第二部 第六章【鳥たち】朔馬
◆第二部 第六章【鳥たち】朔馬
――凪砂を、ネノシマに連れていくの?
――朔馬が頼めば、凪砂はきっと断らないと思う
その言葉は現実となった。
波浪には何もいえぬままネノシマに向かった。凪砂が波浪に伝えている可能性もゼロではないが、おそらく伝えてはいないだろう。
久しぶりに自らの執務室に帰ったが、懐かしさは微塵もなかった。
「天壇の陣を消しただろう?」
光凛はいった。
「消した」
「日本に跳ねる際に、桂馬の陣の一つは天壇にしろという命令があっただろうが!」
「それは前回の話だろ。今回はいわれてない」
「あの時天壇をうろうろしていたのは、それ? 桂馬の陣を消してたの?」
凪砂はいった。
「あ、そうそう。桂馬の陣は二か所にしか書けないから、天壇にあると単純に不便なんだ」
「わがままをいうな!」
「彦納さんたちも怒ってるの?」
凪砂はいった。
「彦納様たちは怒ってはいない。飽きれているだけだ」
「なら別にいいんじゃないか?」
任務に関わる独断を肯定されたことはほとんどなかったので、朔馬は少々驚いた。
「よくない! お前は黙っていろ! 命令を真面目に聞かず、結局それを許容されてしまうことにも腹が立つ!」
光凛があまりにも気持ちよく怒っているせいか、凪砂は半笑いであった。
「で、凪砂をここに呼んだ理由は? 話があるんだろ?」
凪砂が朔馬の部屋にいるのは、光凛の指示であった。光凛には、伊咲家の中は西の間以外はあまり出歩くなと伝えている。光凛はそれを順守している。
「結界が安定したらしい」
「それはよかった」
凪砂も「よかったね」と口にした。
「結界が強化されたことで、須王家の結界が弱まる時期が存在すると、そう公表することを決めたらしい」
「対策もなしに公表はできなかったわけか」
「日本に協力してもらうことで解決がある、と同時に公表するそうだ」
「主語が大きいけど、間違いではないな」
「それらを公表する旨を二人に知らせろと、そして反対なら意見は聞くと、そういうことであった」
「それって、俺が反対する必要があるの? なにか問題ある?」
凪砂はいった。
「問題はないと思う。ただ、無言の圧は感じるな。凪砂は今後も協力してくれると思っていいのか? ってことだろ?」
光凛はうなずいた。
「白雪が家庭を持ち、子どもが生まれたら、須王家の血族が増える。そうすれば凪砂の手を借りずとも、結界も安定するだろうと彦納様はいっていた。数年は凪砂の協力が必要なのだろう」
赤子に血を流させるのかは疑問であった。しかし光凛が結界の秘密を知らない以上、聞けるはずもなかった。
「あの程度が一年に一度なら、別に問題ないよ」
◇
「サクに必要なもの? プロテインとか?」
毅はいった。
「なんでだ」
凪砂はスマホに目を落としたまま、低い声でいった。
「ネギはともかく、サクは毎朝走ってんだろ? プロテインは飲んで損はしないだろ。栄養とってりゃサクもネギも、もっと背ぇ伸びんだろ」
「さらりと失礼なこというなよ。そもそもプロテインで背が伸びるのか?」
「背のことは置いといても、栄養とって損はないだろ。サクって、何月生まれ?」
「二月だよ」
「二月か。それなら、そのうち伸びるのか。二人とも今、何センチなんだ?」
「一六八だった」
朔馬はいった。
「俺は一六九」
「俺は一七四」
「お前の身長は聞いてない。朔馬にはプロテインより、自転車の方が必要だと思うんだけど」
「え? サク、自転車持ってないのか。そんなら、俺のロードバイクやるよ」
「気前良すぎだろ」
「高かったのに全然乗ってないって、小言いわれてんだよ」
「それはそうだろ」
「だから朔馬にやるわ」
「せめて貸すとか、そういうことしろよ。さすがにおばさんが可哀相だ」
「じゃあそういうことにするわ」
毅はそういってスマホを操作した。
「お前らどうせ暇だから、今日取りにいくだろ?」
「そうする。最初は俺の普通の自転車で練習しよう」
「練習?」
「朔馬は自転車に乗れないんだよ」
毅は「マジか」と朔馬を見た。
「えー、いいな。俺もえらそうに自転車の乗り方教えたい」
「別にえらそうには教えないけどな」
ネノシマではなにを聞いても「そんなことも知らないのか」といわれるばかりで、いつしか質問することをやめてしまった。そして質問の答え自体も、深く考えなくなった。
ネノシマの法に人より詳しくなったのはそのせいである。
しかし日本では色んなことを色んな人が教えてくれる。
――その都度誰かに聞いてくれたらいいよ
凪砂はそういってくれた。毅もなにかを問えば、必ず答えてくれる。そのすべては真実とは限らないらしいが、それは朔馬にとってあまり大きな問題ではなかった。
言葉を尽くして説明してくれることが嬉しかった。
◇
朔馬は臨時賞与として、プロテインを受け取った。
「プロテインと、純米大吟醸酒……毅は正しいこともいうけど、びっくりするくらい適当な部分あるから、本当に気をつけて。というか、現物支給なのか。ネット通販だろ、これ」
賞与は伊咲家に荷物として届いた。
「日本通貨にするのが面倒なんじゃないかな? 日本にきてからは俺の給与の一部は、出嶋神社の宮司さんが管理してるみたいだけど」
「それがうちの親に振り込まれたりしてるわけか。このお酒は? なにかに使うの?」
「このお酒は、西弥生神社にお供えするんだ。建辰坊も謝礼はもらうべきだから」
「なるほど」
凪砂にも謝礼の件を伝えたが、彼は「深い意味はないんだけど、別にいいかな」と辞退した。
凪砂は想像以上に傷ついているのかも知れない。そう思った。
捨て子であることを思い出させ、間接的ではあるが実親のために血を流してもらった。
しかし凪砂には何が残ったのだろう?
凪砂がネノシマに協力してくれたのは、少なからず実親に会ってみたい気持ちがあったからではないだろうか?
伊咲家で幸せに暮らしていても、実親に対する感情が消えるわけではないのかも知れない。
――たぶん、ただ面倒なだけだ
凪砂の気持ちを、もっと深く考えるべきだった。
そして媼に、皇帝と凪砂を会わせてくれと、条件を出すべきだった。
後悔ばかりがわいてくる。しかしすべてが終わってしまった今、なにをいっても凪砂を傷つけるように思えた。
雲宿の目論見通り結界が強化されたからこそ、凪砂の善意だけで雲宿の平和が守られたからこそ、朔馬は小さく後悔していた。
◇
「俺、俺にか?」
「うん。お供え物」
「呑むぞ? 俺はただ呑むぞ?」
「どうぞ」
そんなやりとりの後、建辰坊は上機嫌に酒を受けとった。
「俺は場を貸しただけだ。これは過ぎたる礼だな。どうしたものか」
「建辰坊は烏天狗の類だよな? 剣術は得意なんだろ?」
「剣術以外にも、体術なら得意だ。神術はほとんど使えぬがな」
「なら俺に、時々稽古をつけてくれないか?」
「必要なのか? まぁいい。手合せならいつでも付き合おう」
建辰坊はそれから何度も「美味い」といって酒を飲んだ。
「ネノシマに帰ったのだろう? 万事上手くいったのか?」
上手くいったと思う。
そう答えようとした時、石段を上ってくる波浪が視界に入ってきた。
波浪は鳥居の下でなにかに呼び止められたように、ネノシマの方を振り返った。
そして、静止した。
朔馬も建辰坊も、つられて波浪の視線の先を見つめた。
投げ込まれた石によって川の流れが変化するように、周囲に漂う空気が通常ではない。なにかが来る。朔馬がその場で抜刀しようとすると、建辰坊は朔馬の肩に手をやった。
「良い」
建辰坊の目は、朔馬よりも先にそれを捕らえていた。朔馬もその姿を確認すると、自然に肩の力が抜けた。
「戻ってきたのだな。ネノシマの結界は、無事に強化されたようだな」
西弥生神社の真っ青な上空を、あの夜の妖鳥がゆらりと横切った。
波浪は答えを求めるように、こちらを見た。
建辰坊は「様子を見てくる」と、羽根を広げて大木に向かった。
朔馬たちがそのふもとにいくと、妖鳥の姿が小さくも確認できた。
「あの夜より、すごく小さく思えるね」
波浪はぽつりといった。朔馬も同感であった。
「俺もいってみる。ハロもいく?」
波浪は首を振った。おそらく朔馬の真意を汲み取ってくれたのだった。危険は少ないと思えど、不用意に近づけたくはなかった。
朔馬は天空の糸を引いて、妖鳥と建辰坊のいる枝へ飛んだ。
「間違いない。ここにいた妖鳥だ」
建辰坊はいった。
石になっていない妖鳥はひどく小さく、そして弱っているようだった。
「ん? 石になろうとしているな」
建辰坊のいうように妖鳥の脚は石になっていった。
「ねぇ、なにか来るよ」
木の下にいる波浪がネノシマの方向を見つめていった。
それはものすごい勢いで、朔馬らに向かって飛んできた。朔馬は咄嗟に、建辰坊をかばうようにしてそれを避けた。
それは妖鳥のいる木に、矢のように突き刺さった。
刺さったそれは、目を回した筆鳥であった。
「えぇ、なんでだ!」
朔馬は絶望した。
筆鳥が木に刺さった反動で、妖鳥はぐらりと傾いた。そして妖鳥は、枝からあっさりと落ちてしまった。
「ハロ! 頭上注意! 妖鳥が落ちた!」
朔馬はそういって枝から下りた。
波浪は朔馬の声より前に妖鳥を捕らえており、落ちてくる妖鳥を両手で受け止めた。
「いッ、痛い!」
波浪はそういったが妖鳥を手離すことはなかった。
朔馬は着地すると、波浪の手から妖鳥を受け取った。触れた先から、手が焼かれるように痛かった。
朔馬は妖鳥を刺激しないように、そっと地面に置いた。妖鳥はみるみるうちに石化していった。
「お前たち、大丈夫か? 早く手水舎で、手を清めてこい」
下りてきた建辰坊の腕には、目を回した筆鳥がいた。
「手が硬くなってる」
波浪はいった。手水舎で手を洗ってみたが、朔馬も同じ感想であった。
見比べてみたが、二人とも小指と親指の付け根あたりが石のように硬くなっていた。おそらく妖鳥に強く触れていた部分である。
「妖鳥の石化に巻き込まれたのだろう。痛みはひいたか?」
「痛みは問題ない」
朔馬は自らの手を動かし、可動域を確認した。生活に支障はなさそうであったが、不便は不便である。攻撃されたわけでもないので、この硬化はどうすれば解けるのか分からなかった。
「そのペンギン、飛んできたの?」
波浪は気を失ったままの筆鳥を見つめた。
「これは筆鳥だよ。ネノシマでは連絡用に使われてるんだ」
「じゃあネノシマから飛んできたの?」
「そうだろうな。しかし妖鳥は結界に弾かれてここに来ただろうに、この筆鳥はよくネノシマを抜け出せたな」
「本当に、よく国外に出られたな……誰からだろう?」
筆鳥に手を伸ばすと、建辰坊は「持てるのか?」と朔馬の手を見つめた。
朔馬の手の一部は妖鳥のように、白い石になっていた。
◆
「若矢の雉が国外に弾かれたのは吉報だな」
媼はいった。
「吉報か? おそらく若矢は雉の呪いを受けたんだろ? 雉はとても小さくなってたぞ」
「結界の強化を確認する上では、雉が国外に弾かれたというのは吉報だという意味だ。たた、それだけだ」
「若矢香明は?」
朔馬は再び問うた。
「以前いったように、お前はお前のやるべきことをやれば良い」
「筆鳥が日本まできたのは、凪砂の影響だと思うか?」
「おそらく関係ないだろうな。凪砂殿の影響でざわめくのは、日本の妖怪だろう」
「ではなぜ、強化されたネノシマの結界を突き破って、筆鳥がここへきたと思う?」
「筆鳥に高い対価を払ったのだろう。それ以外は考えられぬ」
筆鳥は任務を果たす際に、発信者の体の一部を所望する。発信者の手のひらを一舐めすれば、その者の汗や薄い皮膚組織が口に入れば、それだけ事足りる程度である。
しかし連絡の取りにくい者や、遠くにいて且つ至急の場合、もしくは確実性を求める時などは、それなりの対価を支払う必要がある。それは一束の髪の毛だったり、それ以上だったりする。
「媼は俺と連絡を取るために、筆鳥を利用しようとしたことはあるか?」
「ない。日本にいるお前と筆鳥で連絡を取ろうとした場合、生爪すべてでも足りぬ」
「そういえばハチワレ石が機能しない間、出嶋神社を経由して連絡をとろうとは考えなかったのか?」
「出嶋神社を経由すれば、その返事は常に岩宿にも知れてしまう。つまり雲宿の桂馬が不測の事態に巻き込まれている可能性があると、岩宿に知られてしまう。それは悪手だと考えていた。しかし半年が過ぎても、連絡が取れなかった場合は筆鳥の利用も考えたかも知れぬな」
「今回の発信者も出嶋神社を経由しない理由はあるわけか」
「そもそも出嶋神社を経由できる者もかなり限られているがな。筆鳥はお前と連絡をとる最終手段のようなものだ」
「何を対価とすれば、筆鳥が日本に来ると思う?」
「指を数本……もしくは目玉一つ」
媼の言葉に、背筋がぞくりとした。
そうまでして自分と連絡を取りたい者がネノシマにいるとは思えなかった。
「で、筆鳥は目覚めたのか?」
「まだ眠ったままだ」
「まぁいい。いずれ目を覚まし、その役目を果たすだろう。しかし目下の問題は、お前の手だな。雉の石化に巻き込まれたのだろう? 今は第一に、それを戻すことを考えろ」
凪砂の家族も巻き込まれたことは報告していない。波浪が見鬼であると説明することが、単純に面倒であった。
「妖鳥の石化は、自らの命を護るためだ。穢れを受けたわけではないのなら、石にまつわる神を探してみろ」
「時間が経てば、治るという問題でもないのか?」
朔馬は石化した自分の手を見つめた。
「治るなら早い方がいい。仮にもお前は皇族の護衛だ」
それはその通りであった。
「しかし、雉を受け止めたのはいい判断だったな」
「そうなのか?」
「もし雉が命を落としていれば、若矢も呪いの影響で絶命していたはずだ」