第二部 第五章【捧血の儀】凪砂
◆第二部 第五章【捧血の儀】凪砂
模試を終えた土曜日、僕と朔馬は西弥生神社にいた。
ネノシマで捧血の儀をおこなうためである。
朔馬は毎晩西弥生神社にいき、彦納媼と話しているようだったが僕はなにもしていない。
不安がないといえば嘘になる。しかしそれほど迷いはなかった。無駄に色んなことを考えても、僕は結局ネノシマにいくだろう。
「いこうか」
石段を上った二の鳥居からは、ネノシマがはっきりと見える。
朔馬は鳥居の真下に立ち、虚空に陣を書いた。
鳥居の先に見えていた景色は音もなく消えた。眼前には白い空間が広がっている。
朔馬に手を引かれ、僕はその空間へ足を踏み入れた。
「朔馬もこうして日本に来たの?」
僕は歩みを進めながらいった。
「違うよ。俺は陰陽師たちの力で、出嶋神社の鳥居に飛ばしてもらったんだ。日本には桂馬の陣がないから」
「つまりこれが、彦納さんがいってた桂馬の役職特権?」
「そう。役職にはそれぞれ、移動特権が付与されるんだ。役職の陣を書いた場所に、こうして移動できる」
「移動が容易なのは、便利だな」
「それぞれに縛りはあるけどね。ちなみに桂馬の陣は、二か所しか書けない。移動条件は、現地点から桂馬の陣が十キロ以上離れていること」
「移動したい桂馬の陣の十キロ以内にいると、その陣に移動はできないってこと?」
朔馬はうなずいた。
「俺たちは今、ネノシマにある桂馬の陣に移動してるんだよな? あってる?」
「あってる。桂馬の陣は今、俺の執務室と、陰陽師家の天壇にあるんだけど、執務室の方に向かってる」
「へぇ、陰陽師のところじゃなくていいんだ?」
「媼は、俺たちは日本から直接天壇にくると思ってるだろうけどね。まずは執務室に跳ぶ」
朔馬はそういいながら素早く抜刀し、向かってきた黒い影を斬った。
「え、今のなに!?」
「桂馬の陣で国を跨ぐのは初めてだから、異物が紛れ込んだ」
「異物……」
「ネノシマに近づくと、それなりにいるな」
朔馬は黒い影を斬っていった。
黒い影は朔馬の肢刀に自ら斬られにいっているようさえ見えた。朔馬の肢刀はそれほど正確で、迷いがなかった。
それらがすべて消える頃、白い空間が終わり、新しい景色が現れた。
「お疲れさま。ネノシマに着いたよ」
体感として五分未満の出来事だった。
ついた場所には、四人用の応接セットがあった。そしてその奥には大きな両袖机がある。校長室を彷彿とさせる、天上の高い部屋だった。
「朔馬の執務室? ここ、ネノシマ?」
朔馬は「うん」といって、大きな両袖机の後ろにある障子を開けた。その先には、小上がりの和室があった。おそらく六畳ほどの和室である。
「和室になってるんだな。ここは、仮眠室?」
「本来はそうなんだけど、俺はほとんどここに住んでる状態だったよ」
朔馬は靴を脱いで、和室に上がった。
住んでいるといったその和室には、箪笥以外はなにもないように見えた。もの置きらしき襖の中に家具があるとしても、殺風景である。しかし和室の窓から差し込む光は濃く、明るい印象をうける。
「朔馬の家は? ここから遠いの?」
朔馬に家族がいないことは光凛から聞いていたが、家が存在しないとは思えなかった。
「ここは雲宿の庁舎なんだけど、それほど遠くないよ。桂馬に就任した時、役宅をもらったんだ。でも今は貸してる」
朔馬は箪笥をあさりながらいった。彼に促されて和室に上がると、袴を渡された。
「袴の着方はわかる?」
「剣道の袴と同じだよな? わかるよ」
制服姿のままネノシマへきたので、僕たちはワイシャツに袴姿となった。
「とりあえず袴ならネノシマのどこにいても目立たないし、この袴は雲宿の正装だよ。一応、正装でいた方がいいと思って」
朔馬の意を汲み、僕は浅くうなずいた。
万が一血の繋がった父親と対面する時、それはこの国の皇帝と対面することを意味する。
「凪砂の顔は、隠しておこう」
朔馬は僕に蔵面のようなものをあてた。
「視界はそのままなんだな。建辰坊みたいだ」
「人型で顔を隠している者はネノシマでも多いんだ」
それから僕たちは草履を履いて、和室から出た。
朔馬は西弥生神社の鳥居でそうしたように、虚空に陣を書いた。
「鳥居の下でなくてもいいの?」
「本来はどこでも大丈夫だよ。さっきは国を跨ぐから、念のため鳥居にしたんだ」
朔馬は先程そうしたように、再び僕の手を引いた。白い空間に足を踏み入れたが、その空間はすぐに消えてしまった。
移動に失敗したのかと思ったが、目の前には先程とは違う景色があった。
見慣れぬ海がある。
視線を手前にすると、四方を鳥居に囲まれた場所に立っていた。
「ここが天壇?」
「そうだよ。変な場所だろ」
天壇は崖と形容してもいいような場所にあった。
二人で天壇に佇んでいると、黒い鳥居から二つの影が現れた。それは次第にはっきりと姿を現した。
「あれが彦納媼だ。横にいる背の高い男は、少那冠世。雲宿の角行で、光凛の父親だ」
朔馬は小さくいった。
「よくぞ、お越し下さいました」
小さな老女であるところの彦納媼はこちらに近づくと、深々と頭を下げた。
僕が挨拶をすると、彼女は満足そうに微笑んだ。そして彦納媼は朔馬に向かって口を開きかけた。
しかしそれは音になる前に閉ざされた。
「時間が惜しい」
朔馬はきっぱりいった。
「早く捧血の儀に取りかかろう。ネノシマには問題なく来ることができた。それでいいだろ」
彦納媼はうなずいた。
「儀式の場所へは、冠世の角行の陣で参ります。以前申した通り、そこには絵に封印された斑龍がおります」
僕はうなずいた。
「私と冠世が祝詞を唱えますと、斑龍が絵から顔を出し、口を開けます。凪砂殿は、斑龍の口に腕をおいて下さい」
「えっと、噛まれませんか?」
「噛まれません。では、参りましょう」
彦納媼はそれ以上の質問は許さない口調でいった。彼女が目配せをすると、冠世氏は虚空に陣を書いた。
「もし何かあれば、桂馬の陣で執務室まで移動する」
朔馬は小さくいった。
それは涙がでそうなほどに心強かった。ついてきてもらってよかったと、心の底から思った。
◇
角行の陣で辿り着いたのは、奇妙な場所だった。
ドアも窓もない部屋に、龍の描かれた大きな絵が飾ってある。その絵だけが不自然なほどに、鮮明に見える。その絵以外に、この部屋には色がない。
絵から目が離せないままでいる僕を置き去りに、彦納媼と冠世氏は淡々と祝詞をあげはじめた。
それに呼応するように、絵の中がゆらりと揺れた。ほどなく龍は絵の中を動き回り、絵から顔を出した。
引き寄せられるように近づくと、龍は薄く目を開けた。一瞬たじろいだが、龍はうなずくように目を閉じた。そして僕を誘うように、ゆっくりとその口を開けた。怖いという感覚は不思議となかった。
龍の牙の上に腕を置くと、その牙が赤く染まった。痛みはなく、僕はただ自らの血を見つめていた。
すると自分のものではない思念が、ぞわりと心に触れた。
意識が体から遠くなっていくようだった。意識が完全に体から離れてしまう直前、祝詞がやんだことに気づいた。
ぼんやりしたまま龍の牙から腕を離すと、顔を出していた龍は再び絵の中へ戻っていった。
それがひどく寂しかった。追いかけたいほどには悲しかった。
絵を見つめ続ける僕に「帰ろう」と朔馬がいった。
朔馬に促されて歩きだすと、すでに角行の陣が開かれていた。
◇
「あ、大丈夫?」
朔馬の心配そうな顔が僕をのぞいていた。
天壇に戻ったことは覚えている。捧血の儀は無事に終えたと、彦納媼がいったことも覚えている。しかし、その後の記憶はなかった。
「ここは執務室の和室だよ。凪砂が倒れたから、咄嗟に抱えてここに戻った。水飲める?」
朔馬は竹水筒を差し出した。
「ありがとう。俺、どれくらい寝てた?」
僕は水を飲んで一息ついた。
「三十分経ってないくらい。体調はどう? 危険は少ないと思ってたけど、こんなことになってごめん」
「謝ることじゃないよ。たぶん貧血かな。体調は万全ではないけど、すごく悪いわけじゃないよ」
「ならよかった。今ちょうど、媼の筆鳥が来たんだ。凪砂の具合はどうかって。おいで」
朔馬が声を掛けると、筆鳥と呼ばれるペンギンに似たなにかは、ぽてぽてとこちらにきた。
「ペンギンではないんだよな? 伝書鳩みたいなもの?」
朔馬に横になるように促されたので、僕は再び横になった。
「うん、伝書鳩みたいなものかな。とても速く空を泳ぐんだよ」
朔馬が筆鳥の顎をなでると、気持ちよさそうに目を細めた。
「凪砂が起きたから、そのうち天壇へ戻ると、そう伝えてくれ」
朔馬が筆鳥に手を差しだすと、筆鳥はそれをペロリと舐めた。そして朔馬が和室の窓を開けると、筆鳥は海を泳ぐように飛んでいった。
「凪砂が天壇で倒れた時、もう二度と凪砂の協力は得られないと思えって吐き捨ててここに跳んだんだ。媼たちはかなり焦っただろうなぁ。俺も焦ったけど」
それから「凪砂が目覚めて本当によかった」と小さくいった。
「龍に触れている間、意識が体から離れる感覚があったんだ。それから、なんだかふわふわしてた気がする」
「今はどう?」
「今はその感覚はないかな。眠いせいか、少しぼんやりしてるけど」
僕は小さく息を吐いた。
朔馬は「もう少し眠りなよ」といってくれた。
「あの龍の絵、俺が想像してたより、ずっと大きかったな。あの場所も、すごく不思議な場所だった。彦納さんと、冠世さんは、あの場所がどこか知ってるのかな?」
僕は静かに目を閉じた。
「冠世の角行の陣を使ったから、鳥居のある場所なんだろうけど、それしか分からなかったな」
朔馬の声を聞きながら、僕は再び眠りに落ちた。
目覚めると体調はすっかり戻っていた。
朔馬は靴とズボンを風呂敷にまとめてくれていた。
風呂敷を持って天壇に移動すると、朔馬は天壇をうろうろと歩いた。なにをしているのかを聞いてみたが「後で話すよ」としかいわなかった。
そんな朔馬を見つめていると、彦納媼と冠世氏が先刻と同じように黒い鳥居から現れた。
二人は僕の体調を気遣う声を掛けてくれた。
「朔馬、お前は天壇でなにをしている」
僕たちの会話が一段落すると、媼は朔馬に声を掛けた。
「なんでもない」
おそらくそれは嘘だろうと、その場にいた全員が悟ったはずである。しかし誰も何もいわなかった。
朔馬は「やはり二人か」と小さくいって、こちらにやってきた。
「お前は正式に日本の配属となった。凪砂殿の護衛はまかせたぞ。鵺の件も追って連絡する」
彦納媼はいった。
「執務室にきていた書類には目を通したよ。日本に皇族がいることは、ほとんど誰にも知らせないんだな」
僕が眠っている間、朔馬はきっちり自分の仕事をこなしていたらしい。
「皇族の異変は、国の異変に直結するからな。周知させることでもない。重要な任務になったが、光凛は連絡役のままとする」
「本人は納得しているのか? かなり不服そうだったけど」
朔馬は冠世氏を見つめた。
「なにかあったか? 私との任務中だったが、そちらを優先させた」
「ひどく朔馬に当たっていました。日本にくることで、髪を切ることになって、それがすごく嫌だったみたいです」
光凛の髪の件は知らなかったらしく、朔馬は「そうなのか」と呟いた。
「式との契約のために、二年ほど髪を伸ばしておりました。しかし、いつまでも子どもで困ったものです。朔馬、すまなかったな」
朔馬は「気にしてない」と短くいった。
冠世氏には光凛の憤りが一ミリも伝わっていないようで、僕は同情を禁じ得なかった。
「そういえば、最近雲宿に異変はなかったか? 日本で永く眠っていた妖鳥が飛び立つ場面を居合わせた。それが少し気になった」
「若矢の雉のことか」
彦納媼はいった。
「やはりあの雉は、若矢の雉だったのか」
「須王家の結界に弾かれた、呪いをのせた雉だ。いきついた場所が日本でも不思議ではない。そして結界が弱っている今、その雉が日本から帰還したとて不思議ではない」
彼女の声は落ち着いていた。それが事態の深刻さを物語っているように思えた。それは朔馬も気付いてだろう。
「若矢香明は? 無事なのか?」
「こちらのことは気にするな。お前は、お前のやるべきことをやれば良い。凪砂殿の周りで異変が起きたらすぐに知らせろ。お前の力の制限は緩和しておく」
朔馬はうなずいた。
「聞き忘れていたが、ネノシマに帰ってくる際に、天壇ではなく執務室に跳ねたな?」
「問題あったか?」
「問題はない。ないが、こちらの気持ちも少しは考えろ。凪砂殿の居場所は把握したいのだ。ネノシマの中ならば、特にな」
「覚えておく。皇帝には凪砂の気持ちも考えろと、そう伝えてくれ。失望した」
彦納媼は「そうだな。覚えておく」と目を伏せた。
朔馬はきっと万が一にも、僕が皇帝である父に会える可能性を考えていてくれた。だから朔馬はわざわざ僕に、正装の袴を着せてくれたのだった。
今更、会えたところで話すこともない。そう思いながらも「会えるのだろうか?」なんて思っていた。
血の繋がった父の顔を見た時、自分がどんな感情を抱くのか少しだけ興味があった。僕の中で何かが変わるのだろうかと、そんなことを考えていた。
しかし想像するだけ無駄だった。
相手はこの国の皇帝で、僕を捨てた親である。
◇
「足場が不安定なせいか、なんだか、目が、目が回る……」
「国外に人を飛ばすのは、きっと慣れてないんだ。前回、俺を日本に飛ばしたのが初めてだったと思う。これでも前回よりは、だいぶマシになってるよ」
彦納媼と冠世氏の長い詠唱の末に、小さな空間が開いた。僕らはそこに足を踏み入れ、日本に帰っていた。
「そう考えると、桂馬とか、角行の陣って便利だな」
「特権だからね」
「これは、出嶋神社に到着するんだっけ?」
僕はふらつきながらいった。
「俺が日本に来た時はそうだったけど、建辰坊に許可をもらったから西弥生神社の鳥居に到着できるよ。その方が凪砂の負担も少ない」
「あ、そうなんだ。それは、媼たちは知ってるの?」
「いってない。でも無事に着いたと連絡はいれるよ」
朔馬は最善を尽くしてくれている。少なくとも僕はそう思う。しかしそういう部分が、光凛や誰かの逆鱗に触れたりするのだろう。
朔馬は頼もしい友人であるが「一緒に働きたくないタイプ」に分類されるのかも知れない。
自分の中で筋が通っていれば、朔馬はそれを迷いなく実行するし、目上の人にも臆することなく意見をいうだろう。
――皇帝には凪砂の気持ちも考えろと、そう伝えてくれ。失望した
伊咲家や学校にいる時の朔馬は遠慮を見せることはあっても、気を張っていると感じたことは少ない。
しかしネノシマの者と話す時の朔馬は遠慮は見せないが、気を張っているように見えた。
それがなにを意味しているのか、僕にはわからない。意味なんてないのかも知れない。ただ僕は、彼がそうしてくれているように、いつも彼の味方でいようと思う。
気づくと、西弥生神社の境内に倒れていた。
しばらく二人で天を仰いでいると「大丈夫か?」と、建辰坊が僕たちを見下ろした。
「ずいぶん早い帰還だったな」
時間を確認すると、僕たちがネノシマにいたのは三時間もなかった。
それでも僕は早く家に帰りたかった。
帰りたくて仕方なかった。