グリムフォレスト4
「おはよう、アルマ嬢」
「おはようございます、ランングフォード魔術伯爵」
翌朝、領主館の食堂で、ハムレットとアルマは顔を合わせた。
互いに笑顔で挨拶を済ませると、朝食の席に案内された——ちょうど、向かい合わせの席だ。
本日の朝食は、ジャムや芥子の実が真ん中に載った小ぶりの甘いパンをメインに、ソーセージ、そしてジャガイモのポタージュだ。コーヒーも付いている。
「あいにく兄は仕事のため、すでに朝食は済ませているのです」
席に着くとすぐに、アルマは申し訳なさそうに詫びを入れた。
「おや? それなら、アルマ嬢と二人きりだね」
ハムレットは、爽やかな笑顔で返事をした。どこか嬉しそうな、弾むような声音だ。
「……あの、他にいらっしゃったお二方の朝食は……?」
「彼らも仕事でね。先に出ているよ」
ハムレットがさらりと伝えると、アルマは目を丸くした。
「あのお二人は、ラングフォード魔術伯爵の護衛ではなかったのでしょうか……?」
アルマは想定外のことに戸惑いながらも、尋ねた。
「そうだね、彼らは黒の塔の魔術師だからね。私の護衛ではないよ。むしろ私の方が護衛をしたくてついて来たまであるんだけど……でも、せっかく案内してもらえるということだから、アルマ嬢にはシルルベルクの街を案内してもらおうかな」
ハムレットは、パチリとウィンクを決めた。
アルマは食事の手を止め、しばし呆然としていた。
***
「今日はどこへ案内してもらえるのかな? シルルベルクといえば、中央広場の人形劇が有名だね。オペラ劇場の方には行ったことがあるんだけど、そちらの方は私もまだ見たことが無いんだ。それに、回廊橋も有名だし、聖鳳教会も他とは違って昔ながらの美しい建物だというね。ああ、でも、シルルベルクは街並み自体が美しいからね、君と一緒に散歩できるだけでも充分に楽しめそうだ」
ハムレットは、アルマに優しく微笑みかけた。
ハムレットがエスコートのためにさりげなく腕を差し出すと、アルマは躊躇いがちにその腕に手を載せた。
「……それでは是非、フェルタバ川沿いの遊歩道を」
アルマは少し俯き、どこか沈んだ声音で答えた。
「いいね。フェルタバ川も観光名所だよね。四季折々の景色が美しいと、私の知り合いたちも口にしていたよ」
ハムレットは気づかないふりをして、柔らかい口調で返した。
領主館から出ると、二人は石畳が敷かれた細道をコツコツと靴音を鳴らして歩き、フェルタバ川へと向かった。
細道の両側には、シルルベルクによくある小さな家々が、所狭しと立ち並んでいた。お伽話の中のようなかわいらしい景観ではあったが、ひと気は少なく、どこかもの寂しい雰囲気だった。
所々にある店も開店休業状態で、たまに見かける客人も、どこか翳りのある表情をしていた。
民家や商店を抜け、小さな坂と階段を下りて行くと、フェルタバ川に突き当たった。
川岸は真っ白な雪が薄く積もり、その下には、以前はこの川で悠々と人や積荷を渡していたであろう小舟たちが、静かに眠るように横たわっていた。
川の真ん中では、かろうじて残った細い川の流れが、氷の蓋で覆われていた。
「……ラングフォード魔術伯爵。今、レスタリア領では何ヶ月も雨が降らず、この川岸いっぱいまであった水の流れも、今はここまで減ってしまいました」
アルマは遠目に、かすかに生き残った川の流れを見つめた。静かに語り始める。
「そのようだね」
ハムレットは、相槌を打った。彼女の言葉の続きに耳を傾ける。
「水を求めて、人々はこの地から離れていき、狩りの獲物でさえも、グリムフォレストの奥地へ——境界線の向こう側へ行ってしまい、人々はまともに食糧を得ることもできません」
アルマは、ギュッと、ハムレットの腕に添えている手に力を込めた。
(それは本当)
ハムレットは、静かにアルマの話に聞き入っていた。
ただ、ハムレットの魔力は、アルマの心の真意を感じ取ろうと、彼女の周りを覆って活発に流れていた。
「私は、悔しいのです。レスタリアの領民が渇きに、飢えに苦しんでいる。でも、私には何もできない……」
アルマは、ギュッと目を瞑ると、下を向いた。
(これも本当)
「…………ラングフォード魔術伯爵、お助けください! 私のことは、ラングフォード魔術伯爵の好きにしていただいて構いません! ですが、人助けだと思って、レスタリアの地にまた雨を降らしていただけるよう、水竜王様にお願いしていただけませんか?」
アルマは胸の前で祈るように両手を組み、ハムレットを見上げた。嵐の前の空のようなグレー色の瞳には、目尻にささやかながら涙が溜まっていた。
(——これは、嘘)
「泣かないで、アルマ嬢」
ハムレットは手袋を外すと、長い指先で優しく、アルマの目尻に溜まった涙を拭った。
ハムレットは長身を屈めて、アルマの耳に口元を寄せた。さらりと、水竜湖のように深く美しい瑠璃色の髪が流れ、カーテンのように二人を隠す。
そして、瞬時に防音結界を展開した——遠くから二人の様子を監視している者たちには、気づいていたのだ。
「でもね、これは君たちが招いたことだよ。そして、今君が最後に言ったことは、君の本心じゃない」
ハムレットは、睦言を囁くように、残酷に告げた。
アルマは驚きのあまり瞳を大きく見開き、固まってしまった。
「本音で語り合おうか、アルマ嬢。君は、全く別のことを望んでいる。大丈夫。今、私たちの会話は外には漏れないから」
ハムレットはアルマと向き合うと、柔らかく微笑んだ。
アルマはすっかり乾いた瞳に意志の火種を灯らせて、ハムレットを見上げた。
***
オリヴァーとレイは、夜も明けきらぬ早朝に、領主館を出発した。
手元のランプを頼りに、冷え切って凍った石畳を慎重に踏み、シルルベルクの街の中を進んで行く。
人々がまだ寝静まっているためか、街の中はしーんと静まり返っていた。時折、ワォーンと犬か狼の遠吠えが、もの寂しく聞こえてきた。
街を囲う城壁を抜けて一時間ほど歩くと、グリムフォレストの森の入り口にたどり着いた。
立派な木々が鬱蒼と茂り、白いふかふかの雪が深く積もっていた。
「ここは魔力が豊富で心地いいですね。それに、街に比べて随分、雪も深いです」
グリムフォレストに一歩足を踏み入れ、レイは白い息を吐きつつ、率直な感想を口にした。
レイの足元からは、寝ぼけた雪や霜柱の精霊がふわりと宙に浮かび、白銀色の光をチカチカと明滅させていた。
「良い森だろう。水竜王様も、妖精自治区には雨を降らせてくださっているようだ。その分、森の方が雪が深いのだろう」
グリムフォレストを褒められて嬉しかったのか、それとも森の無事を確認できたからか、オリヴァーの表情が和らいだ。
「さぁ、行こうか。境界線を越えたら、妖精の小道に入ろう。それまでは、誰に見られているか分からないからな、慎重に進もう」
「了解です!」
オリヴァーに言われ、レイは元気良く返事をした。
雪原の端からは、赤々と朝日が差し込み始めていた。




