ELSE CODE ~あの空の彼方へ~
今回の話はシリーズの中でも外伝ものとして位置付けています。
話は繋がっていますが、今まで以上にリアリズムに外れ過ぎています。
1.プロローグ ~覚醒~
見知らぬ町に笹見真理香は佇んでいた。周りを見ても高層建築ばかりが立ち並んでいる。コンクリートの照り返しの輻射熱が彼女の手の中をなお汗ばませた。その中を漂うように彼女はゆっくり歩いていく。何故、ここにいるのかもその目的も思い出すことはできない。記憶喪失になってしまったのだろうか。混乱する頭を振ってふと、細い路地を通り抜けた辺りに目を引く都会の骨董品というべく古い建物が目の前に現れた。
『山颪アパート』
その汚れた白地のプレートに視線を走らせた。エクステリアは鮮やかな彫刻が飾り、外壁の曲線はル・コルビジェの作品を思わせた。
1階にはギャラリーらしき店舗が見えた。中に足を踏み入れると、独特の空気が漂っている。ところどころ欠けたリノリウムの床が靴音を響かせた。壁には一面に絵画が飾ってあり、ウィンドウの前にはイーゼルが並んでいてそれにも同じような絵画が据えてあった。どこからともなく漂ってくるレモングラスの香りが仄かに鼻に付いた。アロマテラピーでもあるのだろうか。
その壁を飾っている絵はいずれも抽象画ばかりで、炎のようなもの、迷路のようなもの、原色の色鮮やかなものからモノトーンなものまで似たタッチのものがほとんどだった。
中央の低い台にはアクセサリー、絵本、本が顔を見せている。それはパソコンでの手作りのものから実際に出版社で出版されたものまであった。壁に沿って立っている絵画の下の背の低い棚にはオブジェが所狭しと肩を寄せ合っていて、その独特の表情を巧みに店内に見せて人の心を引いていた。
奥のカウンターには誰も見ることができない。そのカウンター近くには人形のコーナーがあり、背の高い棚が1つ立っていた。その中の1体がやけに気になって近付いてその人形を手に取って見つめた。
道化師の悲しげな表情は真理香の心に何かを語ろうとしているかのように見えた。奇妙な感覚が手から徐々に伝わってくる。
「僕が君を助けてあげる」
突然、彼はそう呟いたので彼女は声にならない悲鳴を上げて思わず彼を落としてしまった。
地面に伏せた彼はなおも話を続ける。
「これから君が木彫りの人形に出会ったら、久慈書店の『阿字』に会え。そいつが君を『扉』に連れて行ってくれるはずだ」
真理香は後ずさりながら人形を青い顔で見つめてそのまま逃げて外に駆け出そうとした。その時、入り口近くのイーゼルを倒してしまった。立ち止まって振り返りそれを拾い上げると彼女自身分からないが、丸めてそれを抱えて外に飛び出した。
『起きろ、起きろ…』
子犬の目覚ましの声が真理香の頭上で騒ぎ始めた。彼女は目を擦って起き上がると子犬の頭を叩いて黙らせると時計の針を見て大きな欠伸をした。
と、同時に携帯電話の着メロが鳴った。最近、話題の曲である。急いで机の上に駆け寄ると電話に出た。相手は親友の真島有里であった。
「あんた、何やっているのよ。駅に9時って言ったじゃない!」
「え、だって今日は9時半って…」
「時間が早まったから気を付けてってあれほど言ったのに。全く真理香って相変わらずなんだから」
「分かった、分かった。30分で行くから。大丈夫、集合時間には9時半に出発しても間に合うって。有里は心配性なんだよぉ」
「あんたがマイペースなの。とにかく、大至急、来て」
すぐに電話は一方的に切れてしまった。しかし、真理香は慌てる様子もなくあっさりと着替えてダイニングの席に腰を下ろした。
用意された食事を口に放り込んでいると真理香の母親が洗濯を終えてやってきて彼女に一瞥して口を開いた。
「貴方、もう出掛ける時間でしょ?いいの、そんなにのんびりしていて」
「大丈夫。駅までなら自転車で15分なんだから」
「真理香ちゃんには慌てるって言葉がないのよねぇ。全く、誰に似たのかねぇ」
彼女は早々とトーストとダージリンティを胃に流し込み立ち上がった。そして、洗面所に伸びをしながら入っていった。
駅の改札口に着いたときには時計の針は9時45分を示していた。般若の如く有里は足を揺すって待っていた。
「ごっめーん。化粧に時間が掛かっちゃって」
「いいわよ、こうなることは分かっていたし。それに9時半を9時に早めたのは私よ。真理香が遅れるのを見越してね。でも、それでもこれだけ遅れるとは計算違いだった」
有里は真理香を引っ張って急いで電車に乗り込んだ。彼女達は今日、あるテレビの2時間ドラマのエキストラとして参加する予定になっていたのだ。有里の父親が撮影スタッフだったために彼女と真理香はエキストラに参加できることになったのだ。
電車で有里の話も上の空だった真理香に、流石に訝しい表情で話を打ち切った有里は彼女を揺さぶった。
「ねぇ、聞いているの?一体、何があったのよぉ。好きな人でもできたんじゃない?」
すると、慌てて真理香は頭を横に振って持っていたケリーバッグを落としかけた。
「そんなんじゃないわよ。変な夢見ちゃってさぁ」
すると、有里は興味深げに食いついて話をせがんだ。それを見て真理香も満更じゃない面持ちであの不思議なギャラリーの夢を話した。
「げ、気持ち悪いね。生きている人形か。よくある小説の話ね」
「あれ、何だったんだろうって。だって、夢って自分の願望や過去の記憶が現れるものでしょ?あんなもの見たことも考えたこともないもん」
「それに木彫りの人形が現れたらって、ねぇ」
そのまま、また真理香は沈黙を保ってしまった。
「まぁ、真理香がぼんやりすることなんて今に始まったことでもないし」
そのまま有里は彼女を放っておいて読みかけの小説を取り出した。電車はゆっくり車窓の景色を流しながら進んでいき、彼女達の目的の駅に滑り込んだ。時間は10時半になろうとしていた。
12時にエキストラは現場に集合になっていた。しかし、真理香達は結局12時20分に辿り着き、関係者及び有里の父親に叱咤させることになった。
それから、10分後に撮影が始まろうとしていた。
汗ばむ蒸し暑さに包まれながら、海辺で殺人現場に野次馬が戯れるシーンの撮影が始まる。周りの空気は緊迫して独特の雰囲気が出演者達に緊張の糸を張り巡らせていた。そして、探偵役の男優が死体を発見するシーンが始まった。
「カット!」
そこで、バリトンの大きな声が当たりに響いた。
「おい、何勝手なことをやっているんだ?」
メガホンを持った監督が1人の通行人のエキストラの青年に怒鳴った。
「お前はエキストラだろうが。何、声を出しているんだ!」
「ここは通行人にこういう台詞があった方がリアリティあると…」
「君はエキストラだろう?勝手に演出するな。アドリブで無理に台詞を作る必要はないんだ」
「このシーンはこっちの方が…」
「監督は私だ!」
青年は渋々決められた演技を行なって無難にやり遂げた。無事に撮影は進んでいった。
「カット。最初からそう大人しくやっていればいいんだ。麗ちゃんごめんね」
休憩時間に入り、青年は次の撮影現場の海の家に入って椅子に腰掛けて憮然と海を眺めていた。彼の名は翡翠要といい、大学2回生であった。夏休みを生かしてアルバイトとしてこのドラマのエキストラに参加したのだ。
用意されていたオレンジジュースのストローを咥えていた要は、目の前の席に女性が座っても一瞥してそのまま視線を再び海に戻した。
その女性とはヒロイン役の女優、美鈴麗であった。彼女は最近ブレークし始めた、今注目の女優でありCMにも多数出演している。
「監督も貴方の実力を見抜いているのよ。だから、あの指摘が悔しかったのよ、気にしないで」
「別に気にしていませんよ」
「そう…。名前は何て言うの?よかったら、教えて」
彼は躊躇ったが素直に名前を名乗った。彼女はメジャーであると自分で認識しているらしく彼女からは名乗らなかった。しかし、要にとってそれはどうでもいいことであった。
「でも、貴方の演出って私の好きな作家の作風に似ているから驚いちゃった。シナリオを執筆とかしているの?」
その質問に要は返事をせずにジュースを思いっ切り啜った。すると、麗は伸びをして空を仰ぐと微笑んでさらに続けた。
「梓尊っていう作家なんだけど、ってマイナーだから知らないかぁ」
その名前が意外にも彼女の口から出たために、要は思わず咳き込んでしまった。ジュースがテーブルに僅かに散った。それを見て不思議そうに彼女は要を見た。
「まさか、梓尊を知っている人がいるとは…。しかも、ファンが」
すると、麗は瞳を輝かせて彼に飛び付いた。彼は早く切り上げて彼女から離れたいと思ったが、この状況ではそうもいかなかった。自分の驚嘆を後悔しながらこれからの成り行きに不安を感じた。
「え、君も知っているの?あの人の作品っていいよね。文章が深いし、行間が多くの意味を含んでいて。少し重いけど…」
長い『梓尊』の、彼に共感、崇拝しているという感想がずらずらと並ぶ中、要は戸惑いの中で視線をずっと海に向けていた。その間、人差し指がしきりにテーブルを叩いている。
彼が戸惑う理由はただ1つ。要自身が梓尊であるのだ。彼女はそれがペンネームだということを気付いていないらしい。彼はプロの作家という訳ではなかった。公募で準佳作を取り、費用を出版社と出し合う共同出版という形で小説を世に出していた。しかし、ホームページで多くの作品を公開していて、彼女はインターネットの検索エンジンで梓尊を検索してそのサイトを見つけていたらしい。長い話の中でサイトに出している作品の全てを知っていたのだった。
スタッフが彼女を呼びに来て話が打ち切られると、彼はほっと胸を撫で下ろした。大きな溜息がどんより地面に落ちていった。
その内、彼のいる海の家で撮影のスタンバイが始まった。スタッフが無駄なく仕事を進めていく中で要は柱に寄り添ってその様子を眺めていると、エキストラの女性陣が席を埋めていった。
テーブルには海の家特有の食べ物、カレーライス、ラーメン、焼きそば、カキ氷。それに色とりどりの鮮やかなジュースが運ばれていく。
その時、要はある2人の女性に視線を向けた。
――彼女も…。
しばらくして、俳優陣が最後に登場して撮影が始まった。
順調に役者達の台詞が流れていくが、あるクライマックスのシーンで女性の叫び声が響いた。次の瞬間、どかんと人が床に落ちる音がした。
「カット!」
監督の声と共に先ほどの女性が意識を失って床に倒れてしまった。一瞬、周りが凍り付いて、すぐにスタッフが彼女に駆け寄っていった。それを見て要は瞳を輝かせた。
――いよいよ、始まったのだ。
道化師はふらふらと立ち上がり振り返ると悲哀に満ちた苦笑を見せた。
「やぁ、また会ったね。今度は怖がらないで」
周りを見渡して真理香は今朝の夢の世界にまたいることを認識した。今度は逃げることもなく、力なくその人形の前に屈み込んだ。彼は見えない糸に操られているかのようにふらふらと彼女から3歩後ずさり口を動かすことなく話を続けた。
「君は自分では気付いていないかと思うけど、奇跡を起こす力が1つ目覚めたんだ。そして、それを見越して『あいつら』がやってくる。君をある『世界』に迎えにね。でも、けして付いていっては駄目だ。必ずきっぱり断るんだ。それでも強引に連れていこうとする。そしたら、夢幻の作家に会うんだ。彼は精霊のギャラリーにいて、きっと君の力になってくれる」
それだけ言うとその無表情は寂寥を込めて微笑んだように見えた。そのままゆっくり彼は後ずさり棚の上に飛び乗って動かなくなった。
彼女は周りを見回す。
「ここが、その精霊のギャラリーなの?」
誰に尋ねるということもなくそう呟いて1冊の本に視線を落とした。そして、手を伸ばそうとした…。
瞳を開けると下半分真っ白の視界が広がった。長い間、眠っていたかのような気がしてふらふらと起き上がり、そこで真理香はロケバスの中にいることに気付いた。徐々に意識が鮮明になり視界はクリアになっていく。
「真理香、大丈夫?」
隣を見ると心配そうな有里のあどけない顔があった。彼女は無理に笑顔を作ってみせて心配かけないように努めた。
「私、どうしたの?」
「撮影中に突然、悲鳴を上げて倒れたのよ。すごく心配したんだから。…一体、どうしたの?」
それで記憶がゆっくり甦ってくる。そう、真理香はエキストラとして麗の隣のテーブルで有里と楽しそうに話をしている芝居をしていた。しかし、撮影が始まると妙な声が聞こえてきたのだ。彼女はびくっとして周りを見回す。しかし、誰もそんな独特の大きな声を出してはいない。それもそのはず、この俳優達の芝居中にそんな声を出したら監督の怒鳴り声が飛んでくるはずだ。
それに誰もその声に気付いている者はいない。
――私だけに聞こえるの?
そして、ゆっくり顔をその声のする方に向ける。彼女の視界に見事な役を演じる麗が写る。その麗のテーブルの上にはあるオブジェがあった。それは木彫りの不思議な動物の人形であった。アライグマのようであり、巨大なリスのようでもある。それが真理香に話し掛けていたのだ。
「ふう、やっと気付いてくれたね。ねぇ、君は『僕達』と意思の疎通ができるんだろう?君を僕は待ってたんだよ。仲間に君を紹介したいんだ。お礼は山ほどさせてもらうからさぁ、一緒に行こうよ」
その目にやけに身の毛もよだつ畏怖を感じた。まるで、心臓を氷の手で掴まれたような耐え難い感覚。その後、彼女は悲鳴を上げて気を失ってしまったのであった。スタッフに囲まれた真理香を麗は何か思い当たる節があるように真剣に見つめていた。
その日は無事に撮影が終わり、真理香と有里は日当をもらった。先ほどのことから完全に立ち直れていない真理香は、有里の話を半分で聞いていながら仕事から解放された俳優陣を遠目で眺めていた。すると、麗が近付いてきて彼女にそっと耳打ちした。
「ねぇ、君ってあの人形の声が聞こえたんじゃない?」
その言葉に驚愕の表情を見せると彼女は愛らしく微笑んで見せた。それはいつもテレビや雑誌で見る笑顔よりもよっぽど自然で魅力的なものであった。
「え?!麗ちゃんも聞こえたの?」
麗は真理香を有里から離すように引っ張り声を低くしながら言葉を発した。
「私は3ヶ月前くらいからだけど。あの人形だけじゃないわ。魂を持たない『物』と意思の疎通ができるの。その内、貴方も分かるよ」
「それで、麗ちゃんは『あいつら』に誘われたことはない?」
「いいえ、私はないけど。貴方、あの人形に誘われたの?」
彼女はそれ以上、言葉を発することなく震える手を押さえながら会釈をして踵を返した。
追ってくる有里にも構わずに彼女はある場所を急いだ。そう、新宿のある場所にある小さな本屋の『久慈書店』である。あの道化師が言っていたその本屋は彼女のお気に入りの本屋である。それが偶然のように思えなかった。
「どうしたのよ、突然。麗ちゃんと何を話してたの?」
「悪いけど、有里。先に帰って」
そして、駅への大通りを人並みに逆らって進んでいく。有里が必死に追い駆けると真理香はさっと立ち止まり振り返って真剣な表情で叫んだ。
「付いてきちゃ駄目。これから先は危険かもしれないの。有里を巻き込みたくないのよ」
「どうしちゃったの、本当に」
「いいから、言うとおりにして」
そう言うと、唖然と立ち尽くす有里を置いて真理香は駅の中に姿を消した。そののんびりマイペースの真理香らしからぬ様子に有里はただ呆気に取られるしかなかった。
列車の中でポケットの中の携帯電話が震えた。真理香は極端に驚き周りの視線を集めてしまった。慌てて取り出すと電話は切れてしまった。履歴から同級生の我神棗からだということが分かった。
電車を乗り継いで新宿駅のホームに下りるとすぐに棗に電話を掛けた。すぐにワンコールさえもしない内に、彼は電話に出たことに真理香はぽかんとした。
「おう、ササマリ」
彼女の名前、笹見真理香を略して『ササマリ』と周りの友人は呼んだ。ただし、特に親しい者だけは有里のように真理香とちゃんと呼んでいた。
「明日のことなんだけど」
「あ、そのことなんだけど、和馬達に言っておいて。明日の予定は私、キャンセルするって」
「どうしたんだよ、急に。あんなに楽しみにしていたじゃないか」
「用事が出来たの。今は詳しいことは言えないけど、そういうことだから」
それだけ言い残して彼女は電話を切ると電源をオフにした。これからは運命の不思議な旅が始まるのだ。1人で歩いていかなくてはいけない。
――そう、メビウスの帯の形の歪められた運命の。
2.夢幻の作家
駅前の人ごみがまるで夢の中にいるように勘違いさせる。それはきっと、これまでの信じられない出来事が原因しているからだろう。夏の蒸し暑い風の吐息が真理香の気分をさらに逆撫でする。
高層建築の並ぶ通りを少し外れて、見慣れた書店を見掛けると鼓動が激しくなるのを感じた。ここに『阿字』なるものがいる。それは何なのか分からないが、きっと真理香をあの精霊のギャラリーに連れて行ってくれる。
今時、手動のドアを押す。ドアの上に付いている古い喫茶店のようなベルが鈍い音色を店内に響かせた。それはいつも聞き慣れている音には聞こえなかった。まるで、警戒警報のサイレンのようで彼女は一瞬、店内を進むことを躊躇った。
しばらくして本棚の列を眺めながら1通り店内を回り、奥のカウンターに近寄った。夏休みのこの時間にも関わらず、客は彼女以外誰1人いなかった。ゆっくり歩いて古本コーナーで立ち止まった。
個人商店であるのに新書と古本が混在しているのはここだけであろう。その中の1冊に異様に興味が湧いた。
その本の背表紙を眺めた。
『SOUL BREAKER』
魂の破壊者。その意味が気になり、しかし、中を見ても英字なので読破することはできずに戸惑っていた。ふと、真理香は自分がものと話が出来るようになったことを思い出し、試しにその本に蚊の鳴くような声で話し掛けた。
「貴方はどんな本なの?」
しかし、彼、もしくは彼女は黙ったままである。ものと意思の疎通ができるようになった、なんてもしかしたら勘違いなのかもしれない。全ては夢なのかもしれない。そう思い込もうとした真理香はふと入り口のドアのベルの音に振り返った。ある青年が難しい顔をしながら入ってきた。この店に真理香以外の客が入ったことに彼女は不思議に意外な感じがした。
彼はゆっくり本棚と睨めっこしながら進んでいき、真理香の存在に気付くと目を見開いて露骨に驚いて見せた。その瞬間に真理香は彼に見覚えがあることに気付き、自分の記憶の中を探っていった。
「その本は無理だよ、イギリスの古い書籍だから日本語で話し掛けても無理だよ。見ていてごらん」
彼はそう言うと英語で何かしら小声でそっと話し掛けた。真理香は高校で習っている英語でも自信がない方なので、彼の話は理解することはできなかった。
しかし、するとその古書も言葉を返した。その会話は少しだけ続いて、その間ぽかんと彼と書籍を見比べた。その会話が終わったのを見計らって真理香は喉に今まで引っ掛かっていた言葉を放った。
「君もものと話が出来るの?」
「まぁね、この本は中世のイギリスの宮廷に勤めていた人に書かれた初版本だから、イギリス文語で話しにくいけど。硬い古語英語は今のフランクなアメリカ英語に比べて、独特の言い回しや、やけに文法的なところも苦手な方なんだ」
「ねぇ、そんなことよりものと会話できる…」
彼はそのまま手で彼女の言葉を制した。言葉になりかけた溢れる想い達が彼女の口から溜息となって空気に溶けていった。
彼は会話していた古い本に視線を向けながら言った。
「君が運命の使者に狙われていることは分かっている。で、どうすればいいのか、分かっているだろう?」
彼女は全てを知っているようなその青年なら自分を助けてくれるような気がした。
「それでここに来たの。ねぇ、『阿字』って何か分かる?」
すると、彼はぽんと手を叩いてさも当然だと言わんばかりに言葉を連ねた。
「この本屋が何故『久慈書店』なのか知ってる?」
その突然の質問に真理香は首を横に振った。彼はそれを見て頷いた。
「今は『久しい』に『慈愛』の『慈』で久慈だけど、昔は九に字で『九字』と書いていたんだ。その語源は仏教の中の密教で九字という霊縛法があるんだ。早い話が悪霊の霊障を取り除く法、除霊の方法で、『不動金縛りの法』と呼ばれているんだ。
そして、彼は真剣な顔で付け加えた。
「これは生霊、死霊に関わらず動きを封じるので、直接、人間に行うとその人も金縛りにさせてしまうんだ。そして、これを行うには、清浄な肉体と精神状態でなければ執り行なえないと言われている。そして、相手の精神や肉体に非常に強い負担と重圧を及ぼすため、精神的に弱っている人間や身体の弱っている人間には行うことは厳禁とされている」
そして、彼は重い口調で話し始めた
「近年も神の使いを名乗る者が病人にこれを行なって、逆に悪化させて寿命を縮めてしまったという例も存在するんだ」
頭が重たくぼうっとしてきた真理香は怪しむような視線を彼に向けて、少し距離を取った。何故、そんなことを詳しいのかという、懐疑的な視線を注いだ。それも気にせずにマイペースに彼は自分の話にさらに没頭していく。
「話が思い切りずれたけど、その『九字』がこの本屋の名前の元になっている背景はその密教が関係しているんだ。この本屋の主人は僧侶の次男なんだよ。そこからこの名前を用いたんだ」
棚に並んでいる本を見ながら、少し深く息を吸い込んで彼は再び話しを続ける。
「そして、密教に深く関わっているのは、阿字だ。阿字観と九字は深く関わっている。阿字の語源のアヌゥトゥーパーダは本不生の意味で、『生まれていないもの』・『生まれなきもの』、つまり、時空を超越した存在ということなんだ。そして、『人知を超越したあるもの』を表す梵字だ。このため、阿字はあらゆる梵字の代行ができて、別種字とも言われている。種字というのは仏を表した梵字のこと」
そして、やっと表情を和らげた青年は口調を軽くした。
「早い話が僕達の知っている梵字のイメージは大体この阿字なんだよ。元々梵字は古代インドの言葉、サンスクリット文字のことだし。『梵』の語源はブラフマン、つまり、宇宙の真理なんだ。それを擬人化させたものが、ヒンズー教の3大神の1柱、誕生を司るブラフマー、仏教に取り込まれた梵天のことなんだ」
ついに、顔をしかめた真理香は堪りかねて言葉を放った。
「結局、私が求めている『阿字』というのは、この店内のどこにあるの?」
すると、彼は頭を掻いて周りを見回した。彼もそこまでは知らないらしい。彼女は諦めるように俯いてしまった。
「阿字が梵字のことだとすると、その本を探せばいいのかな?」
真理香はそう独り言を呟いて宗教の書籍のコーナーに行く。沢山の仏教の本を眺めながら1つずつ眺めていた。その時、彼はふと遠くを指差した。それはカウンターの方で、その上には小動物が尻尾を抱えて眠っていた。その首にかけた首輪には銀色のタブが付いている。
真理香はそれを起こさないように近付きそっとそれを垣間見た。タブには梵字が彫られていた。それはキリークと呼ばれる阿弥陀如来を意味する梵字であった。顔を近付けるとそのアライグマに似ている動物は目を覚まし不思議そうに彼女の顔を眺めた。
「君が『阿字』君なの?」
すると、彼はすくっと立ち上がり辺りを見回して鼻を小刻みに鳴らした。そして、さっとカウンターから飛び降りると素早く出口の方へ駆けていった。彼女はガラスのドアを引っ掻いている動物を見下ろすと屈んだ。
「外に出たいの?」
ドアを開けてあげるとそれはどんどん通りを進んでいった。その動物を見失わないように真理香も後を追った。
「魂のないものと会話できるんだから、あの子とも話が出来ればいいのに」
そう小さく愚痴を零して通行人を避けながら、後を追っていく。その動物は突然、急に曲がって、人1人通るのがやっとの建物の間の細い路地に入っていった。彼女は刹那、立ち止まり躊躇するがすぐに意を決して入っていった。
気付くと辺りの様子が妙なことに気付く。汗をハンカチで拭いながら、真理香は立ち止まって荒い息を整えた。もう、すでに動物の姿は見えない。引き返そうか、それともこのまま進むべきか迷った。細く切り取られた遥か遠くの茜色の空は優しく彼女を見守っている。
夕日は意外に早く沈み、真理香が建物の間から抜ける頃には真っ暗になっている。溜息をついて気を落ち着かせた彼女は、目の前の光景に唖然と立ち尽くした。そこはロンドンの街中のような町並みで珍しい街頭がロータリー広場の中心で回りに穏やかな光を振り撒いていた。
その広場を横切り向かい側に足早に渡る。そこには見覚えのある建物が立っていた。古い、鮮やかな彫刻のある建物。
ぶら下がる鉛のプレートには『山颪アパート』という文字が彫られていて、優しい夏の香りの風が揺らしていた。息を飲んで太ももを抓って、目の前の光景が夢ではないことを確かめると、真理香は助けを求めるように好奇心に任せて1階のギャラリー店舗のドアを押した。中は暖かい光に満ちている。蛍光灯の光とは違う明かりが店内を照らしていた。
それは夢と寸分たがわぬ光景であった。壁を陣取る絵画。オブジェに書籍が並ぶ。右手奥のカウンター横にある棚に座る人形達。あの道化も眠っているように足を投げ出してこちらを眺めている。
夢の中で気になった本をすぐに探した。それは中央のテーブルにあった。
『藍色の詩』
それは絵本であった。暖かい挿絵と心打つ文章が彼女を虜にした。そして、著者名に視線をなぞる。
『梓尊』
聞いたことも見たこともない名前であった。そして、はっと気付いて全てのここに飾ってある作品の作者も全て梓尊である。どうして、彼の作品だけをこの不思議な店は扱っているのだろうか。
店内を見回し、カウンターの奥に足を踏み入れた。事務所のような部屋を通り過ぎて廊下に出ると、その窓から見える中庭に男性の姿を見つけた。彼が夢幻の作家に違いないと確信した真理香はすぐに中庭に出るドアを見つけて飛び出した。
要は今度執筆しようとしている小説の資料を買いに本屋に向かっていた。たまたま23区内の出版社を回ってしたので、いつもと違い新宿の本屋に向かうことにした。しかし、どこに行っても目に付く書籍を見つけることは出来なかった。いろいろな書店を回り、細い路地を歩いていると小さな個人書店を見つけることが出来た。ここならきっと見つかる気がして、迷わずその店に飛び込んだ。
中は閑散としていてほとんど客の姿を見ることは出来なかった。それも気にすることもなく、本棚を片っ端から視線を走らせていく。しばらくして、3列目の本棚を曲がった辺りで彼は足を止めた。そこにはドラマのエキストラに参加していた時に見た女性がいたのだ。そう、新たな能力に目覚めた女性である。
それを見ると彼は話し掛けた。そして、しばらく言葉を交わして分かれるとある本を手にした。その名は『SOUL BREAKER』であった。
カウンターに見えない店主を大声で呼ぶと、初老の男性がのっそりやってきた。そして、要の手の中の大きめの革表紙を見て目を見開いた。
「それは少々お高いものですよ」
そこで要は値札を見る。そこには5万円と書かれていた。それでもその本をカウンターの上に置いた。それを鞄にしまうと資料を探すのを断念して店を出た。店の隣の路地に入り、その古書を砂利の上に置いてライターで火をつけた。それは悲鳴を上げるように勢いよく燃え上がり、それを眺めながら要はこれからの行動を考えた。
「すでに始まったんだ。これに参加しない手はないか」
独り言を呟いて立ち上がると灰を靴で踏みながらその路地の奥へと進んでいった。燃えカスの切れ端が風に乗って飛んである家の屋根に乗った。それには黒魔術の呪術方法が描かれていた。
20代半ばの男性が庭の花壇に穏やかな視線を向けていた。彼はスレンダーで優しさが滲み出ているような紳士といった感じであった。真理香は躊躇いつつもゆっくりその男性に近付いて、思い切って声を掛けた。
「すみません、あのう…」
人見知りのために緊張のせいで声が裏返ってしまった。軽く咳払いをして見せて頬を染めながらそれを誤魔化した。庭の芝生に腰を下ろした彼は彼女を一瞥してすぐに視線を花壇に戻した。そして、彼女が再び声を掛けようとすると、それを制して1言呟いた。
「断る」
真理香は頬を膨らまして露骨に不機嫌な様子を見せた。それを横目で見て彼は軽く笑った。流石の真理香も少し頭に来て彼の横に腰掛けて微妙に声を荒げた。
「まだ、何も言ってないじゃないですかぁ」
「君は『彼ら』に連れて行かれそうになっている。そうだね?」
「まぁ、そうだけど。…貴方が夢幻の作家なんでしょ?」
すると、その男性は瞳を細めて意味ありげに彼女の方に体を向けた。痩躯の体がなお強調される。彼はまるで1言ずつ確かめるように彼女に穏やかに訊いた。
「それをどこで?」
その彼の変わりように真理香は面食らっていたがすぐに気分を入れ替えて今までの夢の話、ギャラリーや話をする人形の話をした。すると、彼は額に手をやりながらじっくり聞いて頷いた。
「そうか、道化師の紹介の依頼人なら断る訳にはいかないな。よし、話してみなさい」
彼女は夢の話から、ドラマ撮影のエキストラ参加の話、木彫りの人形のはなしや麗の話を簡単に手早く説明した。それを相槌を打ちながら親身に暖かく聞いていた夢幻の作家は同情の眼差しを向けた。それが彼女にはあまり気に入らなく感じた。
「信じてないよね、物と話をするなんて」
しかし、彼は優しく首を横に振った。それは真理香に安心感を与えることになった。彼は口を開く。
「実は僕も子供の頃にできたんだ。でも、今は直接話す(・・)こと(・・)は(・)できなく(・・・・)なっているけどね」
彼女は隣で色とりどりの花々に心奪われる男性の表情を覗き込むように尋ねた。彼の表情は心の内を見透かすことはかなり困難であった。
「どうして、話が出来なくなったの?」
その言葉に彼はそっと空を仰いで表情を緩めた。
「僕は自分の愛着のある『物』と話が出来たんだ。それはゴム長であったり、自転車であったり、傘であったり。ほら、人の心や想いが多く、長く注がれたものには魂が宿ると言われるだろう。でも、ある日、こんな疑問を持ってしまったんだ。『物体』と話が出来る、魂があるのであったら、その『物質』、『物』を構成している要素1つ1つにもそれぞれ魂、意思があるんじゃないかって。例えば、自転車なら、ハンドル、サドル、スポークの1本1本でさえ、いや、金属のパイプやボルトの1つに至るまで全てが意思を持っていてもおかしくないのでは、ってね。すると、自転車という1つの集合体と会話していることが疑問に思えてきたんだ」
「ふうん、難しいね。でも、何となく分かる気もするけど。それから、会話できなくなっちゃったんだぁ」
「まぁね」
そして、彼は視線を彼女に向けた。その意図が分からず、真理香は困惑の表情を見せた。
「子供の不思議で大切な能力が大人になるごとに忘れられていくことって、こんなことなんじゃないかな。寂しい気もするけど。論理思考、常識が柔軟な子供の感覚を狂わせるんだ。全ては割り切れる訳でも、説明できる訳でもないのに。この世界には矛盾で満ちているんだ」
そして、立ち上がると彼は真理香に目もくれずに建物の中
に入っていった。気分を害しながらも真理香は後に続く。
彼は事務所のような部屋に入り、奥のデスクについた。そして、初めて彼は真理香に対する態度が客人のそれに変わった。
「僕の名は津久見維真。君の言う通り、夢幻の作家と呼ばれている。君を連れて行こうとしているのは、夜空から来た影法師だ。だけど、心配しないでいい。味方もいる。言葉になれなかった想いの欠片達だ」
その訳の分からない言葉に真理香は戸惑っていると、彼は優しい微笑を浮かべて肘をデスクに突いて手を組んでいる。彼女はもう、彼に頼るしかなかった。
「まずは、その想いの欠片を抱く青年を探すんだ。すでに君は出会っているはずだ。僕も一緒に探してあげよう」
そう言うと立ち上がりシャツの袖を巻くってギャラリーに向かって歩いていった。彼女もそれに続くと、カウンターの前に奇妙な動物が丸くなっていた。それは阿字である。維真はそれを撫でるとカウンターの横にある棚に視線を向けた。そこには真理香が夢に見た道化師の人形が不安そうに憂いを込めて見つめていた。
「そのテーブルの上にある本をしっかり持っていなさい」
その維真の声に真理香は夢で手を伸ばした本を思い出して、そのテーブルに駆け寄って覗き込んだ。それは真っ白な本であった。文字も絵もない真っ白な本。でも、何十年も前に作られたものらしく変色していた。
「貴方も魂があるの?」
試しに彼女はその本に声を掛けた。すると、その本は間を置いて言葉を搾り出した。
「ああ、私はある人間の思い入れの深さより、自我を持った。どんなものでも、人の思い入れが深ければ魂が生まれる。例外はあるがな」
「私が話しができるのは、魂の入ったものだけなのね。…その例外って?」
すると、本は黙り込んでしまった。そこで、彼女は顔を上げて視線を維真に向けた。彼は人形と2,3言を交わした後であった。
「それは黒魔術だよ。『物体』に仮初めの魂を召喚する術は実際に存在するんだ」
そして、維真は彼女の持つ本を彼女のケリーバッグに入れた。
「今日はもう遅いから、明日また来なさい」
真理香はお辞儀をして霊獣のギャラリーを後にすることにした。しかし、そこから離れると胸騒ぎがして不安と畏怖が真理香の心臓を鷲摑みにした。心細いのでバッグの中の本に話し掛けた。
「どうして、あの人は貴方を私に持たせたのかな?」
しかし、その本は返事をしなかった。溜息をついて乱暴にバッグを振ると早足で夜道を急いだ。
どのくらいだろうか。背後から気配がずっと付いてくる。犯罪者か幽霊か、それとも得体の知れない目に見えぬものか。街頭のスポットライトの下で、足を止めて恐る恐る振り返った。すると、あの木彫りの小動物が無表情のままゆっくり歩いてきた。関節のないその足は粘体のように動いていた。
「お迎えに来たよ」
すると、心臓が氷水に漬けられたような感覚に襲われて、胸を掴んで腰を落としてしまった。さらに近付いてその人形は言う。
「僕は山颪の人形、これでも能力があるんだよ」
「山颪?」
真理香はあの霊獣のギャラリーを思い出す。確かあのギャラリーのあるアパートの名にもあったはず。そして、ふと、それをよく見てあの阿字に似ていることに気付いた。
「もしかしたら、それって霊獣?」
「よくご存知で。そう、その霊獣の能力があるんだ。さぁ、一緒においで。僕達には君の力が必要なんだ」
「ものと話す能力なんて私じゃなくても沢山の人が持っているじゃない。どうして、私なの?」
すると、木彫りの山颪は太い尻尾を軽く振って見せた。すると、氷の粉が彼女達の周りに舞い始める。それはやがて彼女にまとわり付き煙になって立ち上っていった。それを目を丸くして眺めていた真理香は首を傾げて人形に疑問の視線を突き刺した。
「これが?」
「分からない?そうだね、君達の概念にはないものだから。つまり、君は『見えない星屑』を呼び出し、操る能力を持っているんだ。それは別名、大いなる流れの不確定要素とも言われるんだよ。運命に関与されない行動を起こせる」
全く意味が分からずと惑っていたが、とにかく意を決して叫んだ。
「私は行かないから」
すると、人形は背を低くして瞳を細めた。
「そうすると、少々嫌な目に合うことになるぞ」
「それでも嫌なものは嫌!」
すると、さっと人形は彼女に飛び掛った。真理香は顔の前に両手を出して庇い、小さな悲鳴を上げて屈み込んだ。
刹那、小さな紙飛行機が彼女の前に舞い降りた。その途端、人形は動きを止めて、その飛行機の飛んできた方に鋭利な視線を向けた。その方向からは維真が歩いてきた。
「無の刻に行動するとは想ったが、こんなに早くことを急ぐとはな」
すると、遣いの人形は無理に笑顔を作って彼に言葉を投げた。
「これは夢幻の作家さんがこんなところまで」
「彼女が心配になって来てみたのさ。僕が諦めろと言っても去る君達じゃないよね」
「無論」
維真は真理香と人形の間に割って入る。すると、夜空が急に明るくなる。雲に隠れていた妖艶な月が顔を覗かせたのだ。すると、対峙していた両者は互いに困った顔をした。
「ここは休戦にしないか?緋色の(ッド)三日月の夜だ」
「異議なし」
2人は何を言っているのか分からず、真理香は月を見上げたが赤い色などしていなかった。一体、彼らは何故この場所から逃げようとしているのだろうか。真理香はふと気配を感じて右隣の家の屋根に顔を向ける。そこには黒衣の老女が3者を見下ろしていた。
「もう、来たのか。遅かったな」
「ああ」
維真は真理香にそっと耳打ちした。
「彼女は三日月の魔女、レア・スチュワート。彼女はあらゆる見えないものを手に入れる」
そこで、真理香は目の前の人形のいった言葉を思い出す。真理香には『見えない星屑』を呼び出し、操る能力を持っていると。それも見えないものだとしたら、彼女自身もあの魔女に狙われるかもしれない。すぐに維真の後ろに隠れた。それを見て、まやかしの魔女は悪戯っ子のように楽しそうに、にやっと笑った。
「レア。今日は君の出番じゃない。さぁ、帰るんだ」
維真の言葉を無視して瞳を閉じると精神を集中させた。ゆっくり彼女の体が浮かび、そのまま維真の目の前に舞い降りて歪な笑顔を見せた。
「そうはいくかい、やっと見つけた獲物なんだ」
すると、人形も流石に黙っていなかった。魔女の前に出ると何かを図っているかのように難しい表情を見せた。
「今回ばかりは僕達も黙っている訳にはいかないな」
「小ざかしいねぇ。あんたら人形達に何ができる?曲がりなりにも私は世紀の大魔女と呼ばれた女だよ」
彼女は不敵な笑みを浮かべて真理香に近付いた。その時、月が雲に隠れて辺りに暗闇が訪れた。と同時に維真は魔女の背後に回り込み、腕を後ろに締めて動きを封じた。
「維真、後は任せたぜ」
そう言うと人形は突吠えると暗闇の渦が地面に発生して真理香を沈ませていった。維真は魔女を放すとそこに飛び込もうとした。しかし、魔女に突き飛ばされてブロック塀に激突した。人形は暗闇の渦が消えるのを確認すると、さっと塀の上に飛び乗ってさっと走り去っていった。
魔女は渦の閉じたアスファルトに飛び乗って舌打ちをした。
「あの世界に連れてかれちまったよ。あそこに行かれちゃ手は出せないね。で、あんたはどうする?」
「世紀の大魔女が聞いて呆れるね。手が出せない?そうじゃない。魔法の使えない世界が怖いだけじゃないか。僕も夢幻の作家としての能力が使えないが、助けに行くさ。あの娘に助けるって約束したからな」
「へっ、言うようになったじゃないか。坊やがらしくないことを」
彼女は三日月が再び顔を見せたのを仰いで箒に跨り空高く舞い上がった。それを見届けて維真は手を顎に当ててこれからの行動を思案した。
いよいよ、禍々しい歪められた運命が鉛色の流れのうねりを見せ始めた。
2.星屑の哀夢
ある真っ青な空の下で、街中を歩いていた要はある感覚を感じた。振り返ると、5つの尻尾の狐が路地に入っていくところであった。
――九尾の狐ならぬ五尾の狐か。あれも霊獣なのか。
買い物を諦めて好奇心に任せて、彼はその不思議な動物を追い駆けることにした。しばらく、細い路地を進んでいくとあの霊獣のギャラリーのあるアパートに辿り着いた。彼はすぐに1階のギャラリーに飛び込むと、維真の姿を探した。すると、案の定、中庭で寂寥を漂わせながら花々を眺めていた。
「どうしたんだ?」
すると、困惑の表情を浮かべながら彼は真理香の話をした。
「そうか」
「お前の力で『やつら』の世界に行けないか?」
「生憎、時空を超えるのは得意じゃないんでね。僕の作品があれだけあるのに、何故、彼女を奪われたんだ?」
「ここの結界は十分だった。だが、連れ去られたのは外だ」
「なるほど」
維真は立ち上がり深く心が吸い込まれそうな蒼い空を仰いだ。その瞳には憂いが写る。
「しかも、その時は無の刻、緋色の三日月の夜だ」
「最悪の状況だな、お前にしては迂闊だったよな。しかも、あの魔女が出たとか」
「そのまさかだ」
「かなり、厄介だぞ。時空を超えるにはレアの能力が必要なんだ」
「今は疾風に捜索させているのだが」
「さっきの五尾の狐か」
「風の霊獣だ。あれの話では『やつら』の世界は旋風の中にあるそうだ」
そこで、要は手を頭の後ろに置いて芝生に寝そべると足を組んで大欠伸をした。そして、頭の上を飛び越える阿字を眺めながら言った。
「ねぇ、阿字を貸してくれないか?」
「どうした?」
「方法はもう1つある。そっちを挑戦しようかなぁって想ってね」
それが何なのかは維真はあえて尋ねることはしなかった。阿字を呼び寄せると彼の腹部に乗せて建物の中に入っていった。阿字は丸まり不思議そうな瞳で要のことを眺めた。
海辺に黄昏ているレアは静寂の夜を待っていた。辛苦の水平線、風のメロディのリズムに乗って揺れる波。突如、紫の鮮やかな雲が切なさを誘う夕日を隠し心地よい闇を連れてきた。彼女は岩場から立ち上がると、侘しさと寂寥の幻影を眺めながらあの世界を垣間見る。
「出ておいで」
レアは振り向かずにそう言うと、岩場より離れたガードレールに寄り掛かる電柱の影から要が姿を現した。彼は阿字を抱いている。
「ほう、霊獣を使う気だね」
岩の頂点に登りレアが要の方を向くと要は警戒をして距離を十分取った。それも無駄だということは本能で分かっていたが。彼女は目を細めて不気味に笑い、右手を上げて人差し指を曲げた。すると、阿字が彼の腕の中から浮いて、空中で丸くなったままレアのところに飛んでいった。それを両手を受けたレアは嘲笑するように要を一瞥して阿字を見つめた。
「さぁ、お前の力で星屑の扉を開くんだ」
阿字は時空の歪みというべき異空間の扉を見つけ、開けることができた。レアもそれは可能であるが、無理矢理、時空に穴を開けることに力を集中させるために、向こうの世界では他の魔法を使用することができなくなるのだ。
もし、時空の穴を閉ざしてしまえば彼女は2度と元の世界への扉を開くことができなくなってしまう。ところが、阿字はその点、時空の扉を嗅ぎ分けることができるので、向こうの世界で扉を閉じても、再び元の世界への扉を見つけて開くことができるのだ。
「これは好都合だねぇ、わざわざこいつを連れてきてくれるなんて」
レアは阿字を天に放った。天を駆け巡った阿字はあるところで止まり身を思い切り反らせた。体中から光の粉が放たれて暖かい風が吹き抜けていった。
空を覆い隠している雲の一部に穴が開き、柔らかな陽の光の柱が海に突き刺さった。その幻想的な光景を満足げに頷きながら見届けた彼女は、振り返り優越感に浸りながら一瞬にして要のいる歩道に移動した。手を後ろに組みながら鋭利な視線を突き刺した。すると、要の体は徐々に硬直していった。
「頼む、僕も連れて行ってくれ」
すると、レアはさも意外な言葉を耳にしたかのように、目を皿のように見開いて口を開いた。
「何故、私があんたのお守りをしなきゃならないんだい?」
「僕はパラレルワールドでも能力が使える。きっと、役に立つはずだ。それに維真を召喚できるし、『見えない星屑の使徒』が持つ僕の本を持っている。維真が渡したものだ」
レアは顔を要に近づけて興味津々に言葉を和らげた。
「一体、お前は何者だい?」
それを聞いて要は希望を見つけ出した。少し間を置いて重々しく言葉を溢した。
「救世主の鍵、と言ったら分かるかな?」
それを聞いたレアは体を硬直させた。
「まさか、あの『迷える流れ星』の。夢幻の作家の腰巾着だと想っていたら、とんでもない坊やだったんだね。これは驚いた。しかし、それとこれとは話は別」
「頼む」
「あんた、何様だい。そういうのは自分の力でやりな」
「それが出来ないから頼んでいるんだ。そのくらい、分かっているだろう。彼女を救いたいんだ。そのためなら、魂の力を最大限に使っても構わない」
要は真剣な眼差しで真っ直ぐ伝説の魔女に視線を注いだ。それを眺めて彼女は額に手をやり、しばらく思考を高速に巡らせた。
「…お前、いい目をしているじゃないか。よし、分かった。一緒についておいで」
要の魔法の拘束を解くと阿字の方に目をやった。空中から降り注ぐ光の柱は海の水面に空間の狭間を描いていた。2人は岩場に隣接する砂浜に降りると波打ち際までやってきた。すると、レアは振り返って要に言った。
「魔法は大きく分けて2種類ある。他のものの力を借りるか、自分の精神力、魔力を使用する方法だ。前者は主に魂を引き換えにするか、血の契約によるものが多い。一方、後者は様々な材料を混ぜて魔力により魔法の薬を作る方法、精神力で魔力を魔法に変える方法だ」
「つまり、これから魔法を使わなくてはならないと」
「別にびしょ濡れになりたきゃいいさ。私はごめんだよ」
そして、彼女は海の上を歩き出した。
「分かった。魔法の使い方を教えてくれ」
すると、彼のその言葉が出るのを待っていたようににやりと笑った。
「私の魔法は精神力を魔法に変えるものだ。『迷える流れ星』のお前ならできるはずだ。魔女の血の継承を受けていなくてもね。私も力を貸すから大丈夫さ。じゃあ、心を無にして精神を極限まで集中させな」
言われたとおりに心を落ち着かせて要は足を潮に付けた。と同時にレアは指をパチッと鳴らした。すると、まるで要はトランポリンの上を歩いているかのように不安定な水面の足場を歩くことができた。
「上出来」
彼女は時空の歪みに向かってゆっくり歩きながら彼にさらに助言した。
「注意しな、集中が途切れたらすぐに沈むよ」
彼はそれを聞いて危うく心を乱されるところだった。すぐに深呼吸をして精神を安定させる。2人は海に開いた闇の穴に辿り着くとそこに飛び込んだ。空中でそれを見届けた阿字も一緒に駆け抜けると闇の穴は渦を巻いて閉じていった。夕日が完全に沈んだ海は何もなかったかのように、鉛色のどんよりとした波が心配そうに乱れたリズムを刻んでいた。
真理香は気付くと草原の真ん中に寝そべっていた。周囲には動物の形の人形は見張っている。起き上がって畏怖を感じた彼女はその場で固まってしまった。
一陣の風が吹き抜けて真理香の前に1人の男性が現れた。それはドラマの撮影の時、そして、本屋でもあった人である。
「助けに来たよ」
そう言うと、騒ぐ周りの人形達に色とりどりの鮮やかな鳥の羽根を風に乗せて撒いた。彼らはその瞬間、目の前の光景に魅了されてぼんやりと眺め始める。その隙に彼は真理香の手を引いて走り出した。
うまく脱出すると彼はそのまま草原を抜けてやけに広い森の中に駆け込んだ。しばらく、青年は薄暗い木々の間を無言で歩いていると開いた場所にある丸太小屋に導いた。
「ここには言葉になれなかった人の想いが溢れている」
ほとんど家具のない生活感の感じられない殺風景な小屋の中のテーブルについた青年は、やっと重い口を開いた。彼に救出の礼を言うと、真理香は安心したからか、すぐに溢れ出す数多くの疑問で一杯になった。
「ここはどこなの?」
「『星屑の哀夢』達の世界、CODEの世界だ。そして、あいつらは『物質』に宿る魂だ。人形の姿は仮初めの体。そして、やつらの操る不思議な力はCODEの力。全ての世界の運命を司る流れを操る術だ」
真理香が概念の範疇を超えて、オーバーヒートしているのを見て彼は呆れたように付け加えた。
「例えば、全ての事象は原因があるから結果がある。その原因にはある者の意図で誰にも気付かれないように作用している。その主は運命を司るもの、メビウスだ。現在はい次元に追放されているけどな。その原因を意図に従い操作する力がCODEなんだ。そして、あの人形達はメビウスの使者であるから、CODEを使うことができる」
「今一、ピンと来ないんですけど」
青年は頭を掻き回し思考をフル回転させる。
「つまりだなぁ、人が行動するときにサブリミナル効果をCODEの力で行なうんだ。そして、ある方向性に向けて行動させる。これをサブリミナルコードというんだけど」
彼女はすでに理解を諦めているらしく、質問を変えた。
「貴方は誰なの?」
すると、彼は少々躊躇ぎみに俯いて呟いた。
「僕はけして存在が許されない者。そして、本来、存在すべきでない、存在するはずのない者だ」
「そんな…」
そこまで話した青年はふと人差し指を上げてそれを振った。突如、小屋の中に光の粉が舞い始める。真理香はふと床を見ると微かに五芒星が描かれていた。
「結界だよ。『見えない星屑の使徒』さん」
「まさか、私を助けたと思わせて…」
すると、彼の瞳が邪に輝いた。
「助けたさ。僕を邪魔する『星屑の哀夢』達からね」
彼女は徐々に全身の力を失い、気を失ってその場に倒れた。なおもその周りに星屑の光が漂い続けた。それを見ながら『けして存在を許されない者』は満悦そうに微笑んでいた。
「ここに逃げ込んだぜ。あの法は『銀鳥の囀り』だ。あいつが裏切ったんだ」
木彫りの山颪の人形がそう叫んで、森の中に奪われた真理香の捜索のために足を踏み入れていた。仲間の蝙蝠のゴム人形は頭上で甲高い声で下品な笑いをした。木彫り人形はむっとして睨みつけると彼は悪びれもせずに後方に下がっていった。小さなプラスチックの動物達は口々に意見を並べ始める。
「だから、あいつを捕らえるべきだったんだ」
馬の人形が全員に向かって叫ぶ。
「否、追放だ」
と、熊の人形。
「どちらにしてもあいつのCODEはどうして強力なんだ?『銀鳥の囀り』と異名を唱えられるくらいに」
ウサギの人形が先頭の山颪に尋ねた。
「それは、彼が『本来、存在するはずのない者』だからだ」
彼らはやっと開けた場所に辿り着いて、丸太小屋を包囲した。
小屋の窓から外を見た青年は外の包囲網を見て微笑んだ。彼のCODEで張られた結界は万全であるからだ。星屑の哀夢の中でも最も強力なCODEを使用できる彼だからこそ、抱ける揺ぎ無い自信であった。
「ここには五芒星の結界が張ってある。いくらお前らが足掻こうとも手も足も出ないさ」
「そうか、人間の世界では東洋、西洋とも邪悪なものを阻むと言われる五芒星は結界としての力を持っているんだってな」
山颪の木彫りはそう呟いて小屋の様子をしばらく見ることにした。そこで、人形の1体が小屋の天窓に登り、気付かれないように開けて中に侵入を図ろうとしたが、小屋の天井にも結界が張られていて衝撃を受けて弾き飛ばされてしまった。
「全員、一斉に力を解放するんだ。いかに頑丈な結界でもこれだけの力には叶わないさ」
山颪の人形はそう叫ぶと小屋を取り囲む人形達は一斉にCODEの力を放出し始めた。振動波は小屋にぶつかり軋み始める。流石の青年も困惑の表情を見せた。
その時、真理香が目を覚まして床から起き上がった。最初はぼうっとして、長い間眠っていた感じを受けていた。しかし、すぐに自分の記憶を掘り起こそうと努めて、現在の状況を思い出した。が、それでも正確に自分の状況を把握することは不可能であった。
窓に視線をやると青年が人形達と対峙しているのが分かる。外は人形達に囲まれているだろう。しかし、小屋の中では青年の虜である。万事休すの状況に絶望に沈み込んだが、真理香は夢幻の作家のことを思い出して、彼が駆けつけてくれることに希望を見出した。
その時、小屋の壁を構成している木々にひびが発生し始めて今にも崩れだしそうになっていた。結界は彼らの攻撃にどれだけ耐えることができるのだろうか?このままでは建物に潰されてしまうと考えた真理香は小さな声を出した。
「また、さっきの羽根を出して人形達の動きを止めて、その間に逃げようよ」
「それは駄目だ。この場所はさっきも言ったが、言葉になれなかった想いが溢れる場所なんだ。ここで見えない星屑を発生させて『輝きの海原』へのガラスの塔を呼び出さないといけないんだ」
「…良く分からないけど、このままじゃ、どっちみちあの人形達に捕まっちゃうでしょ。そしたら、君の望みも叶わないじゃない。だったら、一旦、ここから脱出して後でまた来ればいいじゃない」
彼は真理香の言葉を思案してすぐに意を決したように頷いた。真理香の手を取り出口のドアの前に立つと、結界を解除して駆け出した。小屋はその瞬間に一気に破壊されて潰れてしまった。外に出た青年は小屋に放たれていた人形達のCODEの波動を片手を掲げて跳ね返して、さきほどの様々な色の羽根を右手のひらに出して息で周りに散らせた。
しかし、今度は銀鳥の囀りは彼らには効かなかった。山颪の人形は彼らの前にやってきて嘲笑った。
「同じ手が通用すると思うかい?」
そう、彼らは空気の流れをCODEの力で止めてしまったのだ。羽根は散るどころかすぐに地に舞い落ちてしまった。青年は真理香をかばうように立つが、すぐに2人は人形達の不思議な精神波によって気絶させられてしまった。
泥の平原に足を取られながら要はレアの後を必死に追い駆けた。肩には阿字が乗っている。その泥の平原は果てしなく広がっていた。
「もう、ばてたのかい?だらしがないねぇ」
レアの言葉を無視して激しい息を整えながら、要は両手を泥の表面に浸した。すると、クリスタルのロープが発生してレアの脇をすり抜けて遥か彼方に伸びていった。それに飛び乗ると、不安定な足場にも拘らず、なんでもないように普通に歩き始めた。
疲れのためにうとうとしながらそのロープを歩く要を横目に、レアは手を天に仰いで空より杖を取り出した。それを泥に刺すと泥の平原は2つに分かれた。その出来立ての道に飛び降りたレアは、まるで動く歩道に乗っているかのように自然に進んでいった。
「へぇ、それも魔法かい?」
「この世界では、普通の魔術が過剰に使えるんだよ」
「僕は自分の『救世主の鍵』の力を使っているだけなんで、良く分からないけどね」
後頭部の後ろに手を組んで歩く要は何かの気配に気付いて振り返った。すると、背後の泥の平原から雷鳴を鳴り響かせる巨大な花崗岩の亀の彫刻がやってきた。要達の力が発揮されたことで彼らの存在に気付いたのであろう。
稲光が遠くの亀より要の元まで届いてくる。レアは面倒そうに杖を構えて岩亀の到着を待った。それは似つかわしくない速さですぐに追い着くと太い濁声を辺りに響かせた。
「お主達は何者ぞ?」
要はレアの様子を伺った。彼女は何か思案を巡らせているようであった。そして、言葉を連ねた。
「ある場所を探しているんだよ。あんたは知らないかい?人形達の城を」
すると、懐疑的な眼差しを向けながら重い言葉を吐いた。
「『紺碧の空燃ゆる月夜見の山』にある。しかし、彼らには近付かない方が賢明」
要は真剣な面持ちで言葉を返した。
「それでも行かなくてはいけないんだ。ある女性を救うためにね」
すると、意外なことに岩亀は鼻で笑って目を軽蔑の色に染めた。
「偽善は美しくないぞ」
その言葉にむっとしながらも、要は冷静に対応をした。レアは面白そうにそのやり取りを眺めている。
「僕は奇麗事の中でしか生きられないんだ。だから、全ての欲を拒否している。それに、自分が思う相手のためになること、じゃなくて本当に相手のためになることを行なうように努めている。そのためなら、いくらでも犠牲になるさ。それを信じる信じないは任せる」
それを聞いてレアは大笑いをして要の肩を叩いた。
「『迷える流れ星』とはよく言ったものだね。まぁ、いいじゃないか、岩亀。信じておやりよ。で、その月夜見の山ってのはどこなんだい?」
大亀は躊躇ったが、要の瞳をじっと窺いやっと口を開いた。
「このロープと道が導いてくれる」
そう言い残して再び来た道を戻っていった。要はレアと顔を見合わせてなんとも言えないまま、先を急ぐことにした。
しばらく、他に何も見えない泥の海原を進んでいると、やがて大きな川がぱっと目の前に広がった。駆け寄って泥だらけの足を洗い落とすと、要は靴を逆さに振って靴下を絞ってレアをちらっと覗いた。何故か、彼女の足は綺麗なままである。おそらく、泥除けの魔術を使っていたのだろう。
その彼女は河のほとりにある石像に目をやった。それを目の前にしてレアは話しかけた。
「お前、大事な宝を持っているね?」
すると、石像は話を始めた。
「持っている。貴女は物質と会話が出来るのか」
すると、何かを企んでいるかのように目を見開いて頷く。
「それを私に渡しな」
「条件がある。お主の能力で我を滅せよ」
レアは唖然として石像を見つめた。
「我を滅せよ。さすれば道は開かれん」
彼女は冷たい目をして杖を石像に向けて、ラテン語の呪文を唱え始めた。すると、石像に細かい亀裂があらゆるところから走り始めて、1分ほどで粉々に砕けていった。その石像の瓦礫の中から丸い珠が転がり落ちた。それを拾って太陽の光を透かして見ながら小さく呟いた。
「こりゃあ、驚いた。幻の星取りの箱だねぇ」
すると、やっと泥を洗い落とした要は濡れた足のままで、レアの側に寄ってその蒼く透き通る珠を覗き込んだ。
「それはスターダストキャプチャーじゃないか。別名、星取りの箱といって望むものの場所を示してくれる魔法のアイテムだね」
「そんなこと、わざわざ説明されなくても知っているよ」
彼女はその珠に意識を集中させた。珠は淡い紫色に光り始めてその中に光の点を表せた。それは捕らわれの身の真理香の居場所である。
大河のほとりでレアは息を深く吸うと杖を水面に投げ込んだ。杖は徐々に水を吸って大きくなっていき向こう岸に届いて1本の橋になってしまった。それを渡り始めるレアを追って、要も恐る恐るその巨大な杖の橋を歩み進んだ。
草原に辿り着き先を急ぐ2人の前に星屑の哀夢の1体が現れた。それは大きな白鳥の陶器の人形であった。やはり、粘体のように物理的に動くないはずの陶器の体は、まるで、本物のそれのように羽ばたいていた。
要は空の翼を広げると、その見えない翼を羽ばたかせて宙に浮いた。レアの言うとおり、この世界では不思議な力は予想以上に効果を発揮するようであった。それでも、数十秒が限度ですぐに地に下りてしまった。
要のバックパックの中から顔を出した阿字は突如騒ぎ始めた。それを警戒信号だと判断した要は、白鳥の人形を睨みながらいつでも対抗できるように身構えた。
その様子を面白そうに見ていたレアがそっと囁いた。
「安心しな、あいつは私達を攻撃するために来たんじゃないよ。阿字が騒いでいるのは、仲間が近くにいるからだよ」
そうして、彼女は視線である方向を示した。そちらに目をやると、草むらが揺れてそこを走るものがいることが分かった。
「阿字の仲間ということは、霊獣がいるのか?何故、ここに」
「ここにいたって不思議はないさ。霊獣の中には時空を超えるものも少なくないからね」
そこに顔を出したものは、リスのような姿の動物であった。しかし、大きさは普通の猫よりも大きい。その霊獣は、その愛らしいくりっとした瞳を一杯に見開いて要の背中の阿字を眺めた。
それを一瞥してレアはすんなりと言う。
「そいつは月華の雫だよ。あまり、関わるんじゃないよ」
そう、それは夜空の霊獣、月華の雫は回りに大きな影響を与える。ただし、それが良い影響か悪影響かは場合によって違う。それでも、要は微笑み優しく月華の雫を抱き上げた。
「全く、しょうがないねぇ。不運なことが連発しても助けてやらないよ」
「別にいいさ。それよりあの白鳥はどうする?」
彼女は目を細めて羽ばたく人形を眺めた。
「何にもしやしないよ。ほっておきな」
要は気にしながらレアについていき、草原を西に向かった。
哀夢の世界では時間の流れが特異なために、夕日が沈んだ時にこちらに来たにも拘らず、こちらに来た時は朝日が昇りきろうとしていて、現在はやっと頂点から傾き始めていた。かなり時間の流れが緩やかなようである。
「あの白鳥は僕達を導いてくれるんじゃないかな?」
彼は要とレアの頭上を旋回して来た方向に飛び去っていった。
「確かに、あの方向は星取りの箱が示す位置と同じだね。でも、何故、味方を売る真似をするんだろうねぇ」
「人間にもいるように、彼らにも変わり者がいるんだろう」
草原をひたすら真っ直ぐ歩いていると、月華の雫が要の腕の中で彼に向かって大きな瞳を向けた。
「何で、急がないんだい?彼女はホーンジェミニの塔の頂に囚われているんだぜ」
そう、要も言葉を持たないもの、物質とコミュニケーションを交わせるのだ。それは動物も霊獣も同じであった。
「そんなに急がなくても大丈夫さ。ここの連中は人間達と違って気の荒い性質も非道も持ち合わせていない。彼女に手荒な真似はしないって」
自信たっぷりにそういう要を呆れながら、月華の雫は愛らしい表情を濁らせた。
「ほら、見てごらん。もう、見えてきた」
レアの指差す方向には巨大な山がそびえ、その中腹に石の家の街が広がっていた。その中心の広場には、巨大な城が建ち、その西に銀色の塔がそびえている。もともと、牢の役目ではなく宝物庫であったが、いつしかそれは禍々しい雰囲気を漂わせて人を封じる結界になってしまった。
「さて、次にどうしたものかねぇ」
レアは慎重に城下町と睨めっこしているが、要はそのまま歩き始めた。その要の服の裾を掴んで止めると、しばらく言葉も出なかった。
「まだ、分からないのかい?人形達のCODEの力を甘く見るんじゃないよ。あの精神波は場合によると人を自由に操れる」
「そう、ナーバスになるなって。ここでずっと考えていたって始まらないさ」
彼女は呆れて言葉も出なかった。腕を振り上げると力なく振り下ろした。すると、周りに光の粉が舞い散った。
気付くと要とレアは体に微妙な感覚が宿っていた。そう、足元が落ち着かないという感じである。そのまま、レアは地面にまるで海に潜るように体を沈めた。それを息を呑んで眺めていたが、彼女の真似をして地面の中を潜水して人形達の城に向けて泳いでいった。
それを見届けた一番高い杉の木の枝に身を休める白鳥の人形はそっと地に消えた要達に呟いた。
「早く、彼女を助けるのだ、夕暮れになる前に」
太陽は頂点からだいぶ傾いていた。
何故、この山を『紺碧の空燃ゆる月夜見の山』と呼ばれるのか。それは夕暮れにこの山は夕暮れのときに、幻想的な月光の霧が訪れて人の心を惑わせるのだ。
3.偽りの天空の都
「貴方の力でこの牢から逃げられないの?」
真理香は隣の鉄格子に囲まれた部屋で、窓から空を眺める青年に声を掛けた。
「この牢の周囲にはアンチが掛かっている。アストラルコードという、CODEの力をキ
ャンセルする力が働いているんだ。これは哀夢達とは違う種族の能力によるものだ」
しかし、彼は全然、心配そうには見えない。まるで、近い未来にここを脱出できることを確信しているかのようだ。
しばらくすると、彼は真理香に声を掛けた。
「君の鞄の中の本を出してごらん」
彼女は言われたとおりに、取り上げられなかった床に寝ている鞄を拾って中から本を取り出した。すると、それは微妙に仄かな光を発していて、奇妙な記号のような文字が浮かび上がっていた。
一方、地の中を進み銀色の塔の下に姿を現せたレアと要はどう進入しようか迷っていた。門番が入り口を守っている。その他に開口部は存在しない。彼らなら門番を倒して中に入ることもできるが、追っ手を増やして行動をしずらくしたくはなかったのだ。
「ん?やっと、開いたか」
要は何かを感じ取ったように、塔を見上げてそう呟いた。
「レア、僕の手に掴まるんだ」
「あの子に持たせたお前の作品を使うのかい?」
「ああ、今になってやっと、本を開いてくれたよ。全く、何故、維真があれを持たせたか考えたら、もっと早く開いているべきだよ」
「あんまり利口そうじゃなかったからねぇ」
レアのしわだらけの手を掴んだ要は瞳を閉じて精神を集中させた。すると、さっと姿を消して、次の瞬間には真理香のいる牢の中にいた。突然、現れた2人に真理香は驚愕の表情を見せてすぐに距離を保った。それを見て微笑みながら、『存在してはならぬ者』は彼女に言葉を掛けた。
「大丈夫、彼らは助っ人だ」
レアは鉄格子を触って考え込む。それを見ながら要は畏怖に捕らわれる真理香を見て悲哀の色を表せている。
「こいつは難儀だよ。アストラルコードが流れている」
「それなら大丈夫。CODEとレアの魔術は違う性質だから」
その要の言葉を呆れながら聞いて、レアは頭を横に振った。
「分かってないねぇ。こいつはCODEをキャンセルする力だけど、同時にあらゆる特殊能力を拒否する波動を発しているんだよ。CODEのキャンセルはアストラルコードの性質だけど、特殊能力の拒否はそれの力の使用の結果だよ」
レアの話が本当だとすると、彼らは外に出る方法はないのだ。来るときは要の本により空間を移行してきたのだが、この世界に牢の外には彼の作品は他に存在しないのだ。
全員は顔を伏せてこの絶望的な状況に頭を悩ませたが、そのとき、塔が揺れ始めた。そして、明かりが消えて当たりに暗闇が訪れた。と、同時に壁から出ている数多くの管から水が流れ出してくる。
「今だ、アストラルコードを発生させている『銀河の白雪』がオーバーヒートしたんだ。きっと、力のある者達が一気にここに集まったからだろう」
隣の鉄格子の青年がそう言った。要は頷き、すぐに両手のひらを向かい合わせて光の弾を発生させ、それを鉄格子に放ち爆発させた。鉄格子は無残に大きな穴を開けて折り曲げられた。
隣では青年が精神を集中させていた。右手の人差し指と中指を伸ばして付けて左手で右手首を握る。彼は淡い光を体から放ち辺りに仄かな視界が広がった。呆然と要と真理香はそれを眺めている。レアはそんな様子を気に入らないように横目で見つめていた。
青年の体はゆっくり宙に浮き1mほど上がってから、今度は下がり始める。足のつま先が床の水面に微かに接して波紋が広がった。静寂か辺りを包む中、青年はさっと鋭い瞳を開いて右手を振り上げた。
それから光の剣の刃を発生させてそれを鉄格子に向けて振るった。鉄格子は一瞬にして粉々になってしまった。すると、部屋の明かりが復旧して哀夢達が駆けつけ始めた。
しかし、彼らには要達4人には叶うことはない。それを知って、リーダーの山颪の人形はこの塔の中心部にある儀式の間であるものの召喚を行っていた。
レアの眠りの粉の術にて追っ手を眠らせて塔の廊下に出た彼らは、階段を求めて駆け出した。しかし、廊下のどこにも階段室はなく、部屋は全て鍵と結界によって封じられていた。勿論、アストラルコードのロックがされているために、レアや要の力も無意味であった。
「どうして、水が溢れ出しているの?」
廊下に溜まる水を弾きながら駆ける真理香が、走りにくそうに下を見ながらそう言った。
「この世界で常識なんて考えたら駄目だ」
要がそう言って水を蹴ってさらにスピードを上げた。そこで突き当たりに出てしまい、全員立ち往生して顔を見せ合わせた。
「これも月華の雫のせいだよ。だから、連れてくるんじゃないって言ったんだよ」
レアは要の肩にしがみ付いている大きなリスを睨み付けた。しかし、彼は悪びれずもせずにこう切り返した。
「毒をもって毒を制すってね。こいつのおかげであの牢から脱出できたんだし。この一見、悪状況でもこいつが何とかしてくれるさ。ただ、変えてくれるのは状況だけ。それをどう切り抜けるかは僕達次第なんだ。それをこいつが運を良くも悪くもすると言われる所以なんだ」
突き当たりの壁が突如、液体の表面のように中央から波紋を広がらせた。そして、中から巨大な鬼が姿を現せた。
その肩には山颪がちょこんと座って優越感たっぷりに眺めている。
「お前達、その見えない星屑を操るものを大人しく渡すんだ。そうすれば、痛い目に合うことはない」
その言葉に従う者は当然ながら誰1人いなかった。青年が咄嗟に前に出て庇うように身構えた。すると、山颪は厳かに言葉を鬼の耳元に囁いた。
「前鬼、いいぞ」
大鬼は手のひらを廊下の水面につけた。水が爆発して水の弾が発生して宙に浮かんだ。それがある程度の間を置いて青年にぶつかった。彼は弾き飛ばされて地に伏せた。
「早く逃げるんだ、僕の命が尽きる前に」
次に水が盛り上がり子供が作る粘土のように人型に形成されて半魚人になった。水の質感がそのままであるその化け物は、彼らに迫り始めた。
「貴方は私の敵だったじゃない。どうして…」
「別に僕がどんなに悪者でも、何を考えてようと関係ない。君が知らない人に畏怖を抱くことも疑うことも間違いじゃないし、当然であり必要なことなんだ。畏怖は人間には大切な機能で心や身を守るための感情なんだ。それが極度に敏感なことは別に恥じることでもない。それに、今の時勢、見掛けはいい人でも内面が悪者なんて人は沢山いる。身近にいることも、まさかという人がそうであることも今や珍しくないんだ。それに、今回は君の命が助かるし、僕に見返りは一切ない。何も問題はないはずだ」
「そんなことできるはずないじゃない、見捨てられないよ」
「じゃあ、こうしよう。僕はここで君を逃がす。その代わり、君は森のあの場所でガラスの塔を呼び出して、あの空の向こうにある都市である砂時計を引っくり返してくれ」
レアはその言葉の意味を理解したらしい。何かを企むように虚空を睨み付けた。そして、手を床に当てた。
「そいつの男意義、無駄にすんじゃないよ」
手から光が放出して大きな穴が開いた。そこに飛び込むとレアの姿は消えた。要は真剣な視線を真理香に向けて半ば強引に彼女の手を引いて、レアの開けた空間の穴に飛び込んだ。それを見届けた青年は指をパチンと鳴らしてその穴を塞ぐと、水の化け物に向かって両手を向けて叫んだ。
「これで思う存分戦える。俺が何の勝算もなくてここに留まったと思うかい?邪魔をなくしただけだ。…すぐに楽になる」
彼はその手から風の刃を無数に放った。水の化け物は一瞬にして水蒸気になって散った。前鬼や山颪に向かって不敵な笑みを浮かべながら、彼は言った。
「お前達とは決定的な違いがある。それは俺には自分の命よりも大切なものがある。だから、俺は負けはしない」
「僕達だって負けられない。彼女を城に連れていって王子の呪いを解くんだ。見えない星屑を操る者の見えない星屑の解呪の力でな」
「戦争には正義はない。だから、大義名分が必要なんだ。貴様らもその目的はそれに過ぎない。元々、皇太子の呪いは静寂の森を開発しようとした結果だ。自業自得」
2者の対立はしばらく続いた。すると、突如、辺りに光の霧が満ち始める。
「夕暮れになったらしいな。月光の霧が立ち始めたらしい」
「僕達はこれに心を惑わされることはない。全てはCODEの思し召し、だ」
「それはどうかな?俺だってCODEの使い手だぜ。そう簡単にはいかない」
対峙した両者は互いに飛び掛った。白い光の霧はそんな彼らの戦いを穏やかに包んでいった。
再びあの森の中の空き地に辿り着いた真理香はこれからどうすればいいのか戸惑いながら、レアと要に視線を向けた。レアは呆れながらこう言う。
「とにかく、見えない星屑を発生させればいい。その前に」
そして、要に視線で何かを伝えた。それを受けて要は筆を鞄より取り出して地面にある記号を羅列をし始めた。すると、それは7色に光り始めて辺りに風が吹き荒れ始めた。次の瞬間、維真が木陰に現れた。
「僕を召喚したということは、見えない星屑が必要になったということだね」
そう言うと、真理香に近付く。
「久しぶり。それでは、少し目眩がするけど我慢して」
維真の手から穏やかな雰囲気が漂い始める。そのうちに真理香の体から光の粉が立ち上り始めて、夕日を浴びて真っ赤な森の葉が黄色に光り始める。彼女が気を失って倒れると、要がそれを受け止めて心配そうに眺めた。
なおも、維真は続けていると丸太小屋の瓦礫の中から透明な塔が頭を見せて、そのまま徐々に天に伸び始めた。それが完全に地上に現れる頃には、陽の光はすでに沈んでいた。
ガラスの塔には入り口がなかったが、レアは外壁に手を当てると壁の1箇所が口を大きく開いた。
その中に足を踏み入れると、エントランスには水晶の結晶があちらこちらに生えていた。それが発する光で電気をつけているように室内は明るくなっていた。すると、塔の奥から大勢の輝くガラスの人形が迫ってきた。
「走れ!」
要がそう叫ぶとレアは手を大きく振った。途端に辺りが真っ暗になるが、要は本能で回りの空間を感じ取って、真理香の手を取り走り出してガラスの人形の間を避けて奥の紫水晶の階段を駆け出した。つるつるで硬い足場をしっかりバランスを取りながら走る。真理香は暖かい彼の手から安心をもらっていた。
レアはその後を追いながら警戒を強める。明らかにレアや要よりも強い魔力を持った者の存在を感じ取っていた。それは最上階に潜み彼らを待っていた。
階段を上り切ったところで要は真理香を庇うように立った。レアは畏怖のために階段の上り切ったところで動けなくなっている。流石に彼女もこの状況の雰囲気を感じ取っていた。
そこにいたのは黄金の龍であった。彼は威嚇するように間合いを詰めていく。真理香はものと話す能力で、要の肩の月華の雫に話し掛けた。
「あの龍の向こうに出口があるの。その向こうにある砂時計を持ってきて」
すると、小さな霊獣は頷き要の肩から飛び降りて走り去っていた。龍に踏まれそうとなった瞬間、それは姿を消してしまった。
「そうだ、この危機はあいつが何とかしてくれる」
要は突然、炎を吐いた龍の攻撃をかわしながら手を合わせて何かを唱えた。そして、ひじを引いて力を両拳に力を込めて、一気に両拳を床に向けて放った。衝撃波が凄まじいエネルギーを放ちつつ床に当たり、床に次元の歪みが起こった。そして、そこに阿字が降りて尻尾を振り下ろした。そこに光が満ちて次元の穴が開いた。と、同時に維真の姿が風とともに飛び出した。
彼が完全に姿を現すと次元の穴が塞がり、振り返って微笑んだ。
「遅かったな、もっと早く呼び出すと思っていたよ」
「別に忘れていた訳じゃないさ」
「夢幻の作家さん」
真理香は救世主が現れたかのように安堵の声を上げた。
維真は前に向き返り黄金の龍に余裕に足を進めていった。龍は再び炎の息が襲ってくる。しかし、彼はそれを高く飛んで交わすと龍の背後に鮮やかに降り立って指を軽く鳴らした。小さく乾いた音が響き、鳥の姿の霊獣が現れて龍に向かって霧を放った。辺りが真っ白になって視界を全く失ってしまった。
そして、徐々に晴れる最上階の空間には黄金の龍が1匹だけ姿を消していた。
「大丈夫、あの龍は今頃、森の外で眠っているさ」
維真はあっさりそう言って、真理香との再会にも関心を示さずにさっさと外に向かった。慌てて彼らもそれに続く。
出口からは雲のような白銀に光る大地が広がる。
「僕らは大海原の1片の木の葉。大きな波や凪を越え、羨望の大地を追い求めて光の海を漂える」
夢幻の作家の維真は詠いながら、夜空の下の『輝きの海原』を歩いていく。そして、前方に見える大理石の遺跡群の中に入ると足を止めた。要も鼻歌交じりにゆっくり歩き、遺跡の手前で月華の雫を見つけて抱き上げた。
その霊獣は砂時計の形をしたもの、『レクイエムの涙』を手にしていた。
「そのレクイエムの涙を引っくり返すんだ。そうすれば、全てが終わる」
レアがそう呟いた。その瞳には憂いが垣間見れる。要はそれを霊獣から受け取ると引っくり返そうとした。その途端に砂時計は小さい何者かに奪われた。一瞬の出来事だった。
「お前は哀夢の長。あいつはどうしたんだ?」
要の質問に山颪の人形は微笑んであてつけるように言った。
「今頃、牢の中で眠っているさ」
そして、抱えた砂時計を遺跡の柱の上に置いた。
「この遺跡は黒黄泉の扉を守る一族のものだ。そう、漆黒の歴史のな」
黒黄泉。かつて、この世界はそう呼ばれていた。この銀色の海原は地面に存在して、大理石の遺跡がかつての住人の街であった時代は漆黒の歴史と呼ばれていた。空にまだ太陽がなく漆黒に包まれていた。
ここに住んでいた人々はやがて絶滅して魂はガラスの塔に集まった。そして、ガラスの塔は銀色の海原を天高く持ち上げて、その後、太陽が生まれた。
それから2年の歳月が経ち、その封じられた魂は人形等に召喚されて哀夢達になったのである。
ちなみに、存在すべきではない存在、あの青年は当時の住人の最後の末裔である。
砂時計を狙ってレアは手を振った。しかし、何も変化は起こらない。遺跡の大理石は魔術をキャンセルする効果があるようだ。おそらく、大理石にアストラルコードを発生する何かが含まれているのだろう。維真はそれを見てすぐに悟り鳥の霊獣、火卵に視線をやり誰の耳にも届かない声で何かを囁いた。
火卵はさっと空中に舞い上がり、先ほどのように霧を放ち始めた。山颪の人形は焦りの表情を見せて、必死に砂時計を抱えた。そこに、まるで何か柔らかいもので包まれた感覚が全身を襲い、気付くと彼はガラスの塔の入り口に伏せていた。勿論、手元にはレクイエムの涙は存在しない。
鳥の霊獣は高い柱の天辺の砂時計を掴んで維真の元に戻ってきた。それを何もなかったかのように維真は引っくり返した。すると、周囲の空間が突然歪み始める。遺跡は崩れて粉々になり、銀色の海原はガラスの塔を砕きながら徐々に地面に降りていった。
そして、地面と同化して眩い光を放つのを止めてしまった。辺りは漆黒の闇に包まれてしまう。レアは人差し指に火を発生させて明かりを保ちながら、憂いを込めて呟いた。
「漆黒の歴史の再来だ。時の流れが戻り始めているんだ。すると、黒黄泉の封印が解ける。私達ももう終わりだ」
すると、そこにあの青年が現れる。レクイエムの涙が返されたことであの哀夢の町も廃墟と化して、人形達はその魂を仮初めの体から脱して天に帰ったのだ。要の足元に山颪の木彫りの人形が転がっている。勿論、2度と動くことはない。
「一体、黒黄泉って何なの?」
真理香の悲痛の質問に青年は答えた。
「僕らがまだ魂の存在になる前のこと。この世界には巨大な地獄の魔物が存在していたんだ。アストラルコードを放つそれは誰も敵う者はいない。僕らは魂の存在となり、絶滅したのもそのためだ」
彼が自分のことを「本来存在していないはずの者」、「存在してはいけない者」というのは、本来、絶滅して存在していないはず、という意味なのだ。運命を逆らって彼は生きているのだ。次元のバランスを崩しながら。この次元がバランスを崩し崩壊すれば、真理香達の世界も連鎖反応で崩壊する。ハルマゲドンが起こり、地球は滅亡するのだ。それを止めるには、この次元だけを崩壊させること、つまり、この世界を彼の存在する前の状態に戻すことであった。
彼の姿は徐々に透明になり、やがて消えてしまった。
「あの子も魂の存在となり、天に戻ったんだ」
レアの言葉が全ても物語っていた。真理香は頬を伝う暖かいピュアな温もりを感じた。
「これで良かったの?」
「善悪、良い悪いの判断は人間の勝手な価値観だ。自然界には善悪などないんだよ。それにこれが悪い結果なら、あいつは命を徒花として葬ったことになる。どうなのかは、誰も分からないんだよ。さぁて、どうしたものかねぇ」
かつてのここの住人に封じられていた魔物は遺跡の崩壊とともに復活した。それは彼らの何十倍もある体の西洋の悪魔の姿であった。ヤギの頭に槍を構え、こうもりの羽を背負った禍々しい魔物。
「いよいよ、メサイヤの鍵の力が試されるな」
維真が要の肩に手を乗せて言った。彼は精神を集中させると、地面に手を当てた。すると、地面の中から岩の翼竜が生まれ始める。
「彼がメサイヤの鍵と呼ばれる所以はここにある」
維真の言葉を理解するのは難しいが、真理香はこれで助かるのだと理由のない安堵感が胸の奥から込み上げてきていた。
石の翼竜はぎこちなく巨大な翼を羽ばたかせて宙に何とか浮いた。
「今のうちだ、維真」
要の叫びに維真は阿字を受け取り放った。阿字が空中を駆け上がり空間の歪みを発して穴を開ける。
「早く、翼竜が魔物を相手にしている間に」
地面に手を付いたままの要が叫ぶ。
レアは頷くと真理香の手を取って、空中の次元の穴に飛び込んだ。次に維真。そして、阿字自身も飛び込んでしまった。残された要はそのまま時空の穴が閉じるのを見届けると、石の龍に飛び乗って大きな悪魔に向かって飛び込んだ。
4.エピローグ ~新たな旅立ち~
真理香は気付くと海辺で膝を抱えたまま、眠り込んでいた。隣にはレアが維真と話をしている。
「迷える流れ星は平気かねぇ」
「あいつなら、大丈夫。時空を超える術も持っているし。こっちにはあいつの作品が嫌って程あるんだ。ただ、あいつなりにあの化け物をそのままにできないんだろう」
「損な性格だね」
「哀夢達の魂もあいつに救われるさ」
真理香は立ち上がり、レアに向かって尋ねた。
「もう、私を狙っていないの?」
すると、瞳をわざと皿のように見開いて大げさに言った。
「やっと、お目覚めかい。随分、眠っていたね。普通の人間には異次元ボケはきついらしい。…星屑を操る力のなくなったあんたには、もう用はないよ。さっさとどこにでも行きな」
彼女は名残惜しそうに立ち上がり、弱々しく訊く。
「また、貴方達に会える?」
「まっぴらだね」
と、レア。
「また、不思議なことで困ったら、きっと、幻のギャラリーへの道が開かれるさ」
今度は維真が優しくそう囁いた。
「何故、貴方達は不思議な力が使えるの?」
レアは目を細めて意地悪に返す。
「あんただって、物と話せるじゃないか?」
「どうして?私の力も貴方達のも」
すると、維真は水平線を眺めながら答えた。
「全ては、CODEの作用に由来しているんだ。この世の超自然かつ最も自然な特殊な力。全ての事象の原因の収束」
結局、彼女には分からなかった。
「あんたらには分からないよ。この力を最大限に使うには、概念を超えた概念を理解しなければならない。使えるようにならなけりゃ、全ての仕組みは分からないんだよ。いい加減にさっさと行っちまいな」
レアの冷たい態度に心を痛めながら、ゆっくり浜辺を歩き、歩道に上がっていった。夜に異次元の旅に出たはずなのに、現在は太陽が頂点に昇っていた。どのくらい、あそこで眠っていたのだろうか?向こうの世界にどのくらい過ごしていたのだろうか。
「細かいことは気にしない方がいいぜ」
その言葉に振り返ると、要が破れた服をまといながら立っていた。彼女は笑顔で詰まる胸を手で押さえて、やっと声を絞り出した。
「おかえり。これからお時間はある?」
彼は静かに無言で頷いた。
彼らは真理香が初めて阿字と出会った本屋に来ていた。そこで、1冊の本を指出して真理香は囁いた。
「この本は貴方の作品ね」
それは梓尊の作品であった。彼は何故、正体が分かったのか不思議に思ったが、物と会話のできる彼女であれば、それを知っていても大して疑問ではない。
「それが?」
「ギャラリーが貴方の作品の専門店になってたけど」
「それはあそこが夢幻のギャラリーだからだよ」
入り口のドアのベルが鳴り、女優の美鈴麗が顔を見せた。それを見ると同時に真理香は彼女の所に駆けていった。
「麗ちゃん!」
麗は記憶を探り少し間を置いてから、ドラマのエキストラであった真理香のことを思い出した。
「あ、貴方ね。あれから具合はどう?突然、倒れて驚いちゃった」
「もう、平気。ところで、物と会話はまだできる?」
「ええ」
そして、真理香の手にある梓尊の本を見て麗が目を輝かせた。しかし、すぐに彼女から視線を要に向けて、信じられないようにじっと見つめた。
「貴方が、梓尊だったんだぁ」
そう、真理香の持つ本からその事実を麗が聞いたのだった。要は面倒そうに表情を歪めたが、そのまま何もなかったかのように本棚の方に視線をなぞった。
すると、本と本の間から、小さな霊獣が飛び出した。それは維真の僕だと要にはすぐに悟ることができた。彼はその小さなねずみのような動物からある言葉を聞くと、困惑を見せて麗と真理香を眺めた。
駆け寄り握手を求めてきた麗と真理香に要は重い口調で言った。
「夢幻の作家からの伝言だ。物と意思の疎通ができる者に夢幻のギャラリーに集まってほしいそうだ」
それは、新たな冒険の始まりを意味していた。要達は小さな霊獣に連れられて、あの不思議なギャラリーに向かって歩いていった。
完
今の登場人物がやっと出てきています。
この時期の話としては外伝的な話ですが、今考えると十分シリーズの流れを汲んでいる要素を持っている話です。