有り得ない。
誤字、脱字報告に感謝致します。
うわーんビリーが私の服破ったー
違うよリリーが先に僕の砂の山を崩したんだよ!
リリーは悪くないわ!ハリーがやれって言ったんだもん
マリー告げ口するなよ!
お前ら静かにしろ!勉強できないじゃないか!
うわーんハンナ姉ちゃんマイク兄ちゃんが怒ったーーーーー!!!
王都に出稼ぎに来る前は毎日、毎日、それは賑やかに過ごしていた。
長女の私と、一つ下のマイク。少し離れて双子のビリーとハリー。もう一つ下の双子のリリーとマリー。
マイクは私と違って頭が良くて、読み書きの勉強を教会で教えてもらっていた。ビリーとハリー、リリーとマリーはまだまだ小さくて朝から晩まで働く両親の代わりに彼らの世話は私の役目で、贅沢しなければこの時はなんとか暮らせていけた。
ある日、父が腰を悪くして、これまでのように働けなくなった。
マイクが教会での勉強をやめ、父の代わりに働き始めたが肉体労働は彼の得意とするものではなく、父と同じにはいかないようだった。
下の子供達は、成長するに従って手はかからなくなっていくが、よく食べるようになる。まだまだ働ける年ではない。
母は更に働いたけれど、もともと多く稼ぐことのできる仕事ではなく、ずぶずぶと沼に入ってゆくように少しずつ家族は困窮し始めたのだった。
教会で賢い子だと褒められていたマイクは、肉体労働の仕事では怒鳴られ叱られることばかりで徐々に笑わなくなったし、母は家にいる時間がほとんどなくなった。
幼い弟妹は、母に会えずに寂しそうだし、父はいつも謝っている。
ハンナも繕い物で家計の足しにでもなればと夜な夜な眠い目を擦りながら働いたが、出て行くお金を補填出来るような仕事の依頼は、この田舎にはなかった。
少し前までささやかながら普通に暮らせていたのに……。
ハンナが出稼ぎに行く決意をするのは早かった。
幸い、裁縫が得意で王都ではお針子なら直ぐに職に就けるという話を聞いて、家族の為に何とか馬車代をかき集めて出稼ぎに来たのが数年前。
初めて見た王都は、キラキラして人も多くてこんな所で働けるなんて……と心躍ったのは、ほんの少しの間だった。
…………誰も雇ってくれないのだ。
腕なら自信がある……それなのに。
お針子ならば、直ぐに職に就けるなんて嘘だった。
後で知ることになったのだが、ハンナが王都に来たのは社交シーズンが終わった時期で、お針子達は相当な腕を持っていない限りは軒並み一時、解雇されるとのことだった。
貿易が盛んな王国は国内で供給できる絹以外の生地の大半は、輸入に頼っている。ウールやリネンは、主に帝国から既製服の状態で入ってくるために、社交シーズンが終わり、絹製ドレスのオーダーメイドの数が激減すれば、大量のお針子がお払い箱となってしまう。
位の高い貴族や、お金持ちは、リネンやウールでも生地の状態で仕入れたものを仕立てるが当然、そういう家は、お抱えの仕立て屋とお針子がいるので仕事は回ってこない。
毛皮等の加工は、仕立て屋やお針子ではなく専門の職人の仕事とされ、こちらにその仕事はこない。
ハンナは一番来てはいけない時期に王都へ来てしまった。
帰ろうにも馬車代なんてない。
今日と明日のご飯が食べられるかどうかの持ち合わせしかないのだ。
キラキラと眩く光る王都の商店街が、絶望的な場所と知って何時間も、何時間も立ち竦んで動けなかったハンナに、今の店主が声をかけてくれなければスラムで寒い冬を越すことになっただろう。
一度スラムに身を置いたら、もう二度とお針子として雇ってもらえることは難しいのではないだろうか。
これから寒くなるこの時期に、職もなくどうすればいいのだろう。家族に仕送りなど、夢のまた夢の話だ。
「この刺繍、自分でしたの?」
そう言ってハンナの服を指差してくれたのが今の店主だった。
新しい服なんて買えないから、教会から恵んでもらった古着だ。
何年も洗って着てを繰り返し、布自体が弱く薄くなっているのを補強するために施した刺繍は、ハンナのオリジナルの模様だ。
王都どころか、どこの国でも誰も見たことがないはずのそれを今の店主が気に入り、社交シーズンはお針子として、それ以外の時は、下働きとして雇ってもらえることになった。
社交シーズンに入れば、田舎では有り得ない額の給金を出してくれた。
何故、逃げてしまったのか。
店主は、命の恩人で、家族の恩人だ。
忙しくても逃げてはいけなかった。
でも、不可能な物は不可能だ。
ハンナの刺繍の模様は、流行に乗り、社交シーズンはいつも大忙しだった。
毎年、なんとか切り抜けて家族に仕送りをして、下働きをしながら次のシーズンを待つ。
それなのに、今年は王族主催の夜会が突発的に二回もだ。
先週やっと地獄を抜けたと思ったのに、更なる地獄が直ぐに来た。
眠れず、食べれず、全ての時間をドレスに捧げたのに、作るドレスの数は何故か増える。
忙しくても逃げてはいけなかった。
逃げてはいけなかったのに。
あの店のお針子は私一人。私が冬に店に残るために、私がなるべく多くを仕送りしたいがために、店主は更なるお針子を雇えない。
店主は、悪くない。
悪いのは……私……だ。
ふわぁっと甘い香りが鼻孔をくすぐる。
見たことのない綺麗なお菓子が並んだテーブル。
今まで見た人達の中でも飛び抜けてキラキラ光る金髪の三兄弟。
そばかすの少年が出してくれた紅茶には、この季節に有り得ないはずの氷が入っていて、カランと涼しげな音を立てている。
別世界だ。
ハンナはハッとする。
頭が真っ白になってふらふらの状態で成すがままに連れてこられたのは、そばかすの少年の店だという。
しばらく外出していなかったために初めてみるこの店は、入り口にみずみずしい苺が描かれていて、中に入れば可愛らしい小物に溢れていた。
しかもものすごくいい匂いがする。
女の子ならば夢中になること間違いなしのその空間を抜け、2階は2つに分かれていて、一方には上質なパレスの絹が量も種類も豊富に揃えてあった。
もう一方は、軽食を出していると説明されたがチラッと見えた店内は、宝石のように輝くフルーツに食べたことはないけれど恐ろしく甘くておいしいらしい生クリームらしきものが添えられていた。
ただでさえ、ふらふらのハンナはこの夢のような光景にぼーとして、背の高い少年に運ばれるままになっている。
そして、そばかすの少年の居住スペースだと教えられた3階へと上がれば、ほっと肩の力が弛む。
実に無駄な物がなく、シンプルな部屋だった。
豪華な1階と2階とは違い、広いのは広いが庶民のハンナが緊張しない程度の落ち着いた………………??
前言撤回。
大きな窓に付けられているあのカーテン……本物は見たことがないけれど……多分パレスの最高峰エマシルクなのでは……??
あの大きさ…………いや、エマシルクを……カーテンに?は?
こいつ……正気か?とそばかすの少年を見れば目があってしまい、にっこりと笑って話しかけてきた。
「何か持ってきますので、座ってください」
それに従うように背の高い少年が私をソファーに降ろす。
…………今まで私が座ったソファーはソファーではなかった、と思うほどの座り心地の良さ。
「お姉さん、大丈夫?気分は悪くない?手の怪我は?痛くない?」
私がぶつかって倒してしまった、頬に傷のある少女が心配そうに隣に座る。
「顔色が良くないわ、何か食べる?」
絶対100%貴族であろうこの少女は、何故か本気でハンナの心配をしているように見えた。
有り得ない。
そもそも、貴族にぶつかってまだ生きていることすら不思議でならない。
背の高い少年だって100%貴族なのに、庶民の自分をここまで運んでくれた。庶民に触ることすら嫌悪する貴族がいる中で、これも…………有り得ない。
「姉様。普通の人は体調が悪い時は何も食べられないのでは?調子の悪い時にご飯を食べて元気になるのは姉様とゴム人間くらいですよ?」
金髪の美少年が傷の少女に注意している。……ゴム???人間?
兄弟だろうか…………この三人が三人とも私を心配してくれている。
……有り得ない。
うーんと現実を受け止めきれずに首を振って項垂れる。
「何か、困っているの?話すだけでも楽になるよ?」
そっと、ほとんど外へ出ていないハンナよりも更に白く透き通った手を少女はハンナの手に重ねて首を傾げる。
じんわりと温かな少女の体温がハンナに伝わると、ポツリ、ポツリと家のこと、自分のこと、仕事のこと、何故か話し始めてしまった。
貴族で、年下で、深い傷跡のある美しい少女に。
庶民で、年上で、お針子の仕事から逃げたハンナが。
有り得ない。
有り得ない…………けど…………。
助けて……。
ハンナは、細くて小さなその手にすがるように、途中で止めることもなく、全てを話してしまった。