多忙に無勢。
誤字脱字報告に感謝致します。
「もう、これ以上は無理です!」
ハンナは叫んだ。
既に1人でドレス3着を担当しているのに、貴族からの注文があとをたたない。
社交シーズンは始まったばかりというのに、うちみたいな小さな店でも追い詰められるほどの注文が殺到していた。
王家主催の急な夜会が週末にあるために、王都中の仕立て屋はてんやわんやの忙しさだった。
一週間で3着のドレスなんて本当に作れるのだろうかと不安で押し潰されそうになりながら、お針子のハンナは涙をこらえて黙々と針を動かしていたところに、店主からあと2着縫えと言われついにキレてしまった。
「一週間寝ないでドレスを縫っても3着出来上がるかわからないのに、1人で5着なんて無理に決まっています!」
わかっている。
店主は悪くない。
仕立て屋は貴族には逆らえないのだ。しかも今回の夜会は王家主催なのだから、招待されているのは身分の高い貴族が多いために注文を断ることも難しい。
高貴な令嬢方はドレスなんて縫わない。ハンカチの端に花模様をちょこんと刺繍するのとは違うのだ。本来ドレスとは、数人で数週間かけて作るものなのに。
キレようが、泣こうが、喚こうが、無慈悲にハンナの作業台の上に新しい生地が置かれる。
睡眠も、食事も、ここ数日満足に取れていない。
こんな仕事辞めてやる。
こんな仕事辞めてやる。
こんな仕事辞めてやる。
心の中でぐるぐるぐるぐる何度も叫びながら、それでも針を動かす手を止めることはできなかった。
王都に家族はいない。
下に弟妹が5人もいるハンナは、出稼ぎに来た田舎娘だ。
初めての王都は、人も建物もキラキラ輝いて見えたものだったが、仕立て屋の店に住み込みで働くようになってからは外に出ることなくひたすら針を動かす毎日が続いている。
ハンナは服なんて今着ているのと、もう一着と夜着しか持ってない。下着だって3セットだけだ。
貴族は、ドレスだけで何着作るつもりなんだろう。
ドレス作りは不毛だ。
流行のデザインは、奇抜で複雑で作業が大変なわりに飽きられるのが早い。
パターン通りに作っても、着る令嬢が数日間のうちに太っていたり、痩せたりしてクレーム品として返ってくることも少なくはない。
最近は不買運動だかなんだか知らないがパレス産の絹を使うなと注文をつける貴族もいて面倒だ。
仕立て屋業界のど真ん中にいるハンナから言わせてもらえればあれほど縫い易い生地はないのに。お針子大絶賛のパレス絹は、見た目や品質も一級だが、縫う人のことも考えてくれているのではと思わずにはいられない。
こんな大変な思いをして作ったドレスだって1~2回袖を通すだけで着てもらえなくなる。
こんな仕事辞めてやる。
こんな仕事辞めてやる。
こんな仕事辞めてやる。
心に反して体はせっせとドレスを縫っていると、表の店舗の方が少し騒がしいことに気付く。
「本当に、本当にこれ以上は注文は受けられません」
「そこをなんとかしろ。私が仕えているのは公爵家だぞ?」
「公爵様ほどのお家ならば、お抱えの仕立て屋がいるのでは?うちは小さな店なので人も少なく、手一杯なのです」
「お針子に1人、腕の良い娘がいるらしいな?お嬢様は、週末の夜会はその娘が縫ったドレスを着たいと仰っているのだ!」
「??ですから、光栄とは存じますが、うちの店はもう仕立ての限界を超えておりますので……何卒ご勘弁願えませんでしょうか?」
「何をバカなことを!他の令嬢の注文など後回しで良いのだ!公爵令嬢のドレスを作らせてやると言っているのだぞ?」
「そんな、店の信用にも関わります。ご贔屓にしてくださっているお家に…………!」
バン!!
「ここに、公爵令嬢様の採寸した紙を置いていく!絶対に、夜会の前日までに屋敷に届けろ!流行のデザインで、パレス絹は使うな!」
「そんな、困ります!!!」
「いいか?置いたからな?絶対に納期は守れ?絶対だ!」
叩きつけるように紙を店主の前の机において、公爵家の従者はそのまま店を出ていった。
………………店主は悪くない。
でも。
限界だった。
ぼーーっとしばらく公爵家の従者が出ていった扉を眺めていた店主は、とぼとぼとハンナの元へ歩いてくる。
来ないで。
お願い。
来ないで。
嫌な汗が背中を伝う。
店主の足が、ハンナの前で止まる。
「ハンナ……もう一着……頼む……」
店主は、悪くない。
でも、限界だった。
「……こんな仕事辞めてやる」
心の中で何度も何度も叫んだ言葉が、口からこぼれ落ちる。
「ハンナ?」
店主は、悪くない。
でも、もう止まらない。
「こんな仕事辞めてやる!!!」
だんっと作業台に手をついて立ち上がる。
店主は、悪くない。
でも、ハンナはそのまま逃げるように駆け出した。
店の裏口から、外へ。働いて、働いて、働いて、一体何時ぶりなのか記憶にないほどに久しぶりの外へ、ハンナは逃げるように駆け出した。
「っハンナ?っつ!!!ハンナ!!ハンナーーーーー!!!」
店主が叫ぶが、逃げる足は止まることはなかった。
もう、限界なのだから。
ドンッと小さな肩にぶつかる。
夢中で走っても、何ヵ月も店でドレスを縫っていたハンナの足は直ぐに縺れてしまい小さな少女を道連れに倒れこんでしまう。
「ぬあっ!!」
……ちょっと抜けた叫びを発した少女に連れの少年達が駆け寄ってくる。
「エマ!?」
「エマさま!!」
「姉様!?」
ハンナは、痛みを堪えながら少女を見て、少年達を見て固まる。
どうみても、庶民ではない。
そもそも王都の商店街にある店を飛び出したのだから、そこにいるのは店で働く者か、商品を買いに来ている貴族かの二択。
倒れた少女は、キラキラ光る長い金髪に、手触りで分かる品質の良いパレス絹の簡易ドレス姿。
駆け寄ってくる少年2人は、少女と同じ金髪に珍しい紫色の瞳。もう1人はそばかすが印象的な茶色の髪と瞳の少年だった。
着ているものも、美しい所作からも明らかに貴族とわかる。
「いてててて……」
一緒に倒れた少女がハンナの方へ顔を上げれば、その頬には大きな傷があった。
「ひっっ!!!!もっ申し訳ございませんっ!!!」
貴族令嬢の顔に傷をつけてしまった。
反射的に謝罪したが、これはもう……死罪確定だ。いや、わたしの命程度では、許してはもらえないだろう。でも、せめて……。
「わたしの命は差し上げますから、どうか、どうか家族は……せめて幼い弟と妹だけでもお救い下さい!」
頭を石畳に擦り付けるように謝る。私を雇ってくれた店主にも罰は及ぶだろうか?
店主は、悪くないのに。
「ふぇ??んー……ん?そんな、ぶつかったくらいで大袈裟な……」
少年達に助け起こされながら、少女はふわふわ柔らかい声で応える。
「いいえ!貴族様の顔に怪我をさせてしまいました!どうか、どうか、わたしの命でなんとかお許し下さい!」
「怪我!?エマさま!!怪我をされたのですか??いっ医者を呼びます!」
そばかすの少年が心配そうに少女に声をかけている。
きっと身分の高い令嬢だったんだ。あんな綺麗な髪見たことがないし、色素の薄い緑色の瞳と言えばどこかの公爵家の色ではなかったか……。
「ん?あーっ大丈夫、大丈夫。顔の傷はもとからよ、カバンがクッションになったから私は無傷よ?」
ふふふとにっこり笑う少女をそれでも少年達は隅々怪我はないか確認している……そんな気配を石畳に頭をつけたままハンナは感じ取る。
やはり、相当な身分の令嬢なのだ。さっきまでの仕事の辛さなんてまだ、天国だったのではないだろうか?ハンナは一瞬で、自分の人生がどん底に落ちてしまったと悟る。
「よし、無傷だな。よかった、エマが怪我したらお父様が面倒くさいからな」
すっとハンナの腕に手が添えられたと思ったら、ぐんっと一気に凄い力で立たせられる。
「君は大丈夫?」
背の高い少年の紫の瞳がハンナを覗き込む。
ハンナだって子供ではないので、それなりに重たいはずなのに、いとも簡単に立たせられたことに驚きつつも、何故この貴族は自分なんかの心配をしているのかと混乱する。
「あっ手を擦りむいているわ!」
ぶつかった少女もハンナの手を見て心配そうな顔をしている。
あっと小さく一声思い出したように、クッションになったと言っていたカバンから一枚ハンカチを取り出す。
何をするのかと思えば、ハンナの擦りむいた手にそのハンカチを当て、手当てしてくれる。
………………!!!!!
このハンカチの滑らかな手触りは…………パレスの…………絹!?
擦り傷の痛みよりも、少し前まで毎日触れていた極上の絹の感触に体が震える。
まさか、そんなわけはあるまいと自分の手に当てられたハンカチを見て、更に恐ろしくなる。
それは、有り得ないくらいの細やかな猫の刺繍が施されていた。
二匹の三毛猫のリアルな模様。黒猫の艶やかな毛並み。白猫のモフモフ感。
その猫達が弄ぶ毛糸の躍動感。
パレス絹に芸術の域まで達している刺繍が施されたハンカチをわたしの擦り傷から滲む血が汚している。
お針子のハンナだから分かるパレス絹の値段。
お針子のハンナだから分かる刺繍の価値。
とんでもない額であろうハンカチが、庶民で、田舎娘の、たった今無職になってしまったハンナなんかの擦り傷に当てられていた。
ふっと目の前が真っ白になる。
そのまま意識がゆっくり、ゆっくり遠退いて行くのに何の抵抗も出来ずに倒れていく。
そう言えば、ここ何日かろくに食べても眠ってもいなかった。
店主は悪くない。