第十三話 事件のあらまし
王都の南側にある職人街から、東側にある貴族街に行くためには、時間がかかる。
王都は北から南へとなだらかな斜面になっており、その向こう側には運河の支流が流れる渓谷があるが、断崖絶壁に近い。
王城は北東の真上にあり、そこから身分の高低に沿って、貴族街が幾段かに続く。
貴族街と平民たちが住む西区や南区を分けるのは、運河の支流だ。
シェス大河の支流はそのまま外壁の外を流れる、いわば自然の堀のようなもので、かかる橋は全部で六本しかない。
東には芸術街と俗に言われる、商人たちの店や住まいと歓楽街があり、貴族街とは橋一本で繋がっている。
しかし、そこを平時に往来できるのは、ある一定の身分を持つ者だけだ。
オフィーリナは公爵第二夫人であっても、表立ってその名称を出すことを、ブライトは嫌がっている。
そのことを理解している彼女にとって、伯爵令嬢という身分を出せば橋を通ることは簡単だけど、部下のギースはそうはいかない。
なにより、使用人が通行するためには、主人のしたためた許可証がいる。
伯爵家の当主は父親だから、実家から離れた職人街に住むオフィーリナには、その権限がない。
「こんなことなら、印章を置いて来るんじゃなかったわ」
ギースが用意した辻馬車に彼とともに乗り、オフィーリナはそうぼやいた。
印章とは、手紙などを書いた際に、その本人だと示すための印鑑のことだ。
通常は指輪の形式をしていて、蜜蝋などの上に押して使う。
オフィーリナは公爵家に輿入れする際に、実家と関連するものを置いてきてしまった。
これからは公爵家の人間になるのだし、何よりこれまで印章を預かることも、父親の代理として使用することもなかった。
「仕方ないですよ、奥様。いまの家にいても、公務が舞い込んでくるわけでもない」
「まあ、それはそうなのだけど」
ギースが優しくフォローする。
彼は冒険者としての経験も長く、世に出てさまざまな物事を見知っているだけあって、話が早い。
ブライトの第二夫人ではあるが彼の仕事が回ってくることは、全くないのが現状だった。
週末だけの関係、資金を出してもらい、魔石彫金技師の後援者となってもらっている。
早い話がパトロンと愛人だ。
「奥様を呼びつける口実としては、第一夫人とはいえ、ちょっと失礼なものだとは思いますが」
「そうね。あの人の衣類を取りに行くだけで、あなたを二往復もさせたことは、申し訳ないと思っているわ」
「いえいえ。最初は徒歩で外壁を向こう側までぐるり、と回りましたが。二度目は馬車だ。楽な物です」
「あなた、そういえば槍は?」
「槍? あんなもの、平和な王都で魔猟の予定もないのに持ち歩いたら、逮捕されますよ」
おかしそうに笑ってギースはそう言った。
とはいえ、その腰にはしっかりと長剣を履いている。いまは外して、傍らにあるけれど。
鞘と柄の部分には細い鎖がかかっていて、それで封印をしていることになるらしい。
この剣が抜かれるようなことにならなければいい、とオフィーリナは唇を固く引き締めた。
そのころになると馬車は支流の上にかかる橋の前にまできていた。
外壁と貴族街を仕切る門があり、そこで衛士が往来する人々を、いちいちちチェックしている。
その合間にオフィーリナは暇を覚えて車窓を見、景色に違和感を覚えた。
「……あの橋。工事していたのでは?」
「え? ああ、あれはもう二ヵ月まえには終わったはずですよ。馬車が欄干を越えて、落水する事故があったとか。水量が多くないときで良かった」
「……そのときの水量は、いまとあまり変わらない?」
「そうですね。あの日、前日に雨が降って水かさは上がっていたはず」
とはいっても、オフィーリナの記憶にある支流の水かさは、ほぼどこも均衡で四メートルあるか、ないか程度のもの。子供時代にはよく水遊びをして遊んだ記憶がある。
何より、外壁には魔法の結界があり、水の上にまでそれは及んでいる。
「昔、泳いでいたら深いはずなのに、足が立った記憶があるの」
「結界がありますからね。余程、増水しないかぎり、一メートルも潜れないようになっています。今なら二メートルほど行けるかもしれませんね」
「夜中とはいってもそんな上に馬車が落ちたらどうなるかしら?」
「……? 水の勢いはそれほど強くない。押し流されるということもないでしょうし、助けが早ければ溺れることはないでしょう。ただ、結界は全てのものを弾き返しますから、落下の衝撃も跳ね返してしまう」
「つまり、あの夜の落水した馬車は、大破した?」
予測にギースはまさか、と笑顔で否定した。
動き出した馬車に合わせて、景色が遠くなる。
彼はその橋を指差して教えてくれた。