応急処置。
応急処置をすると言っても出来ることは限られている。
「先ずは、出血をなんとかしないと!」
救急キットの中の清潔な布にゲオルグが手を伸ばすがウィリアムに止められる。
「いえ、まずは流さないと。普通の化学熱傷ならこんなに出血することはないのですが……まずは水で血とスライムの体液を流して傷口を確認しましょう」
ウィリアムは狩人達が装備として持っていた水筒もかき集めていた。
水分補給と傷口洗浄を兼ねている装備品の水筒の中には、一度煮沸した水が入っている。
エマの頬に水を流すと、ズルッと溶けた外側の皮膚が剥がれていく。
「にゃー……」
スライムを他の猫達に任せ、コーメイさんがエマの傷のない左側に寄り添う。
エマの右側は真っ赤に染まり、触ると熱い位に熱をもっている反面、左側は血を失ったことにより、蒼白でひんやりしている。コーメイさんはエマの左側を暖めようと傷口に当たらない程度にくっついている。
「にゃー……」
猫の心配そうな鳴き声がエマを呼ぶ。
ゲオルグとウィリアムは、エマの傷に水を丁寧に流し続けている。
狩人達は足りなくなる前に、と王子を守る人員の半分が水を取りに行ってくれた。猫達はスライムが攻撃する度に風圧で蹴散らしていく。
エマの肌は、水が当たるだけでズルズルと剥がれる。皮膚の奥は真っ赤に腫れて、放射状に深い深い傷が刻まれている。スライムの体液が直接当たった箇所なのかもしれない。放射状の線をつなぐ様に少し細い傷も無数にある。ゲオルグがスライムの攻撃を避ける度に動いたので傷が広がったのだろう。
この深い傷が血管を傷付けているのか、水で流しても血が滲み出てくる。
更に頬だけでなく体の方も、ピンセットを使いボロボロになったエマの服を水を流しながら、丁寧に取って行く。
ゲオルグが噛み千切った腕の傷も一度、リボンを解き、流す。
「兄様っ!」
ピンセットを持っていたウィリアムがゲオルグに傷を示す。服の下の傷口は他より酷い。
脇腹からお腹にかけての深い傷は広範囲にあり、出血も多い。こんな傷を負っている妹を抱いて、動きまわることしか出来なかった。
ゲオルグの顔が険しくなる。更に水を流しても深い傷からは止めどなく血が流れる。圧迫止血しようにも周りの肌もグズグズで、布を当てるのすら躊躇われる。
救急キットには、軟膏や消毒液もあるが水だけで剥がれ、崩れていく箇所さえあるエマの肌に使うのは果たして正しいのか。
スライムの体液を受けた時の治療法はまだ確立されていない。出現頻度の少なさに加え、攻撃を受ければほぼ命はないし、死体もスライムに捕食されてしまう。
火傷や化学熱傷を参考に水で熱を持った肌を冷やすのと同時にスライムの体液を洗い流してはみたが、肌の状態を見る限りこの後の治療は、傷口に塩をぬる行為に思えてならない。
「どうしよう……」
ウィリアムは焦っていた。肌の状態が思ったより酷かった。
止血のために、布を当てたとしても布を交換する度に肌が破れるだろう。
でも、止血をしないと本当に死んでしまう。輸血も移植も出来る世界ではない。どろどろに溶けた肌は、戻ってこない。細菌感染も怖い。
もしかしたら、このまま……姉にとっては死んだ方が良いのかもしれない。
でも、姉が死ぬのは耐えられない。自分も、兄も、父も母も耐えられない。どんな姿になってしまっても姉が居なくなるよりは……。
ウィリアムが救急キットの中の布に手を伸ばす。
「姉様、すいません。圧迫止血します。痛いかもしれませんが、物凄く酷い跡になりますが、絶対に助けっ……る……からっ!」
ウィリアムから涙が溢れる。これは自分のわがままだ。もし、助かったとしても姉のこれからは辛いものとなるだろう。
エマの意識はなく、先程からずっとピクリとも動かない。
左側の首に手を当て、微かにある脈と呼吸だけがエマの生存を示していた。
ウィリアムの布を掴んだ手の上に、不意にヴァイオレットが降って来た。
「わっ!ヴァイオレットなんで、急に!?」
片手では支えきれず、両手で蜘蛛を持つ。ずっとゲオルグの頭の上で大人しくしていたのに、エマの応急処置中に邪魔をするなんて。
…………もしかしたら、伝えたいことでもあるのだろうか。
ウィリアムはヴァイオレットの8つの瞳をじっと見つめるが、解からない。
エマ姉様なら、ヴァイオレットの意図を汲むことが出来るのだろうか。
そんな事を考えていた矢先、ヴァイオレットがエマの傷口に向けて紫に輝く糸を吐く。
「ちょっと!!なんて事を!!」
ゲオルグが急いで糸を傷口から取ろうと手を伸ばすが、コーメイさんに止められる。
「にゃー!」
「ちょっと!!あっ!うわっ」
あれよあれよと言う間に、紫に輝く糸はエマの傷口を全部覆い隠してしまった。
コーメイに止められては、物理的にも逆らうことは不可能である。
でも、コーメイならエマに害のあることは許さないだろう。
ヴァイオレットは満足した様子でウィリアムの手から降りてエマに寄り添う。
「蜘蛛の糸で……止血??」
今まで聞いたこともないが、あれだけ流れていた血は止まっているようで紫の蜘蛛の糸から血が流れることは無さそうだった。ヴァイオレットがふんわりと上から優しく吐いた糸は、不思議とエマの傷口にフィットして、圧迫しなくても止血の役割を果たしている。原理とか理屈とか全くわからないが。
そっとエマを覆う蜘蛛の糸を触るとひんやりと冷たい。
以前、エマはヴァイオレットはTPOを弁え、その時々で相応しい糸を使い分けていると熱弁していた。話半分くらいに聞いていたが、確かに男達を拘束していた糸と、エマの傷口を覆っている糸は別物だった。
「ヴァイオレットとコーメイさんを信じよう」
ゲオルグの言葉にうなずきながら、ウィリアムが一枚上着を脱ぎ、エマにかける。もうここで出来ることはない。
「兄様の腕も流しましょう」
そう言ってゲオルグの血に染まった両手に水をかけていく。
不思議そうな顔でウィリアムを見るが、段々と両手がピリピリと痛みだした。エマの血にもスライムの体液が混ざりゲオルグの両手もエマ程ではないが、赤くなっていた。
ずっと緊張していたので気が付かなかった。口の中も結構痛いことにも気づいて口も濯ぐ。
コーメイさんがシャーッ!と威嚇するのが聞こえて、振り向くと王子が近くまで来ていた。
コーメイさんに多少ビクついてはいたが、先程の狩人の様に尻餅つくことなく、一歩だけ下がりゲオルグとウィリアムを見ている。
「何故、エマを避難させない?応急処置は終わったんだろう?」
こんな地面でなく、ベッドに。応急処置だけでなく医師の治療を。
王子が言いたいことはわかる。しかし、
「エマ姉様は未だにスライムの捕食対象です。ここから離す事は出来ません」
ウィリアムが丁寧にゲオルグの両手を水で流しながら答える。
「スライムは猫……?がいるから大丈夫ではないのか?」
王子が急かすように尋ねる。
そもそも、避難させられるものなら、逃げきれるのならば苦労していない。
出来るなら先ず、狩人達が率先して王子を逃がしている。
「捕食対象が一定の距離以上離れた場合、スライムは捕食対象を広域で探せる様に分裂するか、見つけられないなら自爆します」
王子の表情が歪む。
ただの水溜まりと侮った魔物は、倒せない、逃げられない、増殖する。猫?の隙間から見えるエマは応急処置だけで済む様な怪我ではない。未だに八方塞がりなのだった。猫?が攻撃を防いでくれているだけで、エマを本当に救うことは出来ないのだ。自分はなんて無知なんだ。知識が無いことは、こんなに恐ろしい事なのか。好きな女の子一人、何もしてあげられない。
それに助かったとしても、もう、エマの顔は、体は……。
悔し涙が一筋頬に道を作る。絞り出す様に低く唸る。
「それでもエマを助けたい……」
ヴァイオレットがゲオルグの両手にも蜘蛛の糸を吐く。
炎症を起こした両手にひんやりとした感触が心地良い。
この中でエマを助けたくない者なんていない。でも、知っているのだ。
「分裂すると言っても二つや三つでも十や二十でもないんです」
スライムが捕食対象を見失うと分裂するのは、億単位である。
個体はそれなりに小さくなるが、億のうちどれかが捕食対象を見つける迄、億の個体は成長し、分裂し続ける。スライム三匹ですらこんなに大変なのに、億まで増えられて、数億のスライムに自爆なんてされれば国が滅ぶ。
遠い昔から、伝えられてきた知識は、どこかで実際にあった悲劇。
遠い昔にどこかで滅びた国の人々が伝えた悲劇。
猫達もスライムの攻撃を防ぐことは出来るが、倒すことが出来ない。
物理攻撃ではスライムは倒せない。
唯一の希望は、パレスにあるエマの塩酸だが、何本ものビネガーを吸収したスライムも、今は動きを取り戻している。エマの肌の惨状を見る限り、中和するにも相当な量が必要になりそうだった。スライムは三匹に増えている。エマが作った塩酸は足りるのだろうか?そもそも効くのだろうか?
王子は知らないかもしれない。スライムを倒すことでしか、エマだけでなく、ゲオルグも王子も生きる道はないことを。
王子が肩を落とす。スライムは倒せない。狩人達が口々に言っていた。攻撃を防いでいる今の状態ですら奇跡なのだと。
コーメイがエマの左側の頬を優しく舐めている。ピクっとエマの体が小さく痙攣した。
「……うっ……おかあ……さ……ん」
エマの意識が戻ったのか、母親を呼んでいた。メルサではなく、頼子の方の呼び方で。
「姉様!!」
ウィリアムが必死に呼び掛ける。
覗き込むと、確りとした緑色の瞳があった。痛みを堪えてエマは必死で何かを伝えようとしている。
ゲオルグもウィリアムもエマの言葉に耳を傾ける。
「お……か……あさ……ん。………め……っつ……っくじ」
唇を動かす度に、痛そうに、顔をしかめ、それでもまた、口を開く。
聞き逃さないように、唇の動きも読みながらエマの伝えたいことを推測していく。
「……った……しん……と……あ……つっ」
「すら……む……しっ……おっ」
小さな、小さな声。途切れ途切れで、精一杯。ウィリアムもゲオルグも懸命に聞き取り、推測するが中々わからない。
「し……っおっ……」
エマは、左手で弱々しくウィリアムの手を握り、何度も何度も伝えようと唇を動かす。
「エマ……わからない、何を?何が?言いたい!?」
ゲオルグがエマの頭を撫でながら必死で聞き取ろうとするが、わからない。
口を開ける度に辛そうなのに、痛そうなのに、それでも伝えようとするエマの頭を撫でることしか出来ない。
ウィリアムはぶつぶつとエマの言葉を何度も反芻している。
おかあさん
めつくじ
たしんとあつ
すらむ
しお
………!!
「え!?ちょっ!!姉様!?まさか?え!!?こんな?」
ウィリアムがエマを見ると、エマもウィリアムを見て頷く。
「………す……いむ……たおっ……しっお!」
エマの言葉を聞いて、ウィリアムが走り出す。
「狩人の人達!!手伝って下さい!!スライム倒せるかもしれません!」