自裁
真っ暗な闇の世界。
そこに少女はいた。
周囲にはたくさんの人・ひと・ヒト。
そこでは誰もが灰色のぼろきれのようになったみすぼらしい服を着ていた。
少女もまた、しかり。灰色のドレスは腰にサテンのリボンがついているものの、スカートの裾は擦り切れてぼろぼろだし、頭頂部で髪を結わえた黒いリボンもよれよれでところどころ虫が喰ったような穴が開いていた。
ふと顔をあげると、一つところに大きな人だかりが出来ているのが見えた。
何をしているのだろう?何か楽しいものでもあるのだろうか。
そう疑問に思った少女はそちらのほうに歩いていってみることにした。
少女は人の合間をうまく縫って、その人だかりの前に出た。そうしないと背の低い少女には何も見えなかったからだ。そうまでして期待していた何かは少女の目の前に現れなかった。
ただあったのは、小さな木造りの椅子に腰を下ろした年老いた老婆だった。いや、本当は老婆などではないのかもしれない。なぜなら、その顔は誰よりも分厚い灰色のフードがつくる漆黒の影に覆われて輪郭すらも見ることはできなかったからだ。
けれども少女はその人を年老いた老婆だと確信した。その確信は、老婆から出た声質からは少なくとも正しいものであるようだった。
老婆は他の人のものより暗い漆黒の服を着ていたが、その着物には全くと言っていいほど綻びは見当たらなかった。そうしてその老婆が腰掛ける木の椅子はこの全てが灰色の闇の世界ではまるで異質なもののように思えて、やはりその椅子に腰掛けるこの老婆もたくさんいる人とは異なる、異質なものに違いなかった。
その老婆は少女のほうを見ると(正しくは真中が黒くぽっかり開いたフードがこちらに向いただけなのだが)、そのしわがれた手を動かして皆に座るよう促した。
皆がやはり黒い砂でできたような地面に腰を下ろすのを見ると、やがて老婆のしわがれた声がゆっくりと話を始めた。
「みなさんの列車まで、しばらくの暇があるようですね。それまで私の話を聞きますか。・・・そうですか。ではお話するといたしましょう。ある女の物語を…」
1.旅立ち
まぶしい光で埋め尽くされる世界にわたしは立っていた。道にはたくさんの人が行き交い、車が溢れている。頭上では生まれたばかりの雛鳥たちが首がもげるかといわんばかりに伸ばし、けたたましく鳴きながら餌と共にじき戻ってくるであろう母鳥の影を待っていた。
わたしはとある小国で、ごく普通の家庭に育つ、どこにでもいる普通の学生だった。成績はたいして気合を入れて勉強しなくてもいつも上位10番には入っていたから、もしかすると平均的な学生より少しは頭が切れるほうだったかもしれない。特に目立つことは好きではなかったから、周囲からはよく言えばおとなしく、悪く言えば何を考えているかわからないと思われていたようだった。
両親はそんなわたしによく言った。どうしてお前は他の普通の子のようになれないの、と。
さっきも言ったように、わたしは別段、他の同年齢の生徒と変わっていたわけではなかった。ただ病気がちな母を見て育ったわたしは幼心に責任というものを感じていて、それで子供らしいよく言えば無邪気で、けれどもその裏を返せば利己的な行動や態度を取ることが出来なかっただけだった。
そんなわたしの世間一般の型にくくるなら「子供らしくない」だろう、冷めた態度がご近所の奥様たちの勘に触ったのは当然のことだった。彼女らからの嫌味への対処。それが例の両親のわたしへの言葉だったのだ。自分の考えではなく、他人の言葉に翻弄される両親にわたしは内心反発していたが、その気持ちがわたしの口をついて出ることはなかった。説明したところでわかってもらえるとは思わなかったからだ。周囲にいる多くの人が外見だけでわたしを型に嵌めてののしった。誰もその真意を知ろうなど思ってはいやしない。だから、人がどう思おうとわたしは一向に構わなかった。
自分がここにいる意味は、ただ一つ自分のなすべきことをするためにある。他の誰の意見も関係なく、ただ、その責任を遂行し完了する。わたしの心の奥底にくすぶる、その責任だけがわたしの唯一の理解者であった。
2.選択
時が経ち、わたしはその責任の半ばまで遂行をとげた。その責任とは経済的に自立して、今は年老いた両親の面倒を見ることだった。その目的のためにわたしは脇目も振らず突き進んだ。ある日、自国では責任を果たすことに限界があることに気づいたわたしは、遂行が可能でありそうな別の国へと移ることにした。そんなわたしをある者は自分勝手だと罵倒し、ある者はその意志の固さに畏怖の念を示していたが、わたしは合いも変わらず気にしていなかった。必要な教養を習得し、その国で平均と言われる収入以上のものを手に入れたわたしの前に、ある選択が掲示された。
それは母国と異なる場所でわたしの目的を達成する上での決まりごとのようなものだった。つまりはその国のニンゲンになれ、とこういうことだ。わたし一人でいるならそこまですることはなかった。けれど年老いた、これから先あまり役に立ちそうもない両親を見るならそれぐらいの覚悟を示せとこういうことらしい。
わたしは当然のことながら迷った。わたしがここにこうしているのは幼いころから感じている責任を果たすためであって、ここのニンゲンになりたいとか、生まれた国のニンゲンをやめたいとか、そういうことではなかったからだ。
けれど、と思った。
わたしはなぜここにいるのか。今現実にいるこのちっぽけな場所のことではなく、この世界にいることの意味を考えたとき、わたしは自分の成すべきことを見つけた。
そうしてわたしは新しいニンゲンになることになった。
3.疑念
けれども問題はそれで終わらなかった。本当の問題は後になってからやってきた。
それは新しいニンゲンになるために通らなければならない「ある儀式」の中に潜んでいた。その問題を聞いたとき、またかと思った。大人になるということは、わたしの両親のように自分の意志ではなく、他人の意見によって自分を殺すということなのかもしれない。けれどわたしにはどうしてもそれができなかった。
政府はわたしに考える時間を与え、政府自らもわたしの意見を検討することにした。それは異例なことだったから、マスコミでも大きく報道され、広い世間にわたしのことが知られることとなった。
わたしは初めて両親に相談というものをした。わたしがおかれている今の立場とその選択肢を説明し、彼らの意見を求めたわたしに下された彼らの意見はまるで他人のそれのようだった。
何を正義ぶったことを言っているの。
それが二人の意見であった。
わたしはわたしの意見が正しいものであると信じて疑わなかったので、この言葉にひどい衝撃を受けた。自分の生活を守るためなら多少の犠牲は致し方ないと、そういうことである。
わたしは全てがわからなくなった。
わたしが今、ここに存在する意味。それは両親への責任を果たすためである。けれど、そのために他者を傷つけてもいいのか。自分の信念を捨てられるのか。果たして、わたしに夜叉になる覚悟はあるのだろうか?
4.決意
数日後、混乱するわたしのところに追い討ちをかけるようにとあるものが届いた。差出人は不明であったが、その中身を見ればわたしの意見に反対する者であることは一目瞭然だった。
引き金を持つ黒い筒と小さな鉛球。それが小包の中身だった。そうしてそれこそが、政府がわたしに求めているものでもあった。
それを初めて手にしたわたしの利き腕はこれ以上ないというほど震えていた。それはとても恐ろしいものだった。この数日の間、わたしの頭を悩まし続ける元凶であった。けれども、今考えてみれば、それはわたしがこの世に生を受けて以来この手にしたものの中で最も感謝すべき贈り物だったようにも思える。
数分後、わたしの頭はすっかり冷え切っていた。落ち着きを取り戻したわたしはある決意を胸に約束の場へと足を向けた。
5.終焉
裁判所には予想通り、たくさんの人で溢れていた。皆、報道を聞きつけて集まった人たちである。たくさんの目の中をわたしはゆっくりと進んでいった。
あまり目立つことを好まないわたしには、地獄で針のむしろの上を歩いているような、そんな気分だった。けれど、わたしの頭はこのうえもなく冴えていた。わたしは一度、上着のポケットに右手を突っ込むと、その中を探った。そこに硬く冷たいものを確認すると、ほっと息をつく。
大丈夫。うまくやれる。
そう自分に言い聞かせたわたしは決意も新たに自分の舞台へと歩を進めた。
しばらくすると、黒装束に身を固めた男がわたしの目の前にやってくると、わたしの決意を尋ねた。わたしは一度大きく息を吐くと、ある条件を元に政府の意見に従うことを述べた。黒装束の男は驚くほどあっさりとわたしの提案を呑むと、わたしを新しいニンゲンにすることを宣誓した。
わたしはその言葉が終わるのを待つと、生まれて始めて心からの笑みを浮かべた。
その笑みを勘違いした男がわたしに近づこうとしたとき、わたしはさっとポケットに忍ばせていたあれを取り出すと自分のこめかみに向かってその小さな引き金を引いた。
パン。
かわいた音が響くと、あんなにうるさかった喧騒が一瞬にして消え去った。
ああ、やはりわたしは静かな場所が好きだ。
それが永遠の闇が訪れる前に、最後に沸き起こったわたしの想いだった。
*********
「ああ、みなさんの列車がようやっと到着したようですね」
ちょうど老婆の話しが終わったその時、暗闇に一条の光が差し込んだ。皆ゆるりと立ち上がるとその光のほうへゆっくりと、だがしっかりとした足取りで進んで行く。
少女もそれにならって立ち上がるとぼろのスカートについた灰色の砂をその小さな手で払い落とす。皆が行く方に向かおうとして、ふと立ち止まると背後にいる老婆を振り返った。
「どうしたの?早く追い着なさい。でないと間に合わなくなってしまいますよ」
いつまでも動こうとしない少女に気がついた老婆がそう言った。けれども少女の足はまだ動こうとはしない。少女は少しためらったあと、じっと老婆を見つめるとこう聞いた。
お婆ちゃんはいかないの、と。
そのかわいらしい声に見えない老婆の顔が一瞬ほころんだような気がしたのは少女の妄想であろうか。
老婆は大きく頭を振ると、私はその列車には乗れないの、と答えた。その答えに少女はがっかりしたような、納得したような複雑な顔をする。
『まもなく扉がしまります。ご乗車のお客様はお早くお願いいたします。繰り返します…』
空間にアナウンスが響き渡った。
「ほら、早くお行き」
老婆の言葉に少女はこくんとうなずくと、皆が消えた光に向かって一目散に駆け出していった。
やがて光は消え、また空間には元の闇が広がって、そこには老婆と老婆が腰掛ける椅子だけがあった。老婆は自分にすら聞こえないのではないかというぐらい小さな声でつぶやいた。
「私はそれには乗れないの。私は自らその切符を・・・命を絶ってしまったのだから」
老婆はどこにも行くことはない。今までも。そしてこれからも。
しばらく待てばまたここも、多くの人々で埋め尽くされる。老婆が決して乗ることのない、あの光の列車に乗るために。
いつもとはちょっと違ったダークな話に挑戦してみました。感想などいただけると幸いです☆