人間はこの世には存在しない(※)ので、より口語的に分かりやすく言い換えるのであれば。
つまりは「頑張る!」ということ、そしてそれを何かのために役立てたいのだと感じ、そのようにあるということを、実態として何がしたいのかを置き去りにして、具象的な事を放ったらかしにしたまま
「それでも、何かは出来るべきなのだと思う。そうしなければ価値がないから」
などと無根拠に思い込み、自身が成功者だと感じている誰かと、自分自身の差がそこにあって、そこにしかないのだと納得をしたがる、なんら指標のない現実に仮初の旗を立てるような、何者でも有り得ない自分自身が、それでも何者かではあろうとしたのだという言い訳をするためだけに、達成し得ないことを目標としている。
そういうの、良くないですよね。
ということが言いたかったわけだ。
分かりやすさがあるかは知らん。どちらかというと、意図の不明な話が二倍に増えただけなのではないか、という感じもする。
それでも、私は私自身の心の形を、共通点を持つ複数の言葉の重複によってなんとなく知るタイプの感覚派であり、語るべき一つの事柄に対して万の言葉を尽くすことで、やっと私がその瞬間に何をどういう風に考えていたのかを知ることが出来るのだ。
つまるところ、私はそういう風な記述をしない限り、私が私自身の思いを知ることすら碌に出来ないような、不出来な知性を有する愚者の一翼である。
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例によって意味も意図もよくわからんような話から書き出してはいるが、結論を急ぎたい人のため、一言で意図を纏めると、つまりは
「なんかのんびりしてたら、もう年が明けてしばらく経っていますね」
というだけの話である。
若干語弊があるので、その後にウダウダと話していた事も要約するのなら、
「まぁ時間を全部有意義に使わないといけないわけでもないし、そもそも有意義ってなんですか? やりたいことがあってこそ、すべきこともありますよね?」
というだけの話である。そこを履き違えた状態で、我武者羅に何かをしようとしたところで、具体性がないので無意味です。出来たほうがいい、という程度の消極的な動機でなにかをやるならともかく、そういう時期を疾うに過ぎたものには、具象的な目的がない努力は徒花になることが確定している。そもそも、何か出来てこその能力なので。
とはいえ、意図なんてものは、別にどうでもいい添え物でしかない。
私のこういう文章は、現代文の試験問題でも、遠い未来の古文の試験問題でも、あるいは太陽系外や外宇宙の人にとっての異文化文章の試験問題でもないのだから、そこにある思いや意図、文脈における正しい意味の読解に関して、これを過不足なく適切に理解出来る必要性はどこにも生じることはない。
極論してしまえば、この世に存在する全ての文章は――文章に限らず、内在に想起をもたらす万象は、それを受け取る各々の感性により、適宜評価されたり無視されたり、なんでも構わないのである。目に付いたからといって、反応をする義務が生じるわけでもない。意図があるからと言って、意図を知る必要があるわけでもない。そういうもん。
第一、この文に「意図」なる概念が必ずしも一意に存在するのかは、こうして書いている私自身にも分からんのではある。そこにあって語られる感情や、あるいはその背景に存在する瞬間毎の事象というものは、ある意味では当たり前なのだが、単一に存在するとは限らない。
そもそも、この文を書こうと至った瞬間は昨年末だ。その瞬間に取り敢えず書かれていた文章は、作品のタイトルのみを残して全部消えているので、考え方によってはそこに存在の連続性というものは一切存在しない。
それでも、他ならない著者自身がそこに連続性を認識している以上、この文章は「昨年末から引き継いで記述されたもの」の理念を有している。そして、それが実際に誰かの目に触れた折に、現にそうであることが何らかの意味を有し得るのかというと、直感的には全く有り得ないのだ。
そんなわけで、誰かにとっては当たり前だとされるような事柄が、果たして背景を共有しない誰かにとってすら当たり前に等価である……ということは当然なく、むしろそこにある現実や物理的事象というものは、現在に至る不可欠の過程であると同時に、それ自体に価値があるものではない。発生していた物理的事象が解釈によって無かったことになる……というのは流石に無いとは思うが、観測不能などこかで何かがあったという事が、その個人にとって当たり前に有価値になるとは限らないというわけだ。
もちろん、ここでいう物理的事象というものが、自体解釈によって生じている系に関してはこの限りではない。現実では全く無視出来ない観点ではあるのだが、ここではあくまでも定義上「発生していた物質的な干渉を伴う現象」のことだけを物理的事象として語る。
語る、といってもこれ以上は広げないが。
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冒頭でも(そういう意味ではないにしろ)語っていたが、何かをするということには、そもそも「したいという動機」が伴っていないと成立しない節がある。
読んでいる側からしたら「絶対嘘だろ」という感じではありそうだが、私がこうして記述している文章も、基本的には語ろうとした主題ではなく、具体的な事象がないと成立出来ないもので。
当然、私があったことに対してほぼ触れず、下手をすれば九割九分ほどが要らん話で構成されていることすらあり得るにしても、そこに心核にあたる具象がなくては、文章は決して完成しない。一次創作は物語や登場人物を心核とするように、私小説は現実を心核として生まれるのだ。例外は多分ない。たぶん。
というわけで唐突に話を始めると、昨年末頃……正確に言うと神無月の半ばくらいだったかから、然る配信者の方に熱を上げておりまして。熱を上げていたから執筆をサボっていたという意味ではなく。
きっかけについては、本当になんということもない。ただその時の偶然によって繋がれた縁を、たまには大事にしてみるかと思い立って、今日まで続けてきたというだけだ。実のところ、それ以上でも以下でもない。
もっと以前から心の中に既に居た、暖かな太陽と、それと同じように暖かで穏やかな、雨上がりに結ばれる虹と。あるいは、気象にまつわる名前の人と縁があるのかもしれない。
……そんなことはよくて。
なんにせよ、そこにいて価値を持つ誰かにとって、儚くも意味のある大勢の一人でありたいと願い。人が少なく相対的に価値の占める割合が大きい内はともかく、いずれは埋もれて認識すらされなくなるような、踏み台にされて然るべきものとして、薄い関係を続けようとしたものだ。
それでも、虹のように鮮やかな彼女とは、うっかり距離を詰め過ぎた。随分と、深入りをしてしまった。気付かれないようにと気を払っていたはずでも、隠し事の出来ない私には全てが無駄で、気付かれても構うまいと――あるいは本心では気付かれたかったのか、行いは既に露見してしまっている。
故に、殊更に気を払われることが、好ましい想起をもたらす事を、教えられてしまった。
今では既に、魂を灼かれている。心の片隅に、灼かれて刻まれたものが残っている。
あるいは、その想いを無駄と断じるものがいるのだろう。
果たして手の届くことのない、そこにあって価値を持つ誰かに、自分自身の持つものを捧げることを、何の益も伴わない、純然たる無価値であると。返ることのない、報われない献身であるのだと――そんな事をしても手に入るものは何も無いのだと、事象に囚われるお前達は、そう思っている。
そうではない。
そうではなくて。
何かを好み、誰かのためにあろうとする想いが、その想念がもたらした価値の分配そのものが、そこに何かしらの利益で有り得ることを、知らない。
自分自身の利益が大事なのは、もちろん誰しもがそうではある。一方で、では自分自身だけが利益を得ることの、ただそれだけが至上の幸福であり、それ以外は取るに足らないことなのか。自分自身の利益を擲ってでも、誰かに報いることは幸福たり得ないのか。
諦めて、半ば終わってしまった自身の存在を。
そうであってほしくはない誰かのために使うことが、不利益に数えられるのか。
……それでも、きっと。この想いは、決して無償の愛などではなくて。
何を求めるのかも本質的には知らないまま、理解もしていない明日の理想を願って。
私は、私が知っている、全ての好ましいものに。あるいは、全ての否定に足らない、愛すべき人々のために。世の不幸が無いことを祈り、それが誰かを否定しない限り、全ての人の望みが不足なく叶うことを願いながら。
許されざる害悪共がそこにいたのなら、その存在を全て咬み殺す。
いくら喰えども満ちることのない腹を、絶えない憎悪が満たすのだと信じて。
――そのようにあることの、居心地の悪さを忘れるために。
滾る憎悪に蓋をして、私は誰かを愛するでしょう。
壊れた蒼陽が、苛烈に私を見ているから。
ただ私が、私自身を灼かないで済むように。
※意図を認識出来る人間:私自身もどうせ後から見たら絶対分からん