尾行。
誤字脱字報告に感謝致します。
魅了魔法の効果が弱くなってきている。
フアナは焦っていた。
全てはエマ・スチュワート嬢危篤の噂のせいだ。
精神を操る魔法は効果に個人差がある上に【生命】がかかわる場合、かけた相手に自己防御機能が働くという難点がある。
エマ・スチュワート嬢の命の灯火が消えるのを皆が皆、自分のことのように怖れ、嘆き、悲しむことによってどうやらその難点が大いに発動したようだ。
何よりも魅了魔法が強くかかった者程、彼女の悪口を言っていたのだからその罪悪感により自己防御機能が顕著に出てしまう始末。
もともと噂話に翻弄され易い輩。
魔法をかけるのも容易いが逆もまた、然りということか。
たかが一介の伯爵令嬢がこれ程の影響力を持っているとは俄には信じられない。
しかも、このタイミングでだ。
綿生地を配ることでやっと生徒の半数を掌握したというに、たった数時間で、数ヶ月の努力を台無しにされた。
こちらには時間がもうないというのに。
早くアレを見つけなくてはこの体も帝国も大変なことになってしまう。
「フアナ嬢、それ以上は立ち入りを許されておりません」
後ろから声がかかる。
今までこんなことはなかった。
王城の中で移動を制限されるなんて……。
「あ、あの申し訳ございません。少し道に迷ってしまって……」
時間がないというのに、イライラと振り返るとそこにはアーサー・ベルの姿があった。
学園では第二王子の護衛としてぴったりと付き従っている公爵家の令息だ。
整った美しい顔は第二王子と並んでも引けをとらない。
前情報で冷酷で堅物だという王子とは違い、こちらは軟派なプレイボーイだと聞いて上手く操れるかと魅了魔法を強めにかけたことがある相手だ。
結果は失敗に終わった。
この体の容姿は特別に美しいものではない。
魅了魔法をかけることによってなんとか体裁を保てている。
魔法の効果が強く出る者は、心酔し神格化する程にフアナに尽くす。
効果が弱くとも魅了がかかれば、この容姿でも美しく見えるようにはなる。
だが、このアーサー・ベルは美しいとフアナが褒められる声を聞く度に不思議そうに首を傾げるのだ。
つまりは魅了魔法が全く効かない相手。
帝国にはそんな人間はいなかった、この私の魔法が効かないなんて。
「ふふ、迷ったとは面白い言い訳ですね? この迷路のような王城の中でここまでしっかりとした足取りで宝物庫への最短ルートを進まれていたのに」
笑顔を浮かべているもののアーサーの言葉は辛辣だった。
「っ何を……。偶然ですわ」
与えられた部屋から出たとき、数人の騎士がついてきていたのは知っていた。
しかし、撒いたはずだ。
今はエマ・スチュワートの噂が蔓延っている学園よりも王城の中の方が魅了魔法は効きやすい。
あの騎士達は完全に操れていた。
彼ら以外には気配はなかったのに、アーサー・ベルはどうやって私に気付いたのだ?
「……尾行していた者は撒いたのに何故私がここにいるのか、不思議ですか?」
「っつ! 尾行? なんのことでしょう?」
考えが読まれている。
でも、アーサーが現れるまで誰の気配もなかったのは事実。
監視されていたとしても、この私が気づけないわけがない。
「フアナ嬢は学園でも王城でもたくさんの男性に囲まれておりましたから一人になりたいとお思いかもしれませんが、護衛くらいはつけて貰わないと困ります」
護衛騎士も大変なんですよ? とアーサーがふにゃりと笑う。
「え、ええ。少しだけ一人になりたかったのです。ですが、御迷惑がかかってしまうことを失念しておりました。自室に戻りますわ」
これ以上は無理だとフアナは宝物庫への歩みを断念する。
向こうが折れてくれているうちに今は諦めなければ。
「そうでしょうとも。お部屋までお送りしますよ、フアナ嬢?」
アーサーはスッとフアナの後ろに回り、帰り道を示した。
◆ ◆ ◆
「言われた通りに色男の兄ちゃんに教えたけど良かったのか?」
商店街にあるロートシルト商会の店舗の三階、ヨシュアの居住スペースの窓枠に行儀悪く座るヒューが報告する。
「さすがに王城の宝物庫へ侵入したことが露見すれば君の命が危ないからね。エマ様の大事な子供にそんな危険なことはさせませんよ」
大量のクレーム書類を高速で捌きながらヨシュアが答える。
「意外と優しいんだよね、ヨシュアの旦那って……でもおいらだけでなくてスラムの仲間はエマ様のためなら多少の無理はするって覚えててくれよ?」
エマには世話になっているからと、ヒューは胸を張る。
「……大事な事はエマ様が悲しまないことだよ、ヒュー。無理をすることではない」
「いや、でもヨシュアの旦那だってここ何日も寝ずに色々やってるじゃんか……」
日中は店舗、時間があれば学園へ、夜は書類整理に雑務に加えフアナ嬢の動向を探っているヨシュアを見て、いつ寝ているのかとヒューは訝しむ。
どう見ても一番無理をしているのは目の前の雇い主だ。
「僕はこれが通常業務です。エマ様のために動くことは呼吸する事と大差ありません」
「……怖えぇよ。でも、フアナ嬢が宝物庫で何を探しているのか分かった方が良かったんじゃねーの?」
あのまま黙っていればフアナ嬢は宝物庫へ侵入して目当ての宝を手に入れていたはずだ。その後で捕まえた方が罪に問いやすい。
ずっと見ていたが、どういうカラクリなのかフアナ嬢の前にはどんな鍵も意味をなさない。
普段は施錠されている扉も彼女が手をかざすだけで開いてしまうからだ。
熟練の泥棒だってそんな芸当はできないのに。
「それを報告したらヒューが疑われる可能性が出てしまうからね。フアナ嬢が被害者扱いされては今後動きづらくなるでしょう?」
「でもっ」
役に立ちたいのだ。
ヒューは恩に報いたかった。
あの時、三兄弟がスラムに来なければハロルド兄貴は餓死していたかもしれない。
そうなればスラムの子供は半分も生きることはできなかっただろう。
それが今は、朝昼晩にお腹いっぱい食べられる上におやつもある。
綺麗な服に柔らかいベッド、仕事に勉強まで与えてくれた。
夢みたいだ。
数ヶ月前まで絶望しかない人生だと諦めて、惰性で生きていただけのおいらをここまで引き上げてくれたのはエマ様だ。
どんなにご馳走を食べても、あの時の牛乳と水で煮た味付けが塩だけのオートミールの味を忘れることはない。
「大丈夫、ヒューはとても役に立っているよ。フアナ嬢が宝物庫に用があると分かっただけで十分だ。あとは諸々の情報を繋ぎ合わせて推測すれば自ずと答えは出るからね」
にっこりとヨシュアが自身の頭を指す。
大体の推測はできている。
あとは集まった情報を精査してそれが正しいか確認するだけだ。
「あと分からないのは、エマ様があそこまでフアナ嬢を恐れる理由だけ……どんなに考えてもあの方が何を考えているのかだけはいつも悩まされる」
その悩みすら甘美なのだけれどね。
エマを想うヨシュアの口許が自然と綻ぶ。
ずっと天使のような彼女が頭から離れない。
八歳のあの日、エマ様が笑顔を見せた瞬間からヨシュアの一番は不動のものとなった。
「いや、怖えぇって……」
口許の笑みに気付いたヒューが震える。
絶対に敵にしちゃいけないやつだと、スラム育ちのヒューは敏感に感じとっていた。
一番ヤバいのは変態だと知っているのだ。
端から見ればまだ、事件は何も起こっていない。
フアナ嬢はエマ様と対面したわけではない。
フアナ嬢はエマ様を苛めてもいない。
フアナ嬢はまだ何も盗んでいない。
ただ、言うなればフアナ嬢をエマ様が見ただけなのだ。
それだけなのに。
ヨシュアの頭の中ではほぼ答えが出ているようなことを言う。
「皇国の次は、帝国……か」
ポツリとヨシュアが呟き、最後の書類にサインをする。
ヒューが来た時には高々と積み上がっていた書類の山がなくなっていた。
「ヒュー、ご苦労様。ハロルド氏への生地染めのリストがあるから持って帰って貰えると助かる。 あと僕は少し調べ物をするから店員に聞かれたら書庫にいるって伝えてくれる?」
「……まだ、働くのかよ?」
もう夜だ。
そろそろ子供は寝る時間ではないか。
「これからはプライベートの時間だよ? 心置きなくエマ様のために使える貴重な時間さ」
こんな幸せな時間を睡眠で潰すなんて勿体無いだろう?
ヒューの問いにヨシュアは嬉しそうに答え、書庫へと消えた。
シリアス「今だ! コメディの旦那が寝てるうちに……」
ピンチ 「あれ? なんかあの商人俺の出番無くそうとしてねーか?」
コメディ「んー……よく寝たって、あ!」
シリアス「!」
ピンチ 「!」
シリアス、ピンチ、コメディ「……ヤバいぞ、変態がいる」