氷竜の代替り6
蒼の森は、吐き出した白い息も青く凍ってしまいそうなほどの寒さだった。
一歩、蒼の森に足を踏み入れてしまえば、そこは青の世界——地面も草木も空も、動物たちでさえも、世界の全てが青色の濃淡でできていた。
森の中で見かける小鳥は、全て氷のように儚い青い鳥だ。雪の結晶のように繊細なさえずりを残して、青い枝から枝へと飛び移っていく。
ガラス細工のように青い鹿の親子は、すっくと細い首を持ち上げてレイたち一行を見つけると、怯えるように跳ねて森の奥へと逃げて行く。
青いたぬきは大きな青い倒木の下に隠れて、つぶらな二対の瞳でじっと一行が過ぎ去って行くのを息を潜めて眺めていた。
「すごい、何もかもが真っ青ですね!」
「ええ。この青さから、この森に慣れていない者はすぐ迷子になるんです。目印は全て青色ですから」
レイの感嘆の声を拾って、氷竜の青年の一人が答えた。
「確かに……」
(それに、氷竜の魔力が濃くて、ぐるぐるしててちょっと気持ち悪いかも……なんだか、光竜の里の森に似てる感じだし……)
むわっとするほど濃い魔力の中、レイはちょっぴり顔を顰めた。
「レイちゃん、酔ってない? 大丈夫?」
レイの後ろを歩くライデッカーが、尋ねてきた。
「結構、魔力がぐるぐるしてますね。酔い止めのお薬を飲んでるので、そこまでではないですけど……」
「氷竜の里まで我慢できそうかな?」
「それは大丈夫です」
ライデッカーの気遣いに、レイは小さく頷いた。
「竜の営巣地の外って大概こんな感じなんだよ。竜から漏れた魔力の影響でこういった森ができやすいし、それに惹かれた強い魔物も棲みつきやすい」
「へぇ……確かに、光竜の里の森もこんな感じでした」
「レイちゃん、森にも入ったの? 魔力、キツくなかった?」
「誘惑の魔物さんに会うためなら我慢できます!」
レイが力強く力説すると、ライデッカーはじと目になり、呆れて「あ、そう……」と答えた。
「そろそろ里に着きますよ」
氷竜の青年の一声で、レイとライデッカーは遅れを取り戻すように足を早めた。
氷竜の里は、蒼の森と里を分け隔てるように巨大な氷の壁で覆われていた。
氷の壁には大きな門が築かれていて、屈強な門番たちが立っていた。
そして、その門の所では、意外な人物——ニールが待っていた。
ニールは、レイと揃いの黒狼のファーが付いたコートを羽織り、ポケットに手を突っ込んで門の前に立っていた。
「遅かったな」
ニールは色鮮やかな黄金眼を眇め、やって来たメンバーを見回した。
「ニール!?」
レイが驚いて、素っ頓狂な声をあげた。まさか氷竜の里に来ているとは思ってなかったのだ。
「いつの間に来てたんですか!?」
レイは目を丸くして、ニールに駆け寄った。
「さっき来たところだよ。レイは凍傷になったりは大丈夫かな?」
ニールは目尻に皺を寄せて柔らかく破顔すると、近寄って来たレイを上から下まで注意深く観察した。
「ニールからもらったクリームを使ったので、大丈夫ですよ!」
レイが元気に報告すると、ニールはほっと安堵の息を吐いた。
「さぁ、ヴェイセル老のところに行くぞ」
ニールはレイと手を繋いで、氷竜の里の中へ堂々と入って行った。
氷竜の里の奥にある一番立派な建物は、氷竜湖の長の家だ。氷山島の青い木材を使った建物で、壁から屋根、扉まで全て青色だ。
長の部屋に通されると、そこには、腰まで届くほど長い真っ白な髭をたくわえた小さなお爺さんが、座布団の上で胡座をかいていた。
お爺さんは、ニールがレイの手を引いて部屋に入って来たのを見ると、ふさふさの眉毛に隠れたつぶらな青い瞳をしぱしぱとさせた。そして、半分ボケたような感じで訊いた。
「なんじゃ、孫の嫁か」
「妹です。あと、私は孫ではありません」
「ああん? 彼女か?」
「妹です」
「ああん? 娘か?」
「だから妹です」
「ああん?」
お爺さんが耳に手を添えて大声で訊き返すたびに、ニールは半分呆れながらも丁寧に言い直していた。
氷竜のお手伝いさんたちは、お爺さんと影竜王ニールのやり取りに、顔色を青くしてヒヤヒヤおろおろしていた。
「長様は、去年ぐらいから急に耳が遠くなられまして……すみません」
入り口付近にいた氷竜のお手伝いさんが、申し訳なさそうにこっそりとガロンたちに伝えた。
「爺さん、元気そうだな! 土産を持ってきたぞ!」
ガロンが一際明るくニカッと笑って、ドスドスとお爺さんの方へ近づいて行った。
「よく来たな、火竜の坊主」
お爺さんは不意にガロンの方に顔を向けると、悪友を迎えるように、にやりと笑った。
そして、ガロンの後ろの面々に視線を向けると、ぽつりと呟いた。
「ワシ、こんなに孫いたっけか?」
「爺さん、こいつらは客だ。俺と一緒に来たんだ。孫じゃねぇ」
ガロンはお爺さんの向かいの席に座ると、背の低い長テーブルの上に、ドンドドンッと世界各地の酒瓶を置いていった。
「爺さんの好みは分かんねぇから、めぼしいやつを片っ端から持ってきたぞ。好きなだけ呑んでくれ」
「おお! 坊主は話が分かるのお! 最近じゃ、この家は飯も出んのじゃ!」
お爺さん眉毛に隠れた瞳をキラキラとさせて、嬉しそうな声をあげた。
氷竜のお手伝いさんは、「本日はもう二食も召し上がってるのですが、すっかり忘れられてます」とぼそっと弁明した。
ライデッカーたち客人は、これには苦笑いするしかなかった。
「ほれっ! 新しい孫たちも座れ! 久々の酒盛りじゃ!!」
お爺さんは、上機嫌で客人たちを手招きした。
客人たちは戸惑いながらも、各々、酒宴の席に着いた。
***
「ガガー、ゴォオォォーッ」
お爺さんは、酒瓶を抱きながら、大いびきをかいて寝転がっていた。
すかさず氷竜のお手伝いさんが、お爺さんに布団をかける。
「相っ変わらずいびきがうるさいな、爺さん」
ガロンが辟易した顔で呟いた。
他のメンバーも、苦笑いだ。
そこに、新たに別のお手伝いさんが案内に来た。
「別室にご用意があります。こちらへどうぞ」
氷竜のお手伝いさんに案内されたのは、立派な応接室だった。
応接室の真ん中を占める青い木製の大机は、脚に流麗な彫りが施され、机と揃いの椅子の背もたれにも同様の彫りがある。
壁には何枚もの氷竜の絵が掛けられ、氷結晶でできたランプが天井から吊り下げられていた。
そこにはすでに三人の人物——氷竜が席に着いていた。
一人は、ガロンに匹敵するほどに大柄で、非常に筋肉質な男性だ。幼な子のように純粋そうな笑みを浮かべていて、どこかちぐはぐな印象だ。
もう一人は、眼鏡をかけた男性だ。中肉中背で、目つきは多少鋭いが、理知的な顔立ちをしている。応接室に入って来た客人を、冷静に値踏みするように順番に眺めていた。
最後の一人は、一番年嵩そうな女性だ。あたたかな笑みを浮かべ、客人たちを歓迎ムードで迎えていた。彼女が一番上座に座っていた。
ガロンたち全員が席に着くと、眼鏡の男性が話し始めた。
「ガロン様のことは、以前より長様から伺っております。もし何かあれば、引導を渡してくれると……」
氷竜の女性が、言葉を引き継ぐ。
「ただ、長様はいまだに次の長を指名されてません。そして、今この湖の氷竜には、残念ながら長として突出した者がいません」
「ってことはつまり、爺さんのことは少し待ってくれってことか?」
ガロンは二人の話を聞き終えると、事務的に確認した。
「いえ、そうではありません。ですが、客観的なアドバイスが欲しいのです。幸運なことに、今ここには竜王様が二体もいらっしゃいます。我々三人の中で、誰が次の長に相応しいか、ご助言いただけたらと思います」
眼鏡の男性が答えた。
「「…………」」
ニールとガロンは腕を組み、渋い表情で考え込んだ。
「そもそも、俺はあんたたちのことをよく知らない」
「私も、みなさんのことは詳しくは存じ上げませんし、バレット商会を優遇すると約束してくださるなら、その方を推すかもしれませんよ?」
ガロンはあっけらかんに言い放ち、ニールは面白がるような試すような視線で、候補者三人を見つめた。
「……やはり、そうですよね……」
眼鏡の男性が眉根を寄せて、俯いた。
「そもそも『力』という点では、彼が適任なのではないですか? 竜は強き者に従うでしょう?」
ニールが色鮮やかな黄金眼を眇め、一番大柄な男性を見つめた。
ニールに睨まれるように見つめられ、彼はピュンッと筋肉が盛り上がった肩を跳ね上げると、「お、おでですか?」と怯えるように自分自身を指差した。
「確かに、この里ではドーグ——彼が、長の次に力の強い竜です。ですが、子供のように純粋で、長を務めるには騙されやすく気が弱すぎます……」
眼鏡の男性は、頭痛がするかのようにこめかみを押さえて説明した。
「あんたはどうなんだ?」
ガロンに顎先で指し示され、眼鏡の男性が「私ですか?」と呟く。
「彼、イェスタフはこの里で一番頭がいいんです。ただ、力はそこまで強くはないので、彼が長を務めるなら、雄の中には反発を覚える者も少なくないかと……」
氷竜の女性が、思案顔で説明してくれた。
「あなたはどうなんですか?」
ニールが、女性の方を見つめた。
「アーヴァは、ドーグほどではありませんが、そこそこ強い竜です。面倒見が良くて、里のみんなをまとめるのが上手なので、よく慕われてます」
眼鏡の男性——イェスタフが答えた。
「ふむ、どいつも一長一短か……」
「これはヴェイセル老も悩まれるわけです」
ガロンは腕を組んだまま渋面で、ニールは考え込むように顎先に指を添えて唸った。
「それなら、里のみんなに投票してもらったらどうですか?」
レイが小さく手を上げて、提案してみた。
「……『投票』ですか……?」
イェスタフが訝しげに訊き返す。
「そうです。候補者の中で誰が長に相応しいか、一人につき一票投票してもらうんです。それで、一番得票数が多かった人が次の長になるんです。里の方なら、ニールやガロンさんよりも候補者のみなさんのことに詳しいんじゃないんですか?」
レイはざっくりと簡単に説明した。
「……なるほど、次の正式な長が生まれるまでの繋ぎと考えれば、悪くはないですね」
イェスタフが真剣に考え込むように相槌を打つ。
——その時、地面が激しく揺れた。
「「「「「「「「「「っ!?」」」」」」」」」」
ニールはすぐにレイを抱き抱えると、自分たちの周りにだけ結界を張った。
慣れない地震にコリーとチャドは大騒ぎし、どっしりと不動のまま座っているガロンに抱きついた。
氷竜たちは「長様、またか……」「お爺ちゃんの寝起き、酷いわよね」と呆れ顔だ。
ライデッカーも頑丈な竜であまり危機感を抱いていないためか、「お、揺れてるな」とだけ呟いた。
「…………」
レヴィは、初めて人型で体験した地震に、人知れず感動していた。
(……結構、揺れたなぁ……震度三ぐらいかな?)
元の世界で地震大国に生きてきたレイは、この程度の揺れではもちろん冷静だった。
当時のクセで、地震速報をチェックしたくなって「あ、この世界には無いんだ」と思わずハッとなって気づいた。
ドッゴーン!
バキバキバキッ!
「きゃっ!?」
「うわぁあぁあっ!?」
「ヤベェ! 避難だ!!」
レイとチャドとコビーは、悲鳴を上げた。
今度は家ごと大きく揺れ、天井も壁も跳ね飛ぶほどに動いた。
揺れがおさまってレイがおそるおそる目を開けると、天井がすっかり吹き飛んでいて、ぽっかりと黒い空が見えていた。
そして、氷の彫刻のように美しい氷竜が、曇天の空に浮かんでいた。
「グオオォオオォッ!!!」
突然の竜の咆哮に、その場にいた全員が自分の耳をふさいた。
「……仕方ねぇな」
ガロンは空を睨みあげ、太い声で呟くと、いよいよ席を立った。




