氷の国の爺1
ドラゴニア北部にあるアイスガルド領には、氷竜の群れが棲む氷竜湖がある。
そして、氷竜湖の真ん中には、氷竜の営巣地となっている氷山島がある。
約千年ほど前に氷山島に氷竜が棲みついてから、周囲の環境は一変した──営巣地から強力な氷竜の魔力が漏れ出し、冬の寒さはより厳しくなり、夏も他の地域に比べてかなり涼しくなったのだ。
また、冷気をはらんだ氷竜の魔力は、周囲の山々に分厚い氷河を築き、北部からの他国の侵入を防いできた。
そして百年ほど前には、その氷河にサーペントの王が封印されることとなった。
サーペントの王は長い長い時の中、冬眠について復活の時を虎視眈々と狙っているとも、すでに氷の眠りの中で亡くなっているとも噂されていた。
だが、物事は移り変わるのが常だ──そんな状況も、氷竜の長の代替りとともに、変わることになった。
臨時で就いた新しい氷竜の長は、先代の長よりもその力量がかなり劣った。営巣地から放出される氷竜の魔力量が激減し、周囲の山々の氷河を維持することが難しくなったのだ。
夏に向けて気温が上がってくると、ついに氷河は勢いよく溶けていき、氷竜湖周辺には新たにたくさんの氷河湖が生まれていった。
『ガイ! ガイドルニウス! 空だ! 空が見えるよ!』
「空ぁ~~~? また夢の話か? 『空の夢』は確か……深層心理の反映じゃったか? ここから出たいわしの妄想を映しとるのか?」
『違うよ! 夢じゃない、現実の話だよ! 僕の予知夢で見たんだ!』
「結局どっちなんじゃ!? お主が言うと、本当に夢なのか現実なのか分からんのぉ~」
『寝ぼけてないで、見てみなよ! 自分の目で見れば、分かるでしょ!?』
「わしゃ、寝ぼけとらん! 寝とるんじゃ!」
『もう~、そんなんじゃ、溶けた氷河に流されてっちゃうよ!』
「は? 氷河は流れんじゃろ…………」
ガイドルニウスは重たい瞼を持ち上げた──実に百年ぶりのことだった。
百年ぶりに目にした最初のものは、「光」だった。目に入ってくる情報の何もかもが眩しすぎて、「光」としか認識できなかったのだ。
しばらくぼーーーっと目を慣らしていると、自分が封印された氷河の天井に穴が空き、そこからか細く光が降り注いでいるのが見えた──ここ百年で一度も見たことがなかった夢だ。
ガイドルニウスの頭はいつもの癖で考えていた。「この夢には一体、どういう意味があるのじゃろうか?」と。
だが、氷河に空いた穴から微かに外の空気が入り込み、ボォォォ……と低い風音を立てていることに気づいた瞬間、バチッと弾かれるように思考が覚醒した。
身体をくねらす──蛇体が、鈍く動いた。
凍えて動きづらい状態ではあるが、全く動けないということはない。今までとは違うのだ。
ガイドルニウスは渾身の力を込めて、氷河の天井に体当たりをした。
一度目で天井に大穴が開き、二度目で外に脱出することに成功した。
『うわぁああぁっ!!?』
腹の中で、ここ百年の相棒が悲鳴をあげた。
「ガッハッハッ! 外じゃ! 外じゃぁあっ!!」
ガイドルニウスは大きな蛇の口から、ペッと腹の中の相棒を吐き出すと、呵呵と笑った。
巨大な蛇体を、人型へと変えていく──面長で精悍な顔立ちに、太い眉。見事に双子に割れた顎をしていて、色鮮やかな黄金色の瞳の中には、ギラリと輝く星々が見える。そして、もっさりもさもさと巨大なアフロが、溶け出した氷河の冷たい風に揺さぶられていた。
相棒はペシャリと氷の上に叩きつけられた。「うわっ、痛っ! 冷てっ! しかも生唾臭っ!」と文句を垂れる。
相棒は手のひらに乗るぐらいの大きさで、幼な子のように丸くふっくらと愛らしい顔立ちだ。夢のように淡いピンクや水色、薄紫色が入り混じったわたあめのような髪型をしている。
「ほぉ~~~。随分景色が変わったのぉ~~~。洪水でも起こったようじゃ。わしゃ、わくわくすっぞ!」
ガイドルニウスは目の上に手をかざし、ぐるりと周囲を見回した。
辺りには、氷河の氷が溶けてできたいくつもの湖ができており、記憶の中で陸地だった場所は、どこもかしこも水没していたのだ。
「ガイ! 酷いじゃないか! 百年も無駄話に付き合ってあげたのに、この仕打ち!!」
相棒が、ぷんすこと両手の拳を突き上げて、ぴょんぴょんと跳ねた。
「スエーノ、外に出られたんじゃから、いいじゃろ?」
ガイドルニウスがニヤリと嗤って見下ろした。
「こんの、クソジジィイイィッ!!!」
スエーノがさらに顔を真っ赤しにて叫ぶと、ガイドルニウスは腰に手を当て愉しそうに「ガーッハッハッ!」と大爆笑していた。
グゴギュルルグルグルルグググウグウルルゥ~~~⭐︎
大音量の腹の音に、スエーノの動きがピタリと止まった──嫌な予感しかしなかった。
「わし、お腹すいちゃった☆」
ガイドルニウスとスエーノの視線がパチリと合った。ガイドルニウスの目は明らかに「いいもん見っけ⭐︎」と語っていた。
「ぎゃあああぁあっ!!!」
スエーノは渾身の力で夢の中へと逃げようとした。
だが、ここ百年で魔力を吸われまくってしまったせいか、スエーノはすぐに逃げ出すことができなかった。
むんずとガイドルニウスに襟首を掴まれると、また一飲みに彼の腹の中へと戻っていった。
『このクソジジイ! 覚えておけっ!!』
食道を下っていくスエーノの叫び声が、ガイドルニウスの体内に響いていた。
***
「よう、レイ! 迎えに来たぞ!」
その日の朝、ウィルフレッドがバレット邸にやって来た。
片手を上げ、にかっと気安く笑っている。
ウィルフレッドは、今日はいつものだらしない格好ではなく、腰から剣を下げ、冒険者の剣士のような服装をしている──どこにも隙が無い万全な装備が、本日会いに行く魔物が、生半可な気持ちで相対すべき相手ではないことを物語っていた。
「師匠、おはようございます!」
レイは元気よく挨拶をした。
レイも今日は冒険者をしていた時の装備を引っ張り出し、腰にはショートソードを佩き、脚にはアイザックの抜け殻の鱗でてきたブーツを履いていた。森の加護の強い森織りのローブも羽織っている。
「ウィル、おはよう。ユグドラからは他に誰が来るんだ?」
見送りに出ていたニールが、腕を組み、どこか訝しげに確かめた。
今日は仕事のため、すでに上等なスーツに着替えている。
「ユグドラからは、アイザックと他の三大魔女二人が来る。あと遅れてフェリクスが来る予定だ」
「……そうか。フェリクス様がいらっしゃるなら、大丈夫そうだな」
ウィルフレッドの話を聞いて、ニールは少し表情を和らげた。
ニールは隣に立つレイを、心配で傷ましげな表情で覗き込んだ。
子供に大事なことを言い聞かせるように、彼女の両肩に手を置き、視線を合わせてしゃがみ込む。
「レイ、気をつけて。相手は古くからいる老熟した魔物だ。単純な力の強さもそうだが、決してそれだけではないだろう」
「分かりました! 師匠の言いつけを守って気をつけます!」
レイはしっかりと頷いた。
「そうだな。いざとなったら、ウィルを生贄にして逃げなさい。フェリクス様の到着まで持ち堪えるんだよ」
「はいっ!」
ニールは非常に真面目な表情で言い切った。
レイも素直に頷く。ウィルフレッドなら、何とかなりそうな気がしたのだ。
ウィルフレッドはそんな二人の様子を見て、「おいおいおい……!」とツッコミを入れていた。




