雨の回廊6
しとしとと、雨が降っている。
今回の雨の原因は、時が進んだからではない——高位の存在は、天候を変えることなど、容易いのである。
「ラヒム、あなたねぇ……手紙をもらったから、待ち合わせの場所に少し早いけど来てみれば……ねぇ、これはどういうことかしら?」
蜂蜜のように濃い黄金眼は、獲物を狙い定めたかのようにギラリと光り、高位の魔物らしい魔力圧が漏れ出ている。
「……ま、待ってくれ。事情を、説明させて、欲しい……」
サディクが片足を地面につき、苦しげな声を上げる。ガザルの魔力圧に押され、喉が張り付いてしまったかのように、まともに言葉も紡げないようだ。
彼女を宥めようと片腕を伸ばすが、重圧に耐えるように小刻みに震えている。
少し離れた位置にいるダズも、腰を落とし、防御するように腕を前に出して身構えている。ただ、それ以上は身動きできないようだ。辛く強張った顔をガザルに向けていた。
魔力圧が平気なレイは、サディクを支えに入ろうと腕を伸ばしたが、ガザルにジロリと鋭く睨まれて、近付くこともできずに腕を引っ込めた。
「……何よ? 言ってみなさ……」
ガザルが怒りで震える声で語りかけてきた次の瞬間、辺りはとっぷりと真っ暗な宵闇に包まれた。
「「「あ……」」」
レイたち三人の声が、ひと気の無くなったワルダの庭園内に重なる。
「最っ悪のタイミングで時間が進んだぞ!!!」
ダズが勢いよくツッコミを入れた。ガザルの魔力圧の余韻か、がくんと膝を折る。
「……せめて、弁明だけでも……」
がっくりと、サディクが地面に両腕をついて項垂れた。
「砂竜王様は待ち合わせって言ってたけど……もしかして!?」
レイはあることに気づいて駆け出した。
全力で走り、バラの花壇を飛び越え、庭園内の小道を駆け抜け、いつも記憶の世界で見ていた木組みのガゼボへと向かう。
「…………はぁっ……間に合わなかった……」
レイは走りすぎて荒々しく乱れた息を吐き、体を曲げて両膝に両手を置いた。
簡素なガゼボの中には、一人佇む……ではなく、一人撃沈している男がいた——ラヒムだ。
「わぁ!! ラヒムさんが!! 完全に撃沈しちゃってます!!!」
待ちぼうけしすぎて地面に沈んだラヒムは、土下座のように額をベッタリと地面にくっ付けたままうずくまっていた。
(……結局、土下座してる……)
レイは呆然と、ラヒムの様子を見つめていた。
「レイ大丈夫か、って、うわっ!?」
普段冒険者として活躍していて体力のあるダズが、駆けつけた。ガゼボの中の様子を見て、瞬時に真っ青に固まる。
「二人とも、どうした!?」
サディクも遅れてやって来た。
「……あの〜、大丈夫ですか?」
そろりそろりとレイが近づいて、ラヒムに声をかける。
「…………」
ラヒムは地面にうずくまり、静かに涙しているようだった。
「大丈夫ですか?」
サディクはラヒムの横にしゃがみ込むと、彼の肩を軽く揺さぶりつつ声をかけた。
ふと、ラヒムが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃだ。
ラヒムは、サディクの方を見て大きく目を見開き、たっぷり三十秒は見つめた。
「君……私にそっくりだ。顔も、体格も、声までも…………いっ、一生のお願いだ!!」
ラヒムが顔も拭かず、サディクのケープの裾に縋りついた。男性にしては繊細な細い手に、力強く血管が浮かぶ。
「初対面の君にこんなことをお願いするのは、非常に酷だと分かってる……だが、私の代わりに出陣してくれ! どうしても、命に替えても探したい人がいるんだ!!」
「「えぇーーーっ!?」」
レイとダズは、あんまりなお願いに驚愕の表情でラヒムを見つめた。
出陣するとなれば、下手をすれば命の危険がある。そんなもの、気軽に誰かに代わりを頼めるものではないはずだ。
「……分かりました。引き受けましょう」
サディクは、はじめはラヒムの勢いに戸惑っていたが、少しだけ逡巡すると、こくりと頷いた。
「あ、兄上……?」
ダズが、「正気ですか!?」と問いたげに、サディクの方を見返す。
「ゔぅっ……ありがとう、ありがとう……私は彼女がいなければ…………うぐっ……」
サディクのケープにさらに縋り付き、ラヒムは嗚咽混じりに鼻を啜った。
***
「あなたたち、自由にしてもいいとは言いましたが、何をしてるんですか?」
イヴァンの冷たい視線が三人を貫いた。口調は丁寧だが、苛立ちがこもった声音だ。
サディクとダズとレイは、イヴァンの前の席に姿勢良く並んで座り、ただじっと、その視線に耐えていた。
ここは、この世界の中につくられたイヴァンの屋敷にある応接室だ。
この世界の異変に気づいたイヴァンに、三人は回収されたのだ。
「元はと言えば、私のせいでこうなった。なので、償いをしたい」
サディクは静かに答えた。真剣な眼差しで、イヴァンを見つめる。
「はぁ……分かりました。ですが、この世界はループします。何度でも、何回でも、同じことが繰り返されます。なので、あなた方のやろうとしていることは、この周回の事象を変えますが、他には影響しません。もちろん、現実にも。何をされようとも、無駄になりますよ。……とにかく、この世界の穴が塞がり次第、あなた方には即刻、出て行ってもらいます」
イヴァンは人形のように整った眉間に皺を寄せて、そう言い放った。即座に叩き出されないだけ、まだ優しい方だ。
「申し訳ない……」
ぽつりと、サディクの言葉が響いた。
***
「明日、私は王宮に行くよ。ラヒム陛下の代わりをしてくる」
気まずい夕食の後、イヴァンに案内された客室で、サディクは心を決めたように断言した。
「私も行きます。兄上お一人で行かせるわけにはいかないです」
ダズも真剣な眼差しでサディクを見つめる。
「私も……」
「君はまだ子供だろう? 私の勝手でこうなったのだし、さすがに戦場に連れて行くわけにはいかないよ」
レイが言いかけると、サディクが食い気味に遮ってきた。
「そもそも、私も砂竜王様に気づかずに、殿下を危険に晒してしまいましたし……あ、それに、結界も張れます! いざとなったら、時間が進むまで結界を張って耐えれば大丈夫です!」
「それでも、子供の君の姿では、軍は君を連れていかないと思うよ」
まだ言い募ろうとするレイに、サディクも苦笑して優しく言い聞かせるように語りかける。
「……それなら、私はフォレストエイプに変身します! その姿なら、戦力にもなるし、連れて行ってくれますか!?」
レイは、期待を込めてダズの方を振り向いた。
「もっとダメだ!!! 戦いに集中できないだろう!!」
ダズは即座に却下した。両腕で力強くバツ印を作る。
「うん? 君は魔物にも変身できるのかな?」
サディクはいまいち訳が分からず、笑顔のまま固った。
「ダメです!! レイのフォレストエイプは、ある意味凶器です!! 自軍にも被害が及びます!!」
ダズは首を横にブンブンと強く振った。
フォレストエイプ——レイの元の世界でいうゴリラのような筋骨隆々とした大柄な男性——特に十三代目剣聖の姿のことだ。
レイが彼の姿に変身すると、ボディービルダーのような漢らしい歴戦の筋肉姿に対して、女の子らしい仕草や言葉遣いになってしまうので、味方の脳内までバグらせてしまうことは間違いない……
「それなら、何ならいいんですか?」
レイが不服そうに、ちょっぴり唇を尖らせる。
「砂漠の民っぽい奴がいただろ? それならどうだ?」
「あ、確かにわざわざ変身先にフォレストエイプを選ばなくてもいいですよね!」
ダズが屈んで、レイの耳元で言うと、彼女は「その手があったか」とポンッと手を打った。
十代目剣聖に変身する——もちろん、アルメダではなく、男性型だ。
健康的に日焼けした肌、少し長めのくすんだプラチナ色の髪に、エメラルド色の瞳。剣聖らしくがっしりとした体格だが、スラリとはしているし、顔立ちもやや中性寄りで爽やかな系統だ。
フォレストエイプ姿に比べたら、多少女の子らしくても、まだ何とかなりそうだ。
「これなら大丈夫ですか?」
レイはにっこりと笑って、サディクの方を振り向いた。
「その姿なら、大丈夫だが……仕方がない。危なくなったら、すぐに結界を張ってくれるか?」
サディクも渋々了承した。
「はいっ!」
レイはドンッと拳で自分の胸を叩き、元気よく返事をした。




