序曲2
…なんだ、いたんだ。一回目のやつは聞こえなかったのかな。
「あー、あの、おれ涼太です。アサヒ君に渡すものがあって来ました」
自分でも意外なほど大きな声が出た。
…おれ怖がってる? なにに?
相手は何も言わずに突然インターフォンを切り、ガチャガチャと鍵を開けるとすぐに玄関の引き戸を開いた。久しぶりに見るアサヒの母親がニコニコしながら顔をのぞかせた。
スウェットにエプロン姿で、うちのかーちゃんと大差ない。
「あら、涼太君。お久しぶりね。しばらく見ない間に大きくなったわね。いつもうちの子とお話してくれてありがとうね。晨比君に渡すものって何かしら?」
先ほどまでなぜか緊張していたおれは、あわてて学生カバンを開ける。
「これです」
プリントの束を取り出し、門の外から彼女のほうへ差し出してみせた。
「あらあら何かしら」
アサヒの母はサンダルをつっかけて出てくると、おれがいる門のところまでやってきた。
「アサヒ君の机にあったプリントです」
「あら、学校のやつね。ありがとう。晨比君に渡しておくわ」
彼女はそう言って、手を伸ばしてきた。少し予想外の反応に、おれは面食らう。
「ちょっと呼んで来るから待っててね」と言ってもらえるつもりだった。
渡して終わり? 会わせてくれないの? ちょっと待って。
「え? いや…あの、話したいこともあるんでアサヒ君に会いたいんですけど…」
おれがそう言うと、彼女の表情にチラッと暗いものが差したように見えた。
「あら、そうなの? …いま、晨比君具合が悪いんだけど…。そうねぇ…うち、汚いから…。玄関まででいい?」
アサヒの母はおれの機嫌を伺うように、上目づかいでこちらを見た。
別にアサヒに会えればそれでいいんだけど…。
まるでおれが無理矢理にでも上がりこもうとしているような対応に、少し嫌な気分がした。
「それでいいです」
極力、気にしない風を装う。
「そう? じゃあどうぞ」
母は納得したようにもとの笑顔にもどり、おれを門の中へと通してくれた。大雑把に手入れされた小さな庭を通って玄関へと歩く。雑草などは生えていないが、どの木も幹の途中でバッサリと切られていた。
木や庭の手入れっておれはしたことがないけど、そんなに思いっきり切るのだから相当面倒くさいものなのだろう。
「お邪魔します」
母親が引き戸を開けてくれていたので、そのまま家の中に踏み込むと、玄関は結構な広さがあった。
木でできた下駄箱の上、外を睨みつける洋銀でできた蛇の置物が目を引いた。その横にはカラカラに乾いた花がそのまま放置されている花瓶や、埃が積もった高級そうな皿が飾ってある。正面にはしっかりと閉められた両開きの戸襖があり、向こう側に部屋があるのがうかがえた。
…ふーん、アサヒんち、汚いっていうほどでもないな。
おれは促されて玄関の上がり框に腰掛けた。
「今呼んで来るから、待っててね」
アサヒの母は正面の左側にある急な階段を「よいしょ、よいしょ」と言いながら上がっていった。彼女の姿が見えなくなり、しばらくすると上の方で部屋の扉を叩く音がした。
「晨比君、涼太君が来てくれたわよ。どうする?」
息子に呼び掛けているようだが、彼の声は聞こえない。
「そう。じゃあ涼太君下で待ってるから。涼太くーん! いま晨比君降りていくからね、そこで待っててくれる? じゃあ私は自分の部屋にいるわ。どうぞごゆっくり」
そうしてどこかの扉が開閉される音がした。
「はーい。わかりました」
大声で返事をし、おれは玄関の適当な場所に学校プリントと、図書館の本を入れたカバンを置いて筆箱を取り出した。すると、
プルルル…
どこからか電話が鳴りだした。だが家の中は静まりかえっていて、誰も受話器を取らない。シンとした空気の中で延々と鳴り続ける着信音は、誰もいない場所でなっているようで気味が悪かった。とうとう相手が諦めたのか電子音が止まると、バタンと扉が開く音がして上下白いパジャマ姿のアサヒがパタパタと階段を降りてくる。
「ごめんね、待たせて」
彼はやわらかい声でそう言うと、青白い顔で照れたように微笑んだ。おれは久しぶりに見るアサヒの笑顔にほだされて、やっと頬がゆるむのを感じた。
「いいよ。今、電話鳴ってたけど、出なくて良かったの?」
「ああ…いいんだ。出るなって言われてるし」
アサヒは何でそんなことを聞くの? というように首をかしげ、少しぶっきらぼうに言ったあと、おれの隣に座った。
「それより、今日はわざわざ来てくれてありがと」
再び、やわらかい声と笑顔に戻るアサヒ。
良かった、勝手に来たけど嫌がられてないみたいだ。いつも思うが、こいつの顔ってすげえ綺麗だよな。日に当たらないせいか病気のせいかわからないけど、肌は白いし、痩せていて線が細くパーツの配置もとても整っている。伏し目がちだが目もわりと大きくて…こいつが女子ならいいのにな、と思いつつ、ついついじいっと眺めてしまう。
「ははは。まあいいや。これ図書館の本。お前が好きそうだから借りてきてやったぜ。あと今日の勉強なんだけど…お前顔色悪いな。大丈夫か? 今日はやめとこうか?」
顔に見とれていたことを隠すため、わざと顔色の事を尋ねてみた。
いや、本当は心配だったんだ。本当に。
「え! いや、いいよ。勉強しよう? おれ大丈夫だから」
見ていたことはまったくばれていなかったが、アサヒは何故か泣きそうな顔で、リョータが出した筆箱を強く握っている。
「そうか? じゃあやろうぜ。それよりさ、今日学校で…」
おれが待ってましたと言わんばかりに上機嫌でペラペラと話し始めると、アサヒはニコニコと嬉しそうに笑って聞いている。おれの話術で心なしかアサヒの顔色が良くなってきたように見えて、おれはさらに調子に乗って話し続けた。心地いい空気がおれとアサヒを包んでいると思った。
「あっ。そういえばさ、アサヒって昔から絵が超うまいじゃん。今も描いてんの?」
おれが尋ねると、
「うん…描いてるよ。最近は、まんがも描けたらいいなと思って、少しづつ」
アサヒは恥ずかしそうに目を伏せた。まんがと聞いてテンションが上がるおれ。
「えっまんが!? 見たいみたい! 読ませてよ」
「えー、リョータ絶対バカにするだろ? 嫌だよ」
「しないって! いや、やっぱアサヒすげえよ。将来大物漫画家になるんじゃね?」
べた褒めするおれに悪い気はしなかったのか、
「そう…かな? 仕方ないなー、じゃあちょっとだけね。取ってくるよ」
アサヒはもったいぶったように、けど得意そうにほほ笑んで立ち上がろうとした。
「あ、ねえ、ちょっと待って。お前の部屋って行ったらダメ?」
勢いで言ってみたが、言った瞬間アサヒの表情が曇り、明らかに戸惑った様子になった。ヤバいかな…と思いつつ、けど部屋行ってみたいな…どう言うかなと黙っていることにした。
「…うーん、じゃあちょっとだけね。内緒だから、静かにね。内緒だよ」
アサヒはそう言って人差し指を口にあてた。同じ男とは思えない白い手だ。
「わかったわかった。内緒だな。静かにね」
家に上げるのを拒んでいた母親だ。見つかったらどんなに怒られるのだろうと思うと気を引き締めてかかるべきだろう。音を立てないよう、薄暗く急な階段をゆっくりそうっと上がるおれたち。
階段を上がった正面の明かりとりの窓から、白い光が注ぎこみ、暗い階段の一部を照らしていた。日に当たったアサヒの肌はそれこそ透き通り、光との境界でぼうっとにじんでいるようにみえた。
あ、すげえ…天使。
おれはもしかして天国に案内されているんじゃないだろうか。
そんな気持ちになった。しかしそれはまったくの錯覚で、あっけなく階段は終わり、すぐ右手がアサヒの部屋だった。
なんの変哲もない木製のドアを静かに開け、中に入るとアサヒは振り返って小声で言った。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します…」
おれも小声で答える。一番に目についたのは、狭い四畳半の部屋を四分の一くらい占拠する、古く黒いピアノだった。驚いて尋ねた。
「え、お前ピアノなんか弾くの?」
「ううん。置き場がないからってこの部屋に置いてあるの。前に住んでた人のものだって。弾いても出ない音が何個もあるんだ。」
おれの頭の中に『パパからもらったクラリネット、弾いても出ない音~が~ある♪』という歌詞が流れ出した。オーパッパラパ―オーパッパラパー…じゃあ、捨てればいいのに。どうやらただの物置になっているようだし。ピアノの上には埃のかぶったフランス人形やオルゴール人形が置いてあるのだ。
「これ、アサヒの趣味なの?」
念のため尋ねると、アサヒは首をふる。
「まさか。わかんないけど置いてあるんだ」
「だよなあ…」
部屋の隅にある、アサヒが勉強用に使っているのだろうと思われる古い仕事机の上には、一世代か二世代か古いパソコンが置いてある。
引き出しには『大日本帝国万歳』やら日本の古い国旗、『銀河鉄道999』のステッカーが貼ってあるのだが、はがそうとしてはがれなかったのか一部が白くなって中途半端に残っていた。
「お前、こんなの好きだったっけ?」
「違うけど…この机、親が近くのゴミ捨て場から拾って来たんだ。使いづらいからあんまり使わないけどね」
アサヒは事もなげに言う。
オイオイ…勉強机も買ってもらえないのかよ。こいつ成績は学年上位だぞ。
アサヒの母親が家に誰もあげたくない理由がわかったような気がした。壁には、窓がある面以外の三面すべてに有名らしい絵画のポスターが貼ってあった。芸術に疎いおれは誰が描いた何という作品なのか知らないが、しかしどれも暗い印象の絵だったのであまりそちらを見ないようにした。どう見てもこの部屋は十四歳の男の部屋じゃない。むしろツッコミどころしかない。アサヒが自分で使っていそうなものは、部屋のはじに置かれた小さな本棚と、ピアノの下に積まれた少年ジャンプくらいか。部屋の真ん中には先ほどまでアサヒが寝ていたであろう布団が敷かれており、それだけは真新しかった。おれがそのちぐはぐな部屋の様子に茫然としているとアサヒが話しかけた。
「部屋狭いけど、適当にその辺に座ってくれる? 今マンガ出すからさ」
無言で空いているスペースに腰を下ろすと、ほっとした様子のアサヒは机の引き出しの中から紙の束を取り出し、しばらくの間眺めていた。なかなかおれに見せようとしない。
「何やってんだよ。見せてくれよ」
せっつくと、アサヒはちらりとこちらを見ながら、もったいぶって原稿を手渡してきた。
「うーん…恥ずかしいけど、リョータだから見せてあげる。誰にも言うなよ。」
そのまんがは、死んでしまった浮かばれない人間を三途の川の向こうへと送る浄霊師が主人公で、ギャグやシリアス、恋愛もある少年漫画だった。
おれが思っていたよりもだいぶん面白く、夢中になって十五ページほどの話を一気に読み終えると、自然と感嘆のため息が漏れた。
「はあ…やっぱりお前ってすげえな。世界観も面白いし、全然おれじゃ思いつかない展開で話が進んでて。もっと読みてー。もっとないのか? つづきは?」
「もう少しで次の話ができあがるんだ。できたら見せてあげるよ」
アサヒは頬を少し赤らめて照れながらも、嬉しそうに微笑んだ。その時だ。
ふたたび家のどこからか電話の音が聞こえてきた。