黒騎士 旅立つ
「おう。リィナ、お帰り」
古びた木製カウンターの向こうには、気さくな笑顔を浮かべる寮監がいる。彼がいつもの定位置に座っている、ということが大事なのだ。
クレメンスさんがここに居るということは、なんの問題も起きていない、平和そのものだということだから。
「なんだ、怪我したのか。全く、気を付けろっていつも言ってるだろう?」
怪我なんてして三流だ、とか警戒心が足らないのだ、とか言いながらクレメンスさんは私の頭をぐちゃぐちゃにしながら撫でる。
この寮に部屋を貰ったのは私が十五歳の時だから、もう十年以上クレメンスさんには頭を撫でられている〝ちゃんと生きて帰って来たな、偉いぞ〟という意味を込めて。
「で、しばらく休めるのか? おまえ、あの部屋もう少しどうにかしろよ。女の子の部屋って以前に、人が住んでる部屋じゃねぇ。あれじゃあ休めねぇよ」
「ああー、そうじゃなくて。騎士団、辞めたのね。だから、寮も出ることになって、片付けに来たの」
目を大きく見開き、口をパカッと開けたあまり人前ではしない方が良いだろう表情をして、クレメンスさんは固まった。
そう言えば、お金の問題で加護魔法を受けてなかったと白状したときの師匠夫妻も、同じような顔をしていたな。
「すぐに片付けるから。騎士服とかはクレメンスさんが預かって、本部に返してくれるんだよね? お手数ですけどお願いします」
そう言って受け付け前を通り、左奥の廊下を進む。
左奥には女子用の個室が三部屋とリネン室と倉庫があるだけ。因みに右奥の廊下を進めば、男子用の個室が何十部屋も並んでいる。
あちらは少々匂うという話しだ。
三部屋あるうちの一番奥が私の部屋。他の二部屋に誰かが入居したことはない。
女性騎士の多くは白騎士と呼ばれる近衛騎士だ。彼女たちは王族や来賓の警護が主な仕事の為、お部屋は王宮内に用意されているのだ。
そもそも、近衛になるには貴族である必要があるのだから、誰も彼もがご令嬢様。こんな小さく質素な部屋で、侍女もいない生活なんて出来ないだろう。
部屋には備え付けのベッド、机と椅子、オイルランプ、洗面器具と鏡、クローゼットがあるだけ。木製のなんの飾りもない、実用一辺倒な代物だ。丈夫で長持ちという利点しかない。
「リィナ、もし処分するものがあればこの箱に入れろ。なにか手伝うか?」
開きっぱなしのドアを律儀にノックして入って来たクレメンスさんは、床に木箱を置いてくれた。いつの間にか硬直から立ち直ったらしい。
「ありがとう、クローゼットの騎士服をお願いします」
「ああ」
机の上に置いてある、武器や防具の手入れに使っていたオイルやウェス、破れた手袋などはもういらないので、箱に入れた。
ベッドの上の毛布と枕は支給品だし、カーテンもランプも支給品。クローゼットの中の黒騎士の騎士服と礼装は返却。
残りは柔らかさの失われた古い数枚のタオルと下着類、私服の白いシャツにカーキのコットンパンツ。紺色のワンピースとぺたんこの靴が一足。
クローゼットの横で埃を被っていたキャスター付きトランクを開けて、その中に服とタオルと下着類を詰め込む。洗面用具と机の上にあった筆記用具も詰め込めば……入居した時と変わらなくなった。
私物なんてほとんどない、片付けなんてあっという間だ。
肩掛けにしていた鞄の中から、写絵機とペン、残りの便せんと封筒も入れれば、鞄の中は財布とハンカチ、少量の薬などを入れたポーチだけになる。
「これだけか?」
「うん、元々眠りに帰って来ただけの部屋だったしね」
トランクを閉めると手掛けを持って転がしてみた。キャスターは多少軋むものの、ちゃんと転がってくれたのでこれを引っ張って行けば大丈夫そうだ。
片手に杖、片手にトランク。
素早く動くことは出来そうにないが、ひとりで移動出来る。
「リィナ、どうして騎士団を辞めたんだ。まだ二十代の半ばだろうが、そんなに怪我が酷いのか?」
クレメンスさんは返却する私の騎士服と礼服を纏めると、残念そうな顔をした。
騎士としての私を惜しんでくれる人がいてくれて、嬉しい。
「騎士団の方から通知を貰ったのね。多分、今回の怪我が大きくて……もう使い物にならないって判断されたんだと思う。ほら、怪我してもう何ヶ月も経ってるのに、まだ杖が手放せない。もう戦えないよ」
「リィナ」
「いいの、いいの。仕方がないよ、体が動かないんだもん、討伐に出たって他の人の迷惑になるだけだもん。これからは、ゆっくり過ごすって決めたんだ」
「……そうか、それはいいな。ゆっくり過ごすのはいい」
「でしょう。野菜とか花とか育てて、犬か猫でも飼って一緒に暮らすの。料理もやってみたいしね」
これからやってみたいことを話せば、クレメンスさんは賛同してくれた。今までやれなかったこと、やってみたいと思ったことになんでもチャレンジしてみればいいって。
これからの私は自由だ、好きなことをして好きに生きる。
クレメンスさんにお別れを言って、寮官舎を出た。
これから、どこに行こうか?
まだ今からなら夕方前の馬車に間に合うはず。
私はゆっくりトランクを引きながら、辻馬車が集まる広場へと向かって歩き出した。
もう黒騎士リィナでもない、グランウェル侯爵夫人でもない、ただのリィナだ。
私は、自由なのだ!
ありがとうございます。
次回から視点が切り替わりますが、宜しくお願いします。




