絶体絶命。
「ヤドヴィも遊ぶー!」
先程から隣の女湯からヤドヴィガのはしゃいだ声が聞こえてくる。
「隣は楽しそうですね」
ウィリアムが頭に付いた泡を流しながら話しかけてくる。
「そうだな」
恋が芽生えて数時間後、一枚壁を隔てての入浴となったが相手はまだまだ11歳の女の子。ヤドヴィガと温泉で遊んでいる光景が目に浮かび微笑ましく、エドワードも柔らかい表情で湯に浸かる。
「ちょっっヤドヴィ!くすぐったい!」
エマの声が聞こえるだけで心臓がトクンと大きく跳ねる。
こんなこと今まで一度も経験したことがない。お茶会も社交界も幾度となく出席したし、王子自身も綺麗だと思える女の子と体を密着し、ダンスしたことだって何度もある。なのに、この心臓は今日初めて動き出したかの様にぎこちなく、跳ねる。
「お母しゃま!!エマちゃんすべすべー!」
決して聞き耳を立てている訳でもないが、テンションの上がったヤドヴィガの声は良く通る。しかも、話題がエマとなると自然と意識が向いてしまう。
エマ……すべすべ?
「え?ちょっと触らせて!」
少し興奮気味の母の声も聞こえて来た。
「ちょっそこは!ダメだって!」
一際大きく、余裕を無くし、切羽詰まったエマの声が聞こえた。
……そこって……どこだ?
これだけの事で心臓が暴走し始める。長い距離を思いっきり全速力で走った直後かと思う程に鼓動が早くなり、体の中から心臓の音が響いてうるさい。エマ……そこってどこだ!?
「エマちゃん。なんなのこのすべすべは!?温泉を差し引いてもずっと触ってたいくらいの……なんなのこのすべすべは!?」
エマ……すべすべ。ずっと触っていたい。エマ……すべすべ。
母からの情報が頭の中をぐるぐる回る。ゲオルグとウィリアムは聞こえていないのか、何やら今日の夕食について楽しそうに話している。
「ローちゃん!ちょっと声のボリューム絞ろうか?っひゃっ!!ちょっとそんなトコ……やめっひんっダメだって!」
たかだか11歳の少女とは思えない……なんと言うか凄く……凄く色っぽい声がたった一枚の、壁の向こうから聞こえてくる。
だから、そんなトコってどこだ!?母は一体どこを触っているんだ!?
頭の中が、邪な想像で支配されそうになる。
そもそも、「ひゃっ」とか「ひんっ」とかもう可愛すぎだろう?
どこを触ったらそんな声出るんだ!?どこを……なんて自分は何を考えてっ
…………いや忘れろ!忘れるんだ!今の会話すべて、忘れるんだ!
…………。
…………。
エマはすべすべで、ずっと触っていたくて、「ひゃっ」で「ひんっ」でダメ……。
数時間前のエマの笑顔まで思い出し、更に更に動悸が激しく顔に血が上っていく。
結局、王子はブクブクとそのまま湯の中に潜り(沈み?)、数十秒後にゲオルグとウィリアムに救出される事態となった。
それでも王子は、女湯よりは早く風呂から上がり、火照った顔も冷め、動悸も随分マシになったことに安堵しつつ、しっかりゲオルグとウィリアムにもさっきの醜態の口止めをした。
2人の生ぬるい視線が痛かったが黙っていてくれると約束してくれた。
なのに、風呂上がりのほかほかのつるんとしたエマの頬っぺたを見た瞬間、抑えた筈の邪な想像がぶわぁと甦る。
「殿下?顔が赤いですよ。大丈夫ですか?のぼせちゃいました?」
エマが心配そうに王子の顔を覗き込む。
とは言っても王子の方が幾らか背が高いので絶妙な角度の上目遣いになっている。濡れた髪を耳にかけながら、心配そうに少し潤んだ緑色の瞳が真っ直ぐ王子を見てくる。ギュンと心臓が収縮した。
「だっ大丈夫だ。問題ない」
たった二言しか発することが出来ず、そのまま勢い良く目を逸らしてしまう。
他国の要人にだって緊張する事なく対応出来る筈の自分がエマに対してだけ、しどろもどろにしか話せない。
もどかしい。恥ずかしい。情けない。
「大丈夫なら、よかったです」
そう言ってふわっと笑うエマを見て、もどかしくても、恥ずかしくても、情けなくても、やっぱり好きだと実感する。
こんな短時間で自分の心はエマを中心に浮上したり下降したりを繰り返す。この笑顔のためなら何でもしてあげたくなってしまう。
それなのに……。
魔物から離れ、避難指示を出しているとバレリー領の狩人が集まってきた。
局地的結界ハザードの出現した場所までの案内をかって出る。母も狩人達も口々に反対したが、危なくない所で引き返すからと無理やり歩きだす。
この時の自分の危機感の無さに後で後悔する事になる。
局地的結界ハザードから出てきた魔物は昨日、パラパラと見た本の中の絵に比べて全く強そうに見えなかった。
言ってみればただの水溜まり。ウィリアムはスライムと呼んでいたが、水溜まりは水溜まりだ。
三兄弟が魔物を見た瞬間に臨戦態勢を取った姿に気圧され不本意ながら彼らに従ったが、自分も剣なら腕に覚えがある。
王都に居た時は毎日欠かさず屈強な騎士に手解きを受けていたし、集まった狩人達は鍛えているのは見受けられるが、王都の騎士に比べれば些か細身で頼りなく感じた。
装備もあの程度の魔物に大袈裟ではないかとも思う重装備で、盾や剣も人数分以上持っている。
狩人から一振りの剣を借り、三兄弟の元へ急ぐ。
遠目で、ゲオルグとウィリアムの姿が見えたところで引き返そうとしたが、エマがいなかった。
狩人達が引き返して下さいと何度も言って来たが、エマを確認するまではと無理に歩を進める。
もう少し見える距離まで近づいてみると、エマはゲオルグに抱えられていた。
ざわっと体が泡立つ。何があった?エマに何が?
それからは何も考えず動いてしまった。
「こっちだ!!早くしろ!!」
狩人を急かし、夢中でエマに向かって走る。
途中、ウィリアムに止められるが、振り切ってひたすら走る。
「エマ!?何があった?エマ!エマ!?」
エマの意識はなく、右側の半身が血塗れになっている。
生きて……いるのか?エマを抱くゲオルグの腕も服も真っ赤に染まり、溶けたように見える地面にも少なくない量の血液が広範囲に点在している。
この血液全部、エマのだと言うのか……?
「王子!スライムが来ます!避けて!」
ゲオルグが叫ぶのと同時にさっきの水溜まりが信じられない位のスピードで突進してくる。
思わず手が出た。剣を毎日稽古していた時の反復練習の賜物で、反射的にゲオルグに向かう水溜まりを切る。
魔物は大した手応えもなく、真っ二つに分かれる。
「なんてことを!!」
ウィリアムの叫び声とゲオルグの舌打ちが聞こえ、自分を守るようにゲオルグが前に来る。真っ二つにした水溜まりはダメージを全く受けず、2つに分裂し、個々に動き始めた。
「なっ!切っても死なないだと?」
自分が失敗したことに気付く。
水溜まりを切った剣は刃先を中心に溶けていた。
それから真っ二つに切った水溜まりの片方が、執拗に自分を狙い攻撃してくる様になった。狩人達が懸命に守ってくれるが、多すぎると思っていた盾も攻撃を受ける度に溶け、残り少なくなっている。
確実に、自分が水溜まりを切ったことで状況が悪化していた。
ウィリアムの制止も狩人達の声も聞こえていたのにどうしてあの時、従えなかった?あの時引き返してさえいれば。
後悔が押し寄せるが水溜まりの攻撃は早く、その上、狩人達の重装備だと思っていた鎧など簡単に溶けてゆく。反省や、謝罪の言葉すら伝える間もなくたった一匹の水溜まりから必死で逃げる。
この水溜まりをゲオルグはエマを抱え、二匹相手に攻撃をかわし続けていた。そのスピードを目で追うことすら難しく、狩人達からも驚きの声が聞こえてくる。ただ、ゲオルグが動く度にエマの血が舞う。
エマを助けたいのに、何も出来ない。二匹を相手にしているゲオルグよりもこちらの方が劣勢なのだから。盾を使いきれば、狩人も自分も攻撃を防ぐ術がない。
八方塞がりだ…………。
二匹の水溜まりが同時にゲオルグに向かい、水鉄砲を撃ち出した。小さい方は撃てないと思っていたが違ったらしい。
こちらの方はやっと水鉄砲が収まり、体当たりに切り替わる。水鉄砲は法則性があり、5発撃ったら暫く撃てなくなるようだった。
体当たりだけなら少し余裕ができるため、ゲオルグの方へ目をやるとバランスを崩したのか膝をついている。
早く立たないと危険だ。 水鉄砲の的になってしまう。
「ゲオルグ!!っうわっ!!」
咄嗟にゲオルグを呼ぶと同時に急な突風が吹き、顔を庇う。
ビュンと吹いたかと思うと直ぐにピタリと止んだ。一体何だったんだ……と一帯を見回し、自分の目を疑う。
その突風は新たな魔物の出現であった。
水溜まりとは違う大きな実体のある獣のような魔物。
バランスを崩して動けないでいるゲオルグの真後ろに荒い息遣いで今にも襲いかからんと前足を上げる。
ゲオルグの意識は二匹の水溜まりに向いていて後ろの魔物に気付いていない。
王子と狩人達に絶望を与えるに、十分な光景であった。
八方塞がりと言うより絶体絶命である。
「ゲオルグ!後ろだ!頼む逃げてくれ!!」
王子の悲痛な叫びは多分間に合わない。