第十五話 起爆剤
ベッド脇の椅子へと案内される。
暖かい紅茶が運ばれてきて、寒さに冷えた身体にはありがたい。
「ようこそ、オフィーリナ様。半年ぶりかしら? あの人は元気かしら?」
オフィーリナが心に張り巡らせた警戒の壁は、その一言であっけなく瓦解した。
大砲で撃ち抜かれた城壁のように形を失い、ガラガラと音を立てて崩れていく。
本日、着ている服は落ち着いた藍色のワンピース。その上に黒のシニョールを巻いている。
天気の良い冬の空を思わせるような暖色系のそれが落ち着いた雰囲気を醸し出していて、オフィーリナはこういった色が好きだった。
予測のつかないエレオノーラの相手をするなら、それなりに気構えも必要だし……と思っていたら、あっというまにそれは吹き飛んでしまった。
にっこりと容赦のない笑顔。
そうまさしく情け容赦のない、本物の嬉しさと再会の喜び。
純粋にそれを楽しむエレオノーラの笑顔の前で、つまらない虚飾などあっという間に崩壊してしまう。
「あ、あの。お、お久しぶり、です。奥様。ご機嫌麗しゅう」
ところどころ噛みそうになりながら、それだけの挨拶を言葉にするのに、随分と労力が要った。
肚の底から普段は使わない筋肉をどうにか引き締めて絞り出した。
聞き苦しい感じになっていなければいいけれど――と、願うばかりだ。
「あら、そんなに疎遠になったというわけでもないのに。あなたは魔猟ばかりしていて、主人にあまり愛を注いでくれていないのかな、とか心配していたの」
「そ、そんなことは……もちろん、ありません。はい、わたしよりも――」
不意に、公爵と過ごした最後の夜が脳裏に思い浮かぶ。
あの逞しい胸に抱かれた感触。愛された余韻が、ふと肉体に火を灯す。
じんわりと忘れ得ない優しさと雄々しさに翻弄されたあの時間が、いまここで再現できそうなほどに、オフィーリナと彼の身体の相性は良かった。
最も、他に男性を知らないから、そう思うだけかもしれないが。
「あの人、いつも仕事で忙しくされているから、どこかで休まる場所があればいいと思っていたの」
「……はい。とてもお忙しそうで、心配になります」
「そうよね。だからあなたで良かった」
とびっきりの笑顔を浮かべて、エレオノーラはブライトよりも濃い苔色の瞳でじっとオフィーリナの顔を見ていた。
上から下まで、少年のようだといわれる体躯をまじまじと見つめれて、オフィーリナは気恥ずかしさを覚える。
そういった邪念がまとわりつくのを頭を振り払って追いやると、いまは目の前にある脅威に注意して当たることにした。
夫を側室に奪われてた寝たきりの本妻の邸宅に、呼び出された半年前に会ったきりの女。
それがいまのオフィーリナに対する、エレオノーラの印象だと思うと、背筋を悪寒が走り抜けていく。
「わたしで良かったとは?」
思わず、余計な質問をしてしまう。
エレオノーラの瞳が不思議そうにしばたいた。
「あらだって、あなたと彼とわたしとは、もう十年来の友人でしょう?」
「あ、ああ。ええ、そうですね。はい、エレオノーラ様」
「様だなんて、どうしたのオリィ」
「オリィ?」
オフィーリナ。
略してオリィ。
余程親しい者しか呼ぶことを許していない、敬称。
両親ですらも、その名で呼ぶことはほとんどない。
公式の場はもちろん、家族の憩いのひとときでもそうだ。
もちろん、血のつながりがない母親がそう呼ばないのは、遠慮しているためだと思っている。
他にいるとすれば、姉くらいのものだった。
オフィーリナと二人になると、妹をオリィと呼ぶのは。
「懐かしいわ、あなたと彼とステフと。四人で学院で歩いた学んだころのことを、今でもたまに思い出します」
エレオノーラは二十二歳。
オフィーリナは十六歳。
ブライトとステフ……ステファノ侯爵は二十八歳。
一回り以上の差がある。
そこのどこに、十年もの学院生活が挟まる余地があるというのか。
「そう、ですね。あの奥様、本日の要件は旦那様の……冬服の」
「ああ、そうだったわね」
オフィーリナはエレオノーラとの会話についていけない。仕方なく、話題を本題に戻すことにした。
貰うものを預かって、さっさと退散しよう。
ここに長居していては、いずれぼろがでる。
オフィーリナは嘘を吐くことも、自分を誤魔化して何かを演じることも、他人に合わせて言葉を紡ぐことも苦手だった。
「あなた。彼の一式をここにお持ちして」
「かしこまりました奥様」
エレオノーラの側に控えていた四十代の黒髪のメイドが、恭しく一礼して去っていく。
すれ違いざま、こちらをそっと窺う彼女の視線に、あからさまな嫌悪感が混じっていて、オフィーリナは冷や汗をかく。
やはりここはわたしが足を踏み入れるには、まだ早かった……。
そんな後悔が沸き出るなか、エレオノーラはメイドが扉の外に消えると、オフィーリナに顔を戻した。
「荷物は従者に渡されるかと思うわ。ところで、オフィ?」
「なっ、なんでしょうか、エレオノーラ……?」
おずおずと試すように質問すると、彼女は更に爆弾を放り込んできた。
「なるべくなら、彼との子供は後にして欲しいの」
「ぶっ……」
返ってきた内容のすさまじさに、オフィーリナは思わず紅茶を吹き出しそうになる。
エレオノーラはそんなことには頓着せず、自分の意見を続けた。
「ほら、あなたには帝国の血が混じっているから。国王陛下に推薦しておいたのだけれど、ブライトがまさかその相手になるとは思っていなかったわ。でも、あなたなら、第二夫人も許せる」
「は、はい……エレオノーラ」
この人が、今回の事件? の起爆剤だったのか。
オフィーリナは椅子の上で軽くめまいを覚えた。