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鯨山異伝

作者:

穏やかな波が打ち寄せる海岸沿いに竜王の住む竜宮が建つ。その一室にて、日に焼けた浅黒い肌の男が部屋の奥に座る初老の男へ話しかけた。


「竜王様、御呼びと伺い参上いたしました。」


「鯨よ、大和の尖兵どもより再度の使いが来たぞ。都まで頭を下げに来いと。さすれば命までは取らぬとな。」


「無礼な。そもそも言葉を用い騙し討ちするが奴等のやり口。この地を遠つ淡海などと蔑む者共の言など信じてはなりませぬ。この竜宮より竜王様を追うことこそ奴等の狙い。竜王様が居られぬなら容易くこの地を奴等の祀る神の領域に塗り替えられる故に。」


「しかしだ、既に秋葉の山から日の坂まで大井の川より西は奴等の手に落ちた。かの地に住む山の者たちもな。我が領域もこの竜宮より潮風が届く範囲のみ。悔しいがいずれは飲み込まれよう。」


「なればこちらから攻めるべきかと。我らは竜王様の庇護を受けし海の民。この地でなければ生きられませぬ。これまでの恩を返すためにも、一族の総力をもちて征きましょう。使いが来た今ならば奴等も油断しております。使いが戻る前に、日の坂の事任の社まで攻めいってみせます。」


「座して待つよりも賭けるべきか。ならば鯨よ、我が神威を込めた玉を持ってゆくがよい。竜宮より水の繋がる地なら神域を築けるだろう。」


「有り難くいただきまする。竜王様、必ずや大和の手先どもを討ち果たして参りまする。」


「使いの者共はこちらで足留めしておく。しかし、決して命を無駄にはするでないぞ。必ず帰ってくるのだ。」





この日より三日三晩、竜宮では大和からの使者をもてなす宴が開かれる。その三日目の早朝、まだ日が昇る前に竜宮から少し離れた河口に集った百艘の舟が静かに川を遡り始めた。









「長。舟が来る。およそ百。たぶん竜宮の眷属どもだ。」


遠見の才を持つ者が長と呼ばれた男に告げる。日影射す森の端に立つと、河原の先より見たこともないほどの数の舟が川が逆流する勢いで向かってくる。竜宮へ使者が出たのは聞いているが、こちらに降るための一団ではないことは一目瞭然である。


「鯨め。大人しく降ればよいものを。」


長と呼ばれた男は苛立ちを隠さず呟くと、


「宮司様へ報告へ行く。」


と手下へ告げ走り出す。走り慣れているのか道なき森を迷いなく駆け抜けると、大して時をかけずに山の麓にある館にたどり着く。


「事任の宮司様へ、狗の族の長がご報告仕る。」


門番へ告げながら庭を進み、奥の一室の前に膝をつき声をあげる。


「宮司様、川を遡り此方へ向かう舟およそ百艘発見いたしました。おそらく今頃は日影射す森の先の河原へ集結しておるかと。」


暫しの間の後、部屋の中からは欠伸の音。そして戦の報告の返答とは思えぬような悠長な声が聞こえてくる。


「狗か。ふむ、使いの者はまだ戻っておらぬにな。所詮は言の葉も通じぬ獣か。まあ良い。ならば望み通り吾が威を見せつけてやるか。」


不遜な言葉とともに戸が開き狩衣姿の男が現れると、狗の長は思わず地に額をつける。まだ二十代半ばに見えるこの男こそ、朝廷に任じられ遠淡海の国を統べる事任の宮司である。隠すことなく纏う神威に一度畏れを抱けば直視することも出来ず、目の前にいるだけで血の気が失せ動けなくなる。


「彼奴等も其のように頭を垂れれば命までは取らぬのにな。吾は本殿へ向かう。其方らは獣同士で戯れ合うがよい。」


宮司が立ち去り足音が聞こえなくなるまで狗の長は地から額を離せずにいた。血が巡り始めやっと立ち上がると、舟が着いたであろう河原へ向かい言葉を吐き出すのであった。


「鯨よ、わしらが敵う相手ではないと何故わからぬ…」










数人の出仕を供に本宮山の麓から本殿へ向かう参道を悠々と歩く事任の宮司。争いの事など微塵も感じさせぬ面持ちだったが船団の来る河原の方角から微かに神威を感じて足を止める。


「この威は竜王の老いぼれか。吾を前に数など無意味なれど、楽しめるほどに足掻いてくれれば良いがな。」


振り向き歩み始める足取りは先程より少し早く、中腹にある社殿に辿り着くと供の者へと告げた。


「何人も拝殿より近づくでないぞ。」


一人拝殿へ入り扉を閉めると外界から隔離されたように静寂に包まれた。拝殿から更に奥へ進み本殿の中央に座ると、瞼を閉じ一度息を全て吐き出す。本殿の空気が全身に巡るよう息をゆっくりと深く吸い込むと目を見開き印を結び唱え出す。


「高天原に神留まり坐す

皇が親神漏岐神漏美の命以て

八百万神等を…」



紡ぐ言葉は大祓の祝詞。



「…天津罪国津罪

許許太久の罪出む此く出ば…」



言の葉が流麗に紡がれるにつれて空気が張り詰めてゆく。



「…大祓に祓へ給ひ清め給ふ事を

諸々聞食せと宣る。」



祝詞の終わりと共に神域への接続が完了する。



「畏み畏みも白す…

遠淡海が国の一ノ宮事任の宮司が請い願う。真を知り言の葉を結ぶ御祭神己等乃麻知比売命よ、我が身命へ宿り給え。」




この瞬間、神が降りた。








社殿の周囲の変化を感じた出仕たちが緊張も解けぬまま待っていると突然拝殿の扉が開く。明らかに人を超える神威を纏う宮司を前に、その場の全員が直ぐ様跪く。些細な音を立てることすら許されぬ空気に身動ぎどころか呼吸すら止まる。そんな中、宮司は告げる。


「これよりこの地は七日七晩闇に閉ざす。吾が領域を汚す獣共を一匹たりとも逃さず討ち滅ぼせ。」











竜宮の眷属である鯨の一族と事任の眷属である狗の一族との戦いは既に始まっていた。事任側の用意も整わぬまま奇襲をかけたため趨勢は手勢に勝る竜宮の側へ傾き始めている。


鯨が先頭に立ち槍を振り回しながら前へ前へと突き進むと、見覚えのある顔が立ち塞がった。


この地に大和が侵略し遠淡海と呼ばれる以前、同じ地方に住む民として海の者も山の者も交流があった。どちらも足りない物を補い合い生きてきたのだ。一族を率いる者同士に面識があるのは当然と言える。しかし今は向かい合い、互いに武器を突き付け合う立場である。


「狗よ、そこをどけ。事任の社まで後僅か。我らが勝てばお主らも解放されるのだぞ。」


鯨の言葉に狗は哀れみを乗せて返す。


「鯨よ、何も知らぬからそんな事を言えるのだ。今からでも遅くはない。わしが口をきいてやるから降るのだ。」


「山の民としての誇りを忘れたのか!」


怒りに任せ鯨が躍りかかろうとした時、懐に入れた竜王の玉が凛と鳴った。


予感に足を止め、本宮山の中腹にある目指す社を煽り見ると、かつて無いほどの神威の高まりを感じる。

周囲を見ると先程まで戦意で高ぶっていた仲間も、そして敵である狗の一族までもが戦いを止め青褪めながら同じ一点を見つめている。


見やるうちに更に高まる神威に耐性のない者たちは震えだし、酷いものは倒れ伏してゆく。鯨も膝をつきそうになったその時、人ではない何かが顕現したことを本能で理解した。


(これが、大和の神…)


誰も動けない中、頭の中に声が響く。


『真の知性と言の葉を統べる神、己等乃麻知比売命が告げる。今よりこの地を闇に閉ざす。』


直接の神威に当てられ意識が飛びそうになる中、鯨は竜王の玉を握りしめることでなんとか耐える。辺りは徐々に暗くなる。神を名乗る者の宣言通りに事象が書き換えられてゆくのだ。

空を見上げると快晴だったはずが一面雲に覆われている。白い雲はすぐに灰色に、そしてより暗く黒く、一筋の光も通さぬように闇に染まってゆく。


このまま完全に闇に包まれたら手遅れになる。そう感じた鯨は懐の玉を両手に掲げ竜宮へと祈った。


「竜王様、我らに御助力を…」


一瞬のち、祈りが届いたのか玉が輝き出すと鯨の手から離れ浮かび上がる。玉が空を覆う雲へと辿り着くと闇への変化は止まり、圧倒的だった己等乃麻知比売命の神威も薄れてゆく。


「流石は竜王様。これなら戦える。」


鯨が再び戦意を宿すと、周囲の仲間も立ち上がる。


「狗よ、我らは行くぞ。お主らはそのままそこで膝を抱えて待つが良いさ。」


畏れに震えて蹲ったままの狗の長に声をかけ薄闇の中を走り出す。

生き残った仲間と共に森を駆け抜け小高い丘を登りきったところで本宮山の麓の館が見えてくる。目的地を見据え陣を組もうとした時、予兆もなくいきなり雷が落ちた。

未だ薄暗い雲に覆われてはいるものの雨は無く、突然の雷の不自然さに足を止めると薄闇の向こうからたった一人で近付く者が見える。


「吾が神域の変遷を止めるとはな。竜宮の老いぼれの最後の足掻きと思えば良くやったと言えるか。」


会ったことなど無い。が、その態度と雰囲気から誰何せずとも何者かは判る。


「事任の宮司とお見受けする。ここに至れば我らが勝ちは決まりであろう。見たところ武器も帯びてない様子。大人しく縛につけば手荒には扱わぬぞ。」


鯨が槍を突き付けると仲間も宮司を囲むように動き出す。

狗との戦いで数を減らしたとはいえ、まだ数百は残っているのだ。例え相手が神だろうとたった一人、もはや勝ちは揺るがぬはず。

そんな考えを見透かしたように宮司は嗤う。


「やはり獣は理を知らぬな。人に非ざれば対等の戦いになどならぬと知れ。」


「どこまでも我らを蔑むか。無手だろうと手加減はせぬ。引っ捕らえて舟に括りつけたまま竜王様の前まで運んでくれるわ。者どもかかれ!」


鯨と共に囲んでいた者たちが一斉に宮司に襲いかかる。


「獣相手に剣など過剰であるからな。」


宮司は少しの焦りも見せず、腰に付けた袋から一握りの碁石を取り出すと周囲に放り投げた。


「闇などただの戯れに過ぎぬのに、それを止めただけで勝ったと思うのも憐れな事よ。言の葉こそ吾が力。」


宮司の纏う神威が膨れ上がる。


『吾は告げる。雷よ、落ちよ。』


言葉の終わりとともに、投げた碁石を目掛けて同時に幾つもの雷が落ちた。

轟音と雷光が止むと、周囲は見えるもの全て焼け焦げている。その場に立つのは宮司と鯨のみ。


「神威を纏えぬ獣どもが那由多集えど敵ではないが、人に近しき者もいたか。吾が眷属となるのなら其方の命くらいは助けてやるぞ。」


直前まで玉を身につけていた分、竜王の神威の残滓により抵抗できたが即死でなかっただけだ。既に槍を支えに立っているだけで精一杯の状態ではある。だが、考えるまでもない。


「我は誇り高き竜宮の民。例え敵わず命を散らそうとも侵略者の手先にはならぬよ。」


命の灯が消えかかっているのは鯨も自覚していた。ならば一撃に賭けるのみ。竜王の神威は失くなったが自身の命を燃やし尽くして焔にし、一矢でも報いてくれる。信じて送り出してくれた竜王のためにも、ここまで共に来た仲間のためにも、覚悟を定め槍を構える。


「徒に失うには惜しくもあるが、その目は面白き。人に近しき者よ、名を告げよ。」


「雄鯨。参る。」


宮司の問いに短く答えると鯨の持つ槍が熱を発し始める。目に見えるほどの焔が槍から放たれた時、宮司へと駆け出し渾身の一撃を放つ。宮司は右手を掲げ無言で受け止める。鯨の命焔と宮司の神威が衝突する。そして、


「言の葉を使うまでもないと思ったが、届いたか。」


傷付くはずなき宮司の手の平から滴り落ちる鮮血。

突きを放ったままの体勢で微塵も動かぬ鯨。


「神に届いた褒美だ。この地に其方の名を与えよう。」


事切れている鯨を見やると右手を振り血を払う。既に傷は塞がっている。その足で館へ戻るとこの地に住む者全てが平伏して待っていた。


「竜宮へ再び使いを出せ。眷属に免じて悪いようにはせぬとな。」








鯨の一族壊滅の報を聞いた竜王は大和への恭順を誓う。同時に遠淡海の国は完全に大和朝廷の支配下に置かれることとなる。海側への抑えが必要なくなった大和は更に東へと手を伸ばすのであった。






そして時は流れ、現代。







静岡県の遠江地方にある掛川市の八坂という地域に事任八幡宮という神社がある。


東海道25番目の宿場街である日坂の宿の入り口に在り、東に逆川が流れ、北に粟ヶ岳、西には本宮山、そして南には雄鯨山と呼ばれる山があった。


海からはほど遠い山間地域なのに鯨の名を冠するこの山は、土を掘ると何故だか度々碁石が見つかるという不思議な土地だった。


21世紀初頭、農地造成のために雄鯨山は拓かれることになる。開拓工事が始まる時に事任八幡宮の宮司が地鎮祭の祈祷を執り行った。


その夜、宮司は夢を見る。


降り注ぐ陽射しに高揚しながら舟に乗り川を下るとやがて懐かしい潮の香りが漂ってくる。そして目の前に海が開けたところで目を覚ました宮司の頬には、一筋の涙の跡があった。


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