表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
田中家、転生する。  作者: 猪口
スチュワート家と帝国の暗躍
188/198

際限のない沼。

誤字、脱字報告に感謝いたします。

「な、なぁ……。お前、大丈夫なのか?」


インク瓶の上にちょこんと座る親指大の魔法使いが、少年に尋ねる。


「何が?」


大量の書類を信じられない速さで処理しながら短く答えた少年は、ギュッと目頭を押さえて、再び書類に目線を戻す。


「お前、この四日間……ほとんど寝てないよな?」


捕まってからうっかり少年の胸ポケットに収納されたまま一夜を過ごした親指大の魔法使いは、そのままなんとなくこの少年の側に置かれていた。


そのうっかりのお陰で、ウデムシ達の心尽くしのおもてなしから逃れることができたことを、彼はまだ知らない。


「おや? ……心配してくれているのですか?」


「べ、別に……でも」


親指大の魔法使いは、大きく首を横に振る。


帝国の侵略計画を尽く邪魔してくれた少年は、ヨシュアと言う名で豪商ロートシルト商会の跡取り息子らしい。


帝国からすれば憎き敵である。


だが、憎き敵といっても、まだ彼は少年で……そう、まだ子どもなのだ。


親指大の魔法使いは、親指大の大きさしかないが、とっくの昔に成人している大人である。


インク瓶の上からぐるりと見渡すだけでも、書類の山がいくつも積み上がっており、机に乗り切らずに溢れたものが、ソファや棚の上にまで山を作っていた。


この全てに目を通さなくてはならないらしい。


少年の仕事量は到底一人の人間がこなせる量ではなく、どう見ても働き過ぎだった。


学園に通いながら商会の仕事をする以外にも、今回の帝国の侵略についての情報収集までも同時進行で行っている。


少年は、ずっと働いていた。


親指大の魔法使いは、この四日間で少年が寝ているのを見たことがない。


「旦那〜! そろそろ時間ですぜ?」


さすがに心配になり、人生の先輩として少し休んだ方がいいと説教しようとした時、ノックも無しにロートシルト商会の従業員が扉を開けて入ってきた。


カルロスという、軟派で派手な男だ。


真面目に生きてきた親指大の魔法使いは、こういうチャラチャラした女の尻を追いかけていそうな男は、好きではない。


だが、チャラチャラしているようでいて、ヨシュアと同じくらい彼もまた、働いていたのである。


この商会で働く者は皆そうだ。


どうやら王国にある商会はどこも、綿不足で大打撃を受けているらしかった。


特に、王国で一番大きいロートシルト商会への風当たりは酷いようで、三階にある少年の私室にまで、客の怒号が聞こえてくることもあった。


長年、帝国の独壇場だった綿市場は、魔石が枯渇したために崩壊したと言ってもいい。

今年は帝国内の需要を満たすことも難しいくらいの量しか綿は育たなかったと聞いている。


帝国が綿密に計画して仕掛けた侵略計画より、王国にとっては綿不作のダメージの方が大きいなんて皮肉な話であった。


王国が侵略を回避しても、帝国の綿はもう手に入らないだろう。


来年、再来年、と時が経つにつれ、まだ残っている魔石に貯めた魔法も枯渇し、減ることはあっても増える見込みはないのだ。


帝国に富をもたらしたあの綿を効率よく育てる魔法は、元農民だったフアン様が編み出した特別な魔法である。


あの魔法は、フアン様しかできない。


フアン様、もといフアナ様が王国に拘束されている以上、魔石を何らかの方法で手に入れたとしても、帝国の綿産業は衰退するしかないのだと、親指大の魔法使いは知っている。


今後の展開が分かるだけに、身を粉にして働く目の前の少年を見る度に、心苦しく、やるせない気持ちになった。


「よし、行きましょう」


「!?」


そんな過酷な状況の最中であるにもかかわらず、少年はとても元気な声で立ち上がる。


見れば、少年の右側に積まれた書類が、親指大の魔法使いが考え事をしている間に左側に移動していた。


カルロスが声をかけた瞬間に、少年の書類を捌くスピードが爆速に上がったとしか思えない状況に、親指大の魔法使いは少年の行き先に見当をつける。


もう、四日も一緒にいれば分かる。

こういう時の少年が、どこに行くのかを。


♦ ♦ ♦


「ふぇっ、ふぇっ、ぶぇっくしょおん!

っうぇい~……」


「ちょっとっ! 姉様、今のはさすがに令嬢としてどうかと……」


「おっさんかよ……」


エマの大きなクシャミにウィリアムとゲオルグが嫌そうな顔で注意する。


「何よ、自分の家でくらい好きにクシャミさせてほしいわ」


エマは不服そうに頬を膨らませる。

やろうと思えば、プキュンとかクチュンとか可愛くクシャミできない事もないが、それではなんだかスッキリしないのだ。


「にゃーん!」


先導するように庭を歩いていた黒猫のかんちゃんが、早く遊ぼうと三兄弟を呼ぶ。


王都に戻って四日目、スチュワート家では、やっと猫達と遊ぶ時間が取れるくらいに落ち着いてきた。


課外授業から帰ってからというもの、速攻でフアナの話を訊いたり、王城から使者が来たりでバタバタしていたのだ。


「うわっ……これ……一体、何発分あるんだ?」


ゲオルグがかんちゃんに促されて、オワッタワーの扉を開けると、ガラガラと真っ黒に焦げた砲弾の成れの果てが崩れ落ちてきた。


「にゃあ~ん♪」


「ああッ……チョーちゃん、お手々汚れるっ」


真っ白な前足を、チョーちゃんが躊躇なくオワッタワーの入口につっこんで掘り掘りし始める。


「ヨシュアには聞いていたけど、本当にうちの子達が、砲撃を防いだみたいね?」


「にゃあ~」


エマはすごいねぇー? と感心してリューちゃんを見上げる。

リューちゃんは、ウデムシ達も一緒にやったのよ、とエマに教えてくれる。


「「にゃっふーん! にゃーにゃ!」」


かんちゃんとチョーちゃんは、あれ楽しかったから、また飛んでこないかなぁ……なんて物騒なことを言い出している。


王都は、帝国の陰謀により港に停泊した船からの砲撃で火の海になるはずであった。


それをスチュワート家のお留守番猫達が、全部オワッタワーに打ち落として回収したために事なきを得たのだと、三兄弟はヨシュアから聞いたのが昨日のことであった。


学園で……。


「えっ? そんな方法があったの?」


「えっ?」


砲撃の話を聞いた三兄弟が驚く様子に、話をした側であるヨシュアもなぜか驚いていた。


ヨシュアは、スチュワート家が砲撃の可能性を踏まえて、あの猫の遊具を注文したと思っていたと言うが、そんなことスチュワート家の誰も考えてはいなかった。


「いや、あの頃は僕ら帝国が攻撃してくるとか何も知りませんでしたよ?」


「そうそう、だって皇国から帰ったばっかりだったし……」


「フアナ様が帝国の人だってのも、この前知ったばっかりだしなー?」


うんうんとゲオルグの言葉にエマとウィリアムが頷く。


世界の情報が集まるヨシュアと違って、ただのほほんと日々を送る三兄弟は何も知らなかった。


「で、では……あの遊具は……本当に遊具として……発注を?」


そんな偶然って……ある?

と、何気に王都壊滅一歩手前だったのでは……と、ショックを受けるヨシュアに、エマがあの遊具は別のことに使おうとしていたと答える。


「んー……。ちょっと思いついたことがあったから作ってもらったんだけど……。そろそろやってみてもいいかもしれない。あ、明日の授業は午前中で終わるから、お昼から試しにやってみる?」


魔物学の課外授業に参加した生徒がまだ帰って来ていないので、明日の授業は午前中で終わることになっていた。


「はい! では明日、午後お伺いしますね!」


エマのお誘いとあって、ヨシュアは二つ返事で了承する。


何をするかとかはどうでも良い。


エマに会えることが重要なのだから。


♦ ♦ ♦


「うわわ……! チョーちゃーん!」


ウィリアムが声を上げる。


「うにゃ~」


エマの思いついたことをするには、まずはオワッタワーの中の掃除をしなくてはならないと、猫の手を借りて中の砲弾の成れの果てを全て掻き出したまでは良かったが……。


「あはは、チョーちゃんがフサフサのかんちゃんになってるー!」


エマがチョーちゃんの姿を見てキャッキャと笑う。

オワッタワーの中に入ってゴロゴロしたチョーちゃんが真っ黒になって出てきたのだ。


「チョーちゃん、後で風呂だからな?」


「ぬにゃ!?」


ゲオルグの言葉にチョーちゃんが嫌そうな顔をする。


「にゃっにゃーん!」


オワッタワーの中から首だけ出して、かんちゃんが、キレイにしてもらうにゃーん! とチョーちゃんにいたずらっぽく鳴いたが、


「いや、かんちゃんも毛が黒くて分かりづらいだけで、汚れてるからもちろん一緒にお風呂ですよ?」


「ぬにゃにゃ!?」


すかさずウィリアムにお風呂宣言されてしまう。

かんちゃんはチョーちゃんと同じ嫌そうな顔をして、しょんぼりとオワッタワーから出る。


「うわっ! 黒いの増えてるぅ~」


そこへ、こちらへ向かって歩いてくるカルロスの声が聞こえてきた。


「さすが、ヨシュア達。時間ピッタリですね」


ウィリアムは時間通りスチュワート邸を訪れたヨシュアとカルロスに手を振って迎える。


「エマ様、本日はお招きありがとうございます!」


「ヨシュア、いらっしゃい! ばっちり準備できてるよ!」


チョーちゃんの長い毛が、オワッタワーの中をピカピカに拭き上げてくれたお陰で、思いの外早く掃除が終わり、実験の準備が整っていた。


「あの姉様、これから一体何が始まるのですか?」


そびえ立つオワッタワーを前に、ウィリアムが嫌な予感しかしないのですが、と姉に事前説明を求める。


「え? ウィリアム様も知らないのですか?」


不思議そうにするヨシュアに、ゲオルグが肩を竦める。


「今日何をするかは、エマしか知らないんだよ」


今からやろうとしているのは、エマの頭の中だけで考え、思いついた実験なので、兄弟も何をするのか知らされていなかった。


「うーん……。多分イケると思うのだけど、期待させ過ぎちゃうとうまくいかなかった時にがっかりしちゃうから……」


うーん、と少し考えた後でエマがウインクする。

今からやるのはあくまでも実験なので、上手くいく確証はないのだ。


「ううっ!」


そんな誤魔化しついでのエマのウインクに、ときめいているヨシュアの後ろで、兄弟がなんとも不安そうな表情を隠せずにいた。


「いや、エマ。違う、俺らは期待ではなく心配をしているんだ」


巻き込まれるのは自分達だけで十分だ、とゲオルグはさっと周りに人がいないことを確認する。


「いや、姉様! お願いします! 先に教えてください! こっ心の準備をさせてくださいっ!」


ウィリアムの弟としての経験が、今日のはなんとなくヤバいぞ、と警鐘を鳴らしていた。


姉の突拍子も無い行動は、いつだって心臓に悪い上に、後で大体怒られるのだ。


ズ………ズ……ズ……。


カサカサ!


ズ……ズズッ……ズ……。


カサカサ!


「ん? うわぁ! で、出たぁ!」


背後から不穏な音が聞こえ、振り向いたカルロスが叫ぶ。


「! な、ななななななな……何アレぇぇ!?」


そして、カルロスの胸ポケットから何事かと顔を出した親指大の魔法使いも腰を抜かして叫んでいる。


二人の視線の先にいたのは、スチュワート家のアイドル、ウデムシ達である。


彼らは見事な隊列を組んでこちらに向かってきていた。


「あ! うっくーん、こっちこっち!」


カサカサ!


エマの呼ぶ声にウデムシ達が嬉しそうに第一歩脚を左右に振って挨拶し、進軍スピードを上げた。


「何あれ? 何あれ、何あれ、何あれ??」


親指大の魔法使いは、迫り来るウデムシ達に恐怖する。

遠目に見てもデカ過ぎる。


「あれはエマ様のお気に入りの虫です。とても温厚な性格なので大丈夫ですよ?」


カルロスの胸ポケットの中で、ガタガタ震える親指大の魔法使いにヨシュアが心配ないと伝え、カルロスにもそろそろ慣れろと肩を竦める。


「虫? むし? いや、デカすぎんだろ? 魔物じゃないのか?」


「スチュワート家で育つとたまに巨大化することがあるんです。ほら、猫達と一緒です」


ヨシュアは努めて冷静に、さもこれが普通であるかのように答えた。


数日前に猫との対面は終えていた親指大の魔法使いだが、虫となると話が違ってくるようで、なかなかの動揺ぶりである。


「猫は可愛いからいいんだよ! 猫はァ! 初めて見た時はびっくりしたけど可愛いからぁ! そうじゃなくて、なんだよアレはぁー!」


親指大の魔法使いは、声を荒らげる。

猫がでかいのと虫がでかいのでは、彼にとっては天と地程の差があるらしかった。


目の前の巨大虫群は、親指大のサイズに縮んでから、初めてゴキブリと対面した時以上の衝撃だったし、一つ気になることが頭に浮かんでいた。


ところで、あの虫。

なんだかどこかで見たことがあるような気がするぞ……?


「き、気のせいか?」


なんだか見覚えのあるフォルムの虫に、親指大の魔法使いは引っ掛かるものを感じたが、すぐに考えることを止めた。


帝国の国宝扱いの特効薬の原料の虫と、似ているだなんて口が裂けても言えない。


これ以上は、いけない。

世の中には、知らない方がいいことがたくさんあるのだから。


「あれ、ヨシュア。魔法使いさんも連れて来てたんだな?」


ゲオルグが、親指大の魔法使いが入ったカルロスの胸ポケットを覗き込む。


この小さな魔法使いのことは、フアナの希望を聞き入れ、王城には伏せていた。


「あ、こんにちはぁぁぁああ!?」


王国伯爵家の跡取りであるゲオルグに、挨拶くらいはしっかりせねばと、親指大の魔法使いは隠れていた胸ポケットから顔を出したまでは良かったのだが……。


その伯爵家の息子さんの後ろで、この世のものとは思えないおぞましい光景が繰り広げられていることに気づいてしまった。


「よしよし、ふふふ。うっくんは可愛いねぇ?」


カサカサ!


そう、巨大虫と美少女が戯れる姿である。

美少女が、巨大な虫を恐れるどころか嬉しそうに撫で撫でしたり、ハグしたり、頬擦りしたりしているのである。


もう一度言おう、巨大な虫を相手にである。


「なんか、改めてこう、ここまで叫ばれると新鮮だな?」


皇国以来か? とゲオルグ。


「僕達この光景、いつの間にか見慣れてしまってたんですね……」


皇国以来ですね、とウィリアム。


小さい以外は、割とまともな親指大の魔法使いが絶叫する姿に、ゲオルグとウィリアムは苦笑する。


もう、普通とはかけ離れた世界で生きているのに、三兄弟はまだ、自分達を平凡だと思っている節があった。


「うっくん達、おつかいありがとうね! 重かったでしょう?」


カサカサ!


当のエマは気にせずに、ニコニコでウデムシ達を労っている。


ウデムシはウデムシで、ご主人様との久しぶりの触れ合いにカサカサ嬉しそうに第一歩脚を振り上げ、ご機嫌な様子で甘えていた。


「よし、では兄様。さっそくこれをあそこにセットしてくれる?」


「ん?」


エマがウデムシが持ってきたものを指差して、ゲオルグを見る。


「あそこに置けば良いのか? お? よっと!」


「あっ! これってもしかして……」


筋肉ゴリラのゲオルグが珍しく踏ん張って持ち上げたそれを見て、ウィリアムはウデムシ達が運んできた物が何かを察した。


「ふふふ。オワタの蒴果よ!」


なぜか少しだけ得意気にエマが笑って答える。


皇国を滅亡の危機にまで追い込んだ植物魔物、オワタの蒴果がゲオルグの手により、シーソーみたいな遊具の片方に載せられている。


皇国から一家が持ち帰ったオワタの残骸は、とても丈夫なレンガの素材としてスチュワート家の領地であるスラム街やパレスに送って、有効利用していた。


シーソーみたいな遊具の板部分や、すぐそこに不自然にそびえ立っている、通称オワッタワーにもしっかり使われていたが、残骸の中でこの蒴果だけはレンガには加工できず、スチュワート家に大量に保管されたままになっていた。


種を内包する蒴果は、土に触れたら発芽の危険があるために皇国で全力で忌避されていた。


頼むから、これだけは残らず持って帰ってほしいと懇願された一品であった。


「「にゃ!!」」


シーソーみたいな遊具に蒴果が載せられたのを見て、かんちゃんとチョーちゃんが、キラキラ目を輝かせる。


二匹は蒴果をじっと見つめたまま、体を伏せてお尻をふりふりと揺らし始めている。


完全に獲物を狙うにゃんこのポーズである。


「にゃ! にゃ!」


「にゃ! にゃ!」


二匹とも、早く! 早く! と母猫リューちゃんに鳴いておねだりしている。


「にゃ?」


遊んでやってもいいかしら? と、息子達のおねだりに、リューちゃんはエマに確認し、


「うん、いいよ!」


と、エマの許可を得ると、リューちゃんは前脚でシーソーみたいな遊具の反対側を勢いよく踏みつけた。


ガコンッ!


あの、重いオワタの蒴果が反動で嘘みたいに簡単に、天高く投げ出される。


「「にゃっ!」」


すかさず高く跳び上がった蒴果を追って、かんちゃんとリューちゃんが、隣にあるトランポリンのような遊具へジャンプして、更に上に跳び上がる。


「「にゃにゃっにゃ、にゃんにゃーわん!!」」


アタック、ニャンバーワン!! と、おなじみ超強力スパイクを二匹同時に蒴果にお見舞いする。


「わっ!」


「おお!」


ウィリアムとゲオルグは、兄弟猫の迫力のダブルアタックにカッコいい! とテンションを上げ、


「あれ? 今、わんって?」


エマは最後のワン! に、あれ? っと首を傾げる。


「「っ! ぎゃー!」」


カルロスと親指大の魔法使いは、反射的に揃って頭を覆った。


当たったらタダでは済まないのが、簡単に予想できて叫ばずにはいられなかったのである。


二人は次なる衝撃に備え頭を守って蹲る。


「「……?」」


が、身構えた割に、何も起こらなかった。

絶対に聞こえるであろう地面に蒴果が落下した音も聞こえず、衝撃も何もなかったのだ。


「「ぶ、無事?」」


そおっと二人が目を開けると、蒴果が落ちた形跡はどこにも見当たらない。


「「にゃにゃー、にゃにゃったにゃー!」」


「「???」」


ちゃんとオワッタワーに落としたから問題ないとかんちゃんとチョーちゃんが鳴く。


「すごい……。大砲もこうやって処理してくれたのですね! 王都に住む人達が誰も気づかなかったのも頷けます」


ヨシュアがパチパチと拍手する。

遊具を納品した時から予想した通りの動きであったが、オワッタワーの防音効果にはヨシュアも驚いた。

オワッタワーの中に落とされた蒴果は、うんともすんとも言わなかった。


王都に住む人々が帝国から攻撃されたことにも気づかず、平穏に生活ができているのもオワッタワーの防音効果のお陰であった。


誰も気づくことがなかったので、攻撃前と後で、臣民の帝国に対するイメージは全く変化していない。


そのお陰で帝国への損害賠償要求の選択肢がどれだけ広がることか。


「いくらか防音できるかなって思ってたけど、ここまでとは思わなかった」


エマも思ったよりよくできている、と感心している。


その程度の心許ない憶測で思いついたことを、躊躇なくやってしまうのが騒動の元凶たる所以だったりするが、本人に反省の色は見えない。

まあ、その後は大体怒られるのだが、その時は兄弟道連れである。


「で? これで、なにが起きるんですか?」


ウィリアムが結局心の準備をさせてくれないまま、おっ始めた姉を恨めしげに見る。

ここで無事に終わるはずがないと、既にウィリアムは確信していた。


「少し待って、ほら蒴果って落ちてから弾けるまでに……時間差があるから」


そう言って、エマがオワッタワーを見上げて待ちの体勢になった時、


「にゃー!」


「ん、危ないって? どうしたの? コーメイさん」


さっきまで孫達(かんちゃん&チョーちゃん)が遊んでいるのを、のんびり顔を洗いながら見ていたコーメイが、エマの体に巻き付いてきた。


「まさか中で……種が発芽したとか?」


ゲオルグが誰よりも前に出て、オワッタワーを見上げて警戒する。


「にゃー」


「ん? 少し離れたほうがいい?」


エマがコーメイの猫語を通訳する。


「にゃん!」


「エマ様、では、もう少しこちらに……」


コーメイの忠告に従って、ヨシュアがエマの手を引いて、オワッタワーから距離をとる。


魔物相手に油断してはならないのは、辺境パレスに住む者ならば皆、心得ていた。


「え……何、この突然の緊張感……」


空気がピリつくほどの急な警戒体勢に戸惑いながら、カルロスも後退りしてオワッタワーから離れておく。


「なんだ? 何が起こるんだ?」


親指大の魔法使いも、カルロスの胸のポケットの中で戸惑っている。


そこへ、


ズンッと、大地が短く揺れた。


「「「!!!!!」」」


と、思った瞬間、オワッタワーの上から凄まじい量の真っ白な何かが、ブワアァァっと噴出した。


「なっ、なんだあれ」


「わっわわわわ!」


オワッタワーからある程度、距離をとっていたはずなのに、逃げる間もなく上から降り注ぐそれに、一瞬で視界が真っ白になった。


「う、うわぁ~? あ? あ?」


勢いよく噴き出した後も、オワッタワーからは、とめどなく溢れ出てきており、その何かはどんどんスチュワート家の庭を侵食していった。


幸い? なことに、その何か自体はふんわりと柔らかく、溢れ出る勢いに一緒に流されはするが、体丸ごと覆われたとしてもどこにも痛みを感じることはなく、怪我の心配はなさそうだった。


「え? ナニコレ? なんかすごいことなってる」


ふかふかなその何かは、最終的に広いことでは貴族街で右に出る屋敷はない敷地面積を誇る、スチュワート家の庭の三分の一を埋めてしまった。


「エマ様、無事ですか? こっコーメイさんも!」


ヨシュアがコーメイと挟んでエマを守るために覆い被さるような体勢になっていることに気づき、慌てて離れる。


「にゃー!」


「うん! 守ってくれてありがとう。ヨシュアも怪我はない?」


「は、はいっ」


近距離でのエマの笑顔を見て、もっと鍛えよう……とヨシュアは心に誓った。


「おい! エマ!」


「ねぇーえぇーさぁーまぁー!」


埋め尽くされたふかふかの何かを掻き分けるようにして、ゲオルグとウィリアムがエマとヨシュアの元へとやってくる。


「何なんだコレは!」


と、ゲオルグが説明しろと語気を強める。


「ふふふ、これ、オワタの種子毛よ!」


エマは思い通りの結果が出たわ、と嬉しそうに答えた。


が、


「しゅ? しも……って! だから、何だよそれ!」


残念なゲオルグは種子毛が分からない。

その横で、ヨシュアがハッとしてエマを見る。


「! 種子毛……と、いうことはもしかして……そんな……まさか……え?」


ヨシュアの声はあまりの驚きと動揺のため、掠れていた。


「ヨシュア、これを紡いで織れば綿になるよ!」


珍しく戸惑っているヨシュアに、エマが上手くいって良かった、と胸を撫で下ろして笑う。


「ちょっ!? え? 綿? ってつまり、オワタって綿花だったんですか? そんなの……」


綿、と聞いたウィリアムが信じられないと頭を抱えた。


イノシシに似ている、アーマーボア。

ウサギに似ている、一角ウサギ。

たぬきに似ている、虹色ラクーン。

魔物の中には、見た目や性質が動物とよく似た種が少なからず存在している。


それは、植物魔物とて例外ではない。


「オワタが綿花なんて、そんなの、そんなのっ! 資料のどこにも書かれていませんでしたよ!」


夏休み前に、皇国、王国にあるオワタに関する資料全てに目を通したウィリアムは、その全てを暗記している。


だが、そのどこにもオワタの性質が綿花に似ているなんて書かれているものはなかった。


どうやったらあのオワタを見て綿花を連想するのか、姉の発想力を未だにウィリアムは理解できない。


「え? あったわよ。一番古い資料……皇国の魔物図鑑〈緑ノ章〉の中に」


「は? え? ちょっと見直します!」


エマの言葉にウィリアムはそんなはずはない……と脳内にインプットしてある魔物図鑑を総ざらいする。


「え? どれ? どれですか?」


「えっと……なんだったかな? 華国のオワタの模写? みたいなやつ……」


「え? これ? これのどこに?」


ウィリアムの脳内に浮かぶオワタの模写には、どこにも綿花なんて言及されている箇所はない。


「ほら、端っこに華国語でオワタって書いてあるの」


「端っこ!? え? まさか……これですか!?」


大昔に魔物により滅んだとされる華国という国とは、鎖国前の皇国と親交が深かった。


華国語と皇国語には共通点があり、どちらも『漢字』が使われていた。

現代の皇国では『漢字』は殆ど古語扱いのために高等教育を受けた者しか読み書きできないのだが、元日本人であるエマは、それを見て閃いたのだ。


「ウィリアムの脳内は見えないけど、多分それよ。オワタって、『漢字』で【大きな綿】って書いてあるでしょう?」


オワタは華国語で【大綿】と書かれていた。


「う、わぁ……」


大量の資料の中の、小さな模写された図解の端っこに書かれたそれを、誰が見つけられるというのか。


「姉様……よくこんなの見つけましたね……」


「いや、それを思い出せるウィリアムもおかしいと思うぞ?」


妹と弟の会話にゲオルグは感心する。


「他の資料にはウィリアムが言うようにオワタが綿花に似ているといった記述なんてなかったから、当て字かなぁって思ってたんだけど、フクシマ様が魔物関係は華国語が語源となっているのも多いって仰ってたでしょう?」


「そういえば……! 魔物と宗教関係は華国語が多いと仰ってましたね」


ウィリアムは皇国で聞いた話を思い出す。


「あとほら、皇国でオワタの蒴果が近くに落下して、皆で見に行ったの覚えてる?」


「ん? ああ、猫達がここ掘れにゃんにゃんしてオワタの種を掘り出してくれた時だよな?」


さすがにそれは覚えているとゲオルグ。


「あの時、時間差で地中に埋まった蒴果が弾けたとこ見たでしょ? クレーターがボフンってなって皆で砂まみれになったやつ。さっきやった実験は、あの現象をオワッタワーの中で再現したものなの」


エマは、あの時の経験から蒴果の中には種とぎゅうぎゅうに圧縮された種子毛が入っているのではと予想していた。 


落下による衝撃により蒴果が傷つくことで、蒴果の外殻が種子毛を圧縮しておく状態を保てなくなり、内側から突き破られる。


以前、皇国で時間差でクレーターが噴き上がったのは、そんな現象が地中で蒴果に起きたのではと、エマは考えた。


そうすれば種子毛が圧から解放され、内側から膨張する時に種を押し出すことで、抵抗の強い地中であっても種同士の距離を離すことが可能となる。


それがオワタの成長のために栄養の取り合いを防ぐ役目を担っている。


「姉様、相変わらず思いつきと発想が常軌を逸してらっしゃいますね」


ウィリアムはエマの説明に、口許の端をヒクヒクさせている。


毎度のことながら、九十九パーセントの努力をするのはウィリアムで、一パーセントのひらめきをするのは姉なのである。


「ん? 結局、どういうこと?」


ゲオルグの顔に?マークが大量に出現する。


「んー……このふわふわしたオワタの種子毛がお布団で、この蒴果外殻が『布団圧縮袋』ってことよ、兄様。開けると布団がブワってなるでしょ?」


エマが兄用に説明してやる。


「なるほど!」


それなら分かった気がするとゲオルグ。


「な、なあ……若旦那? 大丈夫、か?」


呆然とした顔で、ヨシュアが突っ立っているのを、遅れてやって来たカルロスが心配そうに声をかける。


社交シーズン頃から数か月、今日の今まで、ロートシルト商会を悩ませた問題が、瞬時に解決してしまったのだから無理もなかった。


目の前に延々と広がる真っ白な綿を、どれだけ王国貴族達が欲したことだろう。


「エマ様……貴女という人は……」


ポツリ、とヨシュアが呟く。


このくらいのこと、ヨシュアは一人で解決できなくてはと思っていた。


綿がなければ代わりを。

貴族のクレームは甘んじて受け入れ、それでも無理なものは無理と説明する。


誰にも頼らなくても解決するのが当たり前だと、これくらいしなくては父の跡は継げないのだと。


自分ならできるだろうという確信はあったが、面倒な事態であることには変わりなかった。


少しだけ、気負っていた。


それを、エマ様は見透かしていたのかもしれない。


エマ様はいつだって誰にもできない方法で、ヨシュアを救ってくれるのだ。


「ほんと……敵わない」


出会った直後から随分と沈んできた自覚があるのに、まだ底にたどり着いていなかったことにヨシュアは驚いていた。


更にズブズブとエマ・スチュワートという名の沼に潜れる余白が存在していたのかと。


「フッフフフフフ」


「いや、怖えって」


カルロスは、急に声を出して笑うヨシュアにドン引きする。


「まだ、先があるなんて」


今以上、これ以上、まだエマ様を好きになる空間を己の中に見つけて、ヨシュアはとても嬉しそうに笑い出す。


「フッフフフフフ」


「「いや、怖えって!」」


カルロスと胸ポケットから顔を出した親指大の魔法使いは、揃って叫んだ。



♦ ♦ ♦


ズンッ


課外授業に行っていた間に溜まった書類をメルサが捌いていた時、短く地面が揺れる。


「? 地震? 珍しいわね……」


メルサは凝り固まった肩を解そうと持っていた羽根ペンを置く。


「そういえば……数日前の夜も似たような振動があったような……?」


休憩して下さいと、紅茶を淹れていたメイドのマーサが思い出したようにメルサに報告する。


「あの時は、もう少し弱かったのですが、立て続けに地味に揺れていたのですが……え? ちょっ! えええ?」


話す途中で、窓の外に目をやったマーサが驚きの声を上げた。


「どうしたの?」


しっかり者のマーサがここまで驚くのは珍しいとメルサは書類を置いて顔を上げる。


「奥様……あれをっ」


マーサの指差す窓の外の景色を見て、メルサは目を見開く。


遠くに見えるオワッタワーから、なにやら雲のような白い何かが、溢れ出ていた。


しかも、溢れ出たものはどんどん庭を侵食して屋敷近くまで真っ白なそれに埋め尽くされていた。


「マーサ……」


こめかみをなかなか強めに揉み解しながら、メルサはメイドの名を呼ぶ。


「……間違いないと思います」


マーサは、伯爵夫人の言わんとすることを即座に察し、即座に肯定する。


「ああ、次から次に……本当にもうっ」


はぁ~と深い溜め息を吐いて、立ち上がったメルサは、窓を開けるとめいっぱい息を吸った。 


「エェーマァー!! 何をしたのぉ!」


メルサの声は広い広いスチュワート家の庭に響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=oncont_access.php?citi_cont_id=412279493&s
― 新着の感想 ―
オワタ初登場ではお母様が「オワタ」とか言うんだって笑って、「終わった」の解釈でした。ここにきて大綿だなんて、天才か。シリアス先輩なのか。
皇国でオワタがクレーター作った時には、白い綿、出てこなかったよね? 伏線位、置かないと、あとからのでっち上げ臭くて厳しい
やられましたっ オワタは「もうこれが出たら世界が終わる」的な名前だと思ってた。 まさかのオオワタで、問題解決 エマちゃん沼は、まだまだ深い
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ