雨の回廊9
レイたちは、水鏡の中を、元の世界へ戻されるように、どこかへ放り出されるように、引っ張られていった。
暗い水鏡の中でふと見上げると、割れた鏡の破片に、記憶の欠片が散りばめられて映っていて、夜空の星々のようにキラキラと瞬いていた。
記憶の欠片の中では、ザアザアと、少し強めの雨が降っていた。
(……これは、本当にあった、誰かの記憶?)
レイは魅入られるように、記憶の欠片たちを眺めていた。
断片的に、過去の映像が流れていく——
「君を危険な目に合わせたくないんだ! 君が敵の集中砲火を受けていた時、どれだけ私が生きた心地がしなかったことか……」
ラヒムは大声を上げた後、痛々しいほど悲しげにガザルを見つめた。
心臓の辺りを、堪えるようにぎゅっと握り締める。
「でも、私がやらなかったら、あなたはきっとあそこで死んでいたわ! どれだけの兵力差があったと思ってるの?」
ガザルも声を張りあげる。その瞳には薄っすらと赤みが差している。
ラヒムは、ガザルの問いには何も答えられず、思い詰めたように眉根を寄せた。
「……ラヒムは、本当にこんなことで奴らを止められると思ってるの?」
「…………だが、戦うしかない。帝国は占領した国の民は、そのほとんどを奴隷に貶めているという。私が戦わなければ、この国も民も守れない」
ラヒムの拳が、固く握られる。力を込めすぎて、小さく震えている。
「あなたは弱いのよ!」
ガザルが叫ぶ。
「そうだ。それでも、戦うべき時には戦わなければならない。だからといって、それに君を巻き込みたくない。君を傷つけたくないんだ!」
ラヒムの真剣な藍色の瞳が、ガザルの黄金眼を射抜いた。
「……弱いくせにお人好しで、無駄に勇敢すぎるわ……本当に、仕方のない人……」
ガザルが悲しげに眉根を寄せ、力無くラヒムを睨みつける。
「敵襲! 残党兵の襲撃だ!!」
遠くの方で、味方の兵士の声が上がった。
「「はっ!」」
ラヒムとガザルが声がした方を振り向くと、エスパルドの軍服を着た歩兵が、こちらにも駆けて来ていた。
ガザルは彼らを冷たく一瞥すると、軽く手を払う仕草をした。あっという間に、兵士たちは砂となって崩れていく。
「……ラヒムは、もう私の正体は知っているんでしょう? ……怖くはないの?」
ガザルが俯く。震える声で問う。
「怖くはない。ガザルはガザルだ。私の愛しい人に変わりは無い」
ラヒムはキッパリと、力強く言い切った。
「…………本当に、ばか……」
トンッと、ガザルがラヒムの胸に倒れ込む。そのまま細い指で、ラヒムの服をぎゅっと握る。
ラヒムも優しくガザルを包み込むように抱きしめる。彼女の柔らかいローズ色の髪に、頬を寄せた。
「……ガザル」
ガザルが急に両腕で突っぱねるように、ラヒムと距離をとった。
「……ガザル?」
「私に呪われた、と言いなさい。竜に呪われた土地は、誰も欲しがらないわ。エスパルド帝国だけじゃなく、他の国も手を出さないでしょう」
ガザルがキッと、ラヒムを見上げた。黄金眼は蜂蜜よりも甘く、うるりと涙に滲んでいた。
ガザルのたおやかな長い髪の先から、淡いローズ色の砂がサラサラと流れ落ちていく。
「……ガザル、何を言って……?」
「きっと、あなたは今エスパルドを退けても、また同じようなことが起これば、戦ってしまうんでしょう? 本当に、仕方のない人」
ラヒムは、ガザルの変化に気付いていたが、彼女の黄金色の瞳から、目が離せなかった。
喉がひり付く。声が震えて止まらない。
「や、やめろ……やめて、くれ……」
ラヒムがガザルに手を伸ばす。
『侵略者たちよ、私の愛を思い知れ』
ガザルが重々しく、心を決めたように呟いた。長かった彼女の髪は、もう肩ぐらいの長さになっていた。
ラヒムが必死に掴んだガザルの髪は、全て砂となってサラサラと彼の指の間を流れ落ちていった。
「…………それなら、せめて私は……私たちは、君の名前を忘れないようにしよう——君から受けた全てを、忘れないように……」
ラヒムは、嗚咽混じりに、たどたどしく伝えた。
もう涙で目の前は、よく見えていなかった。
それでも、彼女だけを見つめた。
「ふふっ。素敵な贈り物ね。ラヒムから貰った物の中で、一番だわ」
ガザルが、ふわりと満面の泣き笑いをした。砂になっていく彼女は、爪先から、指先から、サラサラと崩れていっていた。
「……ガザル……」
ザァッと急に強い風が吹いて、ラヒムはたまらずに目を閉じた。
次にラヒムが目を開けると、ガザルの姿は、もうどこにもなかった。
世界は、淡いローズ色の砂漠に覆われていた。
いつの間にか雨は止んでいて、からりと澄んだ青空が広がっていた。
「ガザルーーーーー!!!」
ラヒムの慟哭が、淡いローズ色の砂漠に響いた。
水鏡の暗い闇の中で、ラヒムの泣き叫ぶ声だけが、遠くへと掠れていった。
***
「わっ!?」
「うおっ!」
「くっ……」
「……」
レイたちは、ちょうど儀式が行われた祭壇の前に放り出された。
ドサドサッと、四人して祭壇前の地面に転がる。
「兄上! ダズ! クリフ先生にチビ助も!!」
真っ先に彼らに気づいたヤミルが、必死な形相で駆けつけて来た。
「……ここは? 祭壇か?」
サディクが上半身を起こすと、ぽつりと尋ねた。
「そうです! 兄上たちは丸二日も行方をくらましてたんですよ!」
ヤミルは半泣きで、サディクに腕を伸ばして支えた。
「……ヤミルは祭祀服のままだが、まさか?」
サディクが、まじまじとヤミルの姿を眺めて、目を丸くした。
ヤミルの藍色の祭祀服はくしゃりと皺が寄り、あちこちが砂埃に薄汚れていた。美しく結い上げられていたはずの長い金髪も、乱れて崩れかかっていた。
「当たり前でしょう! ここで起こったことですから、重要な手掛かりはここにあるはずです!!」
くしゃくしゃだけど必死な様子のヤミルは、髪も瞳の色も、顔かたちも背格好も違うのだが、一生懸命なラヒムの姿に重なった。
「……仕方のない奴だな……」
サディクがほろ苦く笑った。
ダズもクリフもレイも、全く同じことを考えていたのか、思わず苦笑する。
「笑い事ではありません!」
彼らの笑みは、ヤミルを余計に怒らせただけだった。
レイたちは、祭壇のある遺跡を出た。
遺跡前の広場には、たくさんの人が待機していた。捜索に駆り出された兵士や使用人、調査に来ていた魔術師、いざという時のための治癒師など、さまざまな人がいた。
王族を含む四名もの行方不明者が出たのだ。不思議ではなかった。
「なぁ、そういえば。砂竜王はあの時、何て言ってたか分かるか?」
ダズがこっそり尋ねた。
「あの時ですか?」
レイは小首を傾げる。
「あっちの世界から戻って来る時だ。竜の言葉は分からない。レイなら竜に好かれてるし、分かるかと思って」
「『侵略者たちよ、私の愛を思い知れ』です。きっと、砂竜王様はラヒムさんを守りたかったんですよ」
レイの言葉を聞いて、ダズは目を丸くした。
「……そうか。果てしねぇな……この砂粒一つ一つが、砂竜王ガザルの愛か……とんでもねぇな」
ダズは感慨深く、王宮の壁を越え、王都とオアシスのさらに向こう側に見える、果てしなく広がるローズ色の砂漠を遠目に見た。
この砂の全てが、砂竜王ガザルの愛——愛しい人を守るために、彼女ができた最善のこと。
サハリア王国が緑豊かな土地でなくなって、竜に呪われた土地と言われ、呪い竜の汚名を着せられても、それでもラヒムに生き残って欲しかった。
「この国は、竜に呪われたんじゃなくて、愛されてたんだな……」
ダズの呟きが、砂漠を渡る風に吸い込まれていった。




