聖女降臨。
誤字脱字報告に感謝致します。
そこには、聖女がいた。
まだ幼い少女だ。
船乗りのジェイコブは看護する少女の影にそっとキスをする。
ジェイコブだけでなく、あの忌まわしい病に苦しんだ患者全員が、夕日に伸びた少女の影にそっと感謝のキスを捧げるのだ。
何度頼んでも、薬は手に入らなかった。
大きな港のほんの小さな商会に雇われた船乗り達は、長い航海が終わる頃病に倒れる。
学のない、強靭な体だけが資本の船乗りが病になれば、稼いだ金など直ぐに底をつく。
あの病はうつる。
昨日まで笑顔で言葉を交わしていた者達が距離を取り始める。
あの病は治らない。
愛しい家族から笑顔が消え絶望の日々が始まる。
大黒柱を失い、さして豊かでもなかった暮らしは一気に困窮する。
食事も満足にできない中、ゆっくりと死を待つのみ。
生きることを諦めていた。
希望なんてどこにもなかった。
真っ暗な暗闇に、もがき、苦しみ、死を待つのみ。
…………の、筈だった。
突然、そばかすの少年が指揮する男達が現れ、今まで乗ったことのないような高そうな馬車に困窮している家族まるごと乗せられ、今まで踏み入れることのなかった貴族街へと運ばれる。
大きな門をくぐり、案内された屋敷には清潔なベッド。
汚れた体は清められ、開いた古傷は手当され、飢えた腹は満たされ、体どころか傷ついた心ですら、癒される。
噂だけは、知っていた。
王都に聖女がいると。
初めは商人、特に仕立て屋を中心に広まっていた。
よくある噂だと港町の者は笑っていた。
三日あれば消える筈の噂は、三日たっても消えなかった。
臣民街、貴族の中ですら広まって、そんな噂を一番にバカにするスラムの連中も聖女に心酔しているなんて話も聞いた。
バカな噂だ。
本当に聖女なら、何故俺を助けない?
わかっている。
ただの八つ当たりだ。
聖女だって暇じゃないのだ。
こんな貧乏で、病気で、学もない俺を助ける程、聖女が暇なわけがない。
そう、思っていた。
「ジェイコブさん。ごはん全部食べられるようになりましたね!デザートも食べて下さいね。今日はオレンジですよ」
にっこりと笑いかける聖女が、オレンジを丸々一個すすめる。
その笑顔で体が、心が、あれだけ辛かった病がじんわりと癒されてゆく。
パタパタと忙しなく聖女に従う小さな子供たちは、全員スラムの子供たちだという。
聖女も着ている真っ白な白衣に身を包み、働く様子はきちんと訓練された看護師そのもの。
朝、昼、晩に出される食事には必ずデザートが付き、3時にはおやつまで。
スラムの子供たちがそれに手をつけることもない。
人を殴ってでも、騙してでも、最悪殺してでも一つのパンにありつこうともがく、スラムの子供たちの姿なんてそこにはないのだった。
聖女に指示を仰ぎ、聖女の指示に従う聖なる子供。
一体何を見させられているのか。
一体何度奇跡を目の当たりにしたのか。
たった数日であの酷かった病が、徐々に回復してきている。
聖女が与えてくれたのは、清潔なベッドと食事だけ。
あれだけ欲した薬も、医師もここにはいない。
ジェイコブは考える。
不治の病が良くなる奇跡を。
「ジェイコブさん。傷も塞がってきていますよ。きっと元気になりますからね」
聖女が微笑む。
貴族なんて嫌いだった。
汚いものを見るように、自分たちを見下す貴族が。
ジェイコブだけでなく、船乗り全員が貴族を嫌っていた。
貴族街に連れて来られた時、死を覚悟した。
狂った貴族のお遊びに選ばれたのだと。
「ジェイコブさん。また来ますね。あ、オレンジは残さず食べる事!約束ですよ?」
今、この場所で貴族が嫌いだと言う者はいないだろう。
あの美しい幼い聖女は伯爵家の令嬢なのだから。
聖女は慈愛に溢れ、見下すどころか親しみの表情で優しく触れる。
傷の包帯を替えるのも、嫌な顔一つしない。
話す時は目を見て、手を握り、別れの抱擁すらも。
病に罹ってから失った、人としての尊厳を思い出させてくれる。
聖女の笑顔は病をも治す。
医師も、薬も必要ないのだ。
あの笑顔が病をも治してしまう。
それほどの笑顔なのだ。
ダルく、力の入らなかった腕に聖女の笑顔が力をくれる。
ああ、王国に本物の聖女が現れたのだ。
ジェイコブは、聖女に渡されたオレンジを一口ずつ大切に食べる。
新鮮な果実は、航海に出れば食べられなくなる。
この病は治るのだから。
しっかりと味わって、あの笑顔と共に心に刻もう。
「姉様ー。学園から休息日明けから再開との連絡が来ましたよ?」
デザートのオレンジを配り終えたエマにウィリアムが声をかける。
「…………姉様、ニタニタしすぎですよ?」
振り向いたエマの口角が上がりっぱなしなのを呆れた表情で注意する。
「だってウィリアム……みんな、みんな、カッコいい……」
広すぎて使っていなかったスチュワート家の敷地内にある別館を、壊血病患者の治療院として開放したのだが、エマに嬉しい誤算が待っていた。
壊血病にならざるを得ない長い過酷な航海を強いられる船乗り達の多くは、やや現役の年齢を超えた男が多かった。
若い船乗りはそれだけで条件の良い船の仕事に就くことができる。
わざわざ病になるような船で働かなくても仕事はあった。
自ずと長い過酷な航海で出る患者は、50代60代の貧しいが体の動く船乗り達が多い。
スラム街ではスチュワート家やハロルドの働きにより、少し前から食事事情は大幅に改善され、壊血病患者は殆んど居ない。
つまり、スチュワート家別館に運ばれた壊血病患者の大半が50代60代の病にかかる前はしっかりと動けていた腕っぷし自慢の男たち。
日に焼けた肌、深く刻まれた年輪の如く渋いシワ、船乗り特有のワイルド感。
エマのストライク・ゾーンにがっつり嵌まる層だった。
「これが、異世界ハーレムなのね♪」
るんるんと大して用もないのに暇さえあれば別館に通う姉をウィリアムは何とも言えない不公平感を感じつつ、ため息をつく。
「僕には幼女を見るな、触るな、話しかけるななんて言いながら、姉様はおじさん見放題、触り放題、話し放題……ずるいー!せこいー!羨ましい!」
しかも、おじさんホイホイ発動で相思相愛。
理不尽な世の中に、理不尽な姉。
苦労の絶えない弟は誰に文句を言えば良いのかも分からず肩を落とす。
「「エマ様!お仕事おわりましたーー」」
スラムの子供たちが食事の片付けを終えて集まってくる。
「お疲れ様。じゃあ今日のお仕事は終わりだからお給金を用意してもらうわね。ごはんもあるから食べて行くといいわ」
「「はーい♪」」
スラム街がスチュワート領となったので、最近では他の貴族になんの気兼ねなく子供たちに仕事を与えられるようになった。
スラムにはお腹を空かせた子供はもういない。
ロートシルト商会の全面協力により、急ピッチでボロボロだったスラムの建物の補修が行われている。
「なんで男の子ばっかり……」
スチュワート家に手伝いに来ている子供はみんな男の子で、ウィリアムの大好きな幼女はいなかった。
「ウィリアム様、女子はハンナさんとこの仕立て屋の手伝いとハロルドの兄貴の糸の染色の手伝いとかが人気なんだよ。なんだっけ?将来性がある?とか言ってたな……でも俺らは飯が出るこっちのが断然いいけどね!」
いつの時代も、どこの世界も女子は打算的で男子は短絡的。
ハロルドさんを元締めに、スチュワート家、仕立て屋、ロートシルト商会から子供でもできる仕事を定期的に与え、子供たちは自分の意思で仕事を選び、働くようになった。
更に高度な仕事ができるように読み書き計算、裁縫や染色、インク作り、礼儀作法などを教える施設を補修した建物の一つでやろうという計画も進行中だ。
「ヒュー兄ちゃんとこが一番人気だけど……なかなか条件が厳しいよね?」
「なー?俺らも頑張らないとな」
自分から仕事を【選ぶ】ことで責任感が芽生え、よりやりたい仕事をするために勉強をする。
スチュワート家がスラムに与えた小さな希望の光は、驚くほどに上手く機能し始めていた。
「皆なんでもやれば良いのよ。得意不得意なんて全員あるんだから、いっぱいやって好きなのを見つけてやり込めば誰にも負けない強みになるはずよ!」
「「はーい、エマ様」」
そして、スラムの子供達は研鑽を重ね、広い広い様々な分野のプロフェッショナルとして成長してゆくことになる。
全員がスチュワート家への絶対的な忠誠心を持って。
これから物凄く優秀に育っていくスラムキッズ達に期待。




