マナーの鬼。
おばあ様のお話。
母は、厳しい人だった。
「ヒルダ、何度言ったらわかるのです?礼の角度が浅すぎます」
公爵家の一人娘であった私は毎日、躾と称した母のヒステリックな言葉に耐え忍んでいた。
一通りの作法を身に付けた後ですら、わざわざ悪いところを探すように目を光らせ、特に礼の角度についての指摘に集中し始めた。
父親は国の重職に就き、帰って来ない方が多いくらいで、使用人達が助けてくれる訳もなく本当に、毎日毎日二人きりの生活が続いた。
何も疑問を持たず、ひたすら母のヒステリーに耐え、時は過ぎ、学園に通う年になった。
選択する授業も全て母に決められ、いいお嫁さんになるための授業だけをひたすら受けていた。
恩師に会ったのは学園3年目の礼儀作法上級の授業であった。
いつまでたっても母の納得する角度の礼すら出来ない私は、それでも上級迄授業を進めることが出来た。
「先生、どうしても礼の角度を間違ってしまうのです。母にいつも叱られて……」
アンヌ先生は、私の長い前髪を耳にかけながら優しく教えて下さった。
「マナーの一番大切なことは、相手のことを考え、不快にさせないように心を配る姿勢ですヒルダ。しかし、人は千差万別、同じ礼をしても美しいと思う人もいれば、不充分だと感じる人もいるでしょう。同じ人でもその日の気分で変わる人もいるかもしれません」
まさに母がそうだった。
朝、礼が浅いと怒られる。夜、朝より深く礼をすると深すぎると怒られる。
翌朝、昨日の間位の礼をすると、また、礼が深すぎると怒られる。これが何年も繰り返されていることに、薄々気付いていたが、母に口答えなど出来ようもない。
ただ黙ってヒステリーが去るのを待ち、やり過ごす。
「あなたは何故言われたことが出来ないの。なんてダメな子なの?私の言うことだけ聞いていればいいの。いつも言っているでしょう、私みたいにしっかりと礼儀作法を身につけなければ、素敵な男性に見初めて貰えないと」
自分は、正しい。
それを信じきった人間が間違ったと認識した者への攻撃は、容赦の無いものだ。例え本当に正しかったとしても、ここまで、こてんぱんにやり込められなければならないものだろうか。
アンヌ先生は、私の心を守る方法も教えて下さった。
鏡の前で色々な角度の礼をしては、分度器を使い測る、を繰り返し一番美しく見える角度を導きだしてくれた。
「ヒルダ、あなたは背が高いから人より深く礼をすると起き上がる時に少し動作が大きく見えてしまいます。なので、今のこの角度がベストでしょう。これからは会釈、礼、臣下の礼はそれぞれこの角度に決めてしまいなさい。それでもお母様に同じ指摘を受けるなら、もう一度私と検証しましょう。お母様の指摘が毎回バラバラなら、このまま変えずに突き通しなさい」
はじめてだった。もしかしたら母の方が間違っているかもしれないと教えてくれた人は。
屋敷の使用人も、たまにしか帰って来ない父親も皆、母の言葉に従って動いた。それが一番、早くヒステリーが終わるからと諦めているのだ。
あれだけ、一生懸命叫び続ける母の言葉は、誰にも届いていなかったのだと知ると、母は母で可哀想な人なのではと思うようになった。
毎日、毎日、母に同じ角度の礼をする。
母の指摘は、毎日、毎日、違う。
自分は母の言うように、礼すらまともに出来ない人間では無いと確信してからは自信がついた。心が軽くなった。
アンヌ先生に手伝ってもらい、一番美しく見える所作の角度全てを測りに測った。
気がついたら、先生と二人きりだった空き教室に、一人、また一人仲間が増えていた。
知らないだけで私と同じ様に苦しんでいる令嬢がたくさん居たのだ。
私の場合は、母だったが、それが父親だったり、家庭教師であったり、行儀見習い先の女主人だったり様々だが、皆、一様に悩み、苦しんでいた。
身長、体重、顔の大きさ、首の長さ、肩幅……何もかも人は人と違う。
その人の一番美しく見える角度を見つける。
これまでずっと曖昧だったものに、ひとつの基準が生まれた。
この角度を身に付ければ、どんなに指摘されようと、自身の心を守ることができる。
それは、自信に繋がり、さらに魅力になる。
私にとって、礼儀作法は自分を守るための武器となった。
結婚し、子供が生まれ、成長するごとに角度を測り武器を持たせてやる。
特に、一番下のメルサは、頭が良く礼儀作法は早くに身に付け角度も自分で見つけるようになった。
メルサは私が学ぶことができなかった、数学、物理、魔物学、経済学、殊更難しいとされ、令嬢には無理だと言われた学園の授業を選択する。
男勝りだと、陰口を言われようとも、出る杭は打たれると忠告されようともメルサは立派な成績を修めていった。
「貴女ほどのマナーに厳しい方がどうして娘に好き勝手させるのです?」
男性優位の貴族社会の中で、心無い質問をしてくる者もいた。
しかし、メルサは早くから礼儀作法を身に付けている。あの子には自分を守る武器を持たせている。それなら、好きにすれば良いのだ。
「女が男より賢いからと言って、マナーが悪いと言うことにはなりません」
私も大概強くなった。
時は流れ、孫の代までになると昔ほど礼儀作法云々言われる事が無くなってきた。親も厳しくしつけるよりも大事なのは愛だと言うのが最近の風潮だ。
そろそろ、爵位も息子に譲り、引退しようかと思い始めた頃、一番下のメルサが娘のエマを連れてやって来た。
「お母様、この子をしつけて下さい。多少……いえ、とことん厳しくお願いします」
メルサは辺境の領に嫁ぎ、孫と初めて会ったのは王都に越してきた数週間ほど前だった。
エマに至っては、顔に傷跡が出来たとかでベールを被っていた。
三兄弟の作法は、最上級ではないがそう悪くもないという印象で、辺境のど田舎で育ったにしてはちゃんとしつけられていた。
「メルサ、落ち着きなさい。どうしたと言うの……!!!」
その日のエマは、ベールを被っていなかった。
初めて見る愛らしい顔に似つかわしくない酷い傷跡が右の頬に刻まれている。私をおずおずと見上げる瞳の色は、他の兄弟と違い、緑色だった。
色素の薄い、透き通った吸い込まれそうな緑。
サリヴァン公爵家の色だ。
目が合うとふにゃりと笑う。メルサやレオナルドと違う、柔らかい穏やかなふんわりとした顔立ちに、小柄でほっそりした華奢な体。
実年齢よりも幼く、頼りなげな雰囲気。酷い傷跡は、成長しても残ったままだろう。
「わかりました。エマは一ヶ月間、学園が終わってからうちに通いなさい。馬車を用意しましょう」
この子には、武器を持たせなければ。
これからこの傷跡を背負って生きて行かねばならぬのなら。
私が、授けて来た中でも最強の武器を。
少し厳しくなるかもしれない。
でも。
その分、傷つくことのないように、出来る限りの装備を揃えてあげたい。
マナーの鬼の引退は少し先になりそうだ。
エマの瞳は、サリヴァン公爵家ゆかりの色。
珍しい色あいで中々、遺伝しないのでヒルダと跡継ぎの息子とメルサとエマしか持っていない色です。
メルサは12人兄弟の末っ子です。