傘の少女
ペンを紙に走らせる無機質な音が教室中に充満していた。しかし、聞き方によってはリズムのように聞こえなくもない。
「えー。ここはこうだから、こうなんですよねえ」
数学の教師は、暗号を黒板に書き連ねながら、暗号の解き方を説明していた。
巧真のお腹が鳴る。
巧真は机に突っ伏しながら、昼食をほとんど食べやがったユリを横目で眺めていた。巧真とは人種が違うのか、肌は透き通るほど白く、睫毛が長い。鼻はモデルのように高かった。
少し下に目を向けてスカートから伸びる細く健康的な足を見ていたら、ユリはノートを机の端に寄せ、巧真に中身を見せてきた。
『何見ているんですか?』
ノートの端に書かれたその文字は、ユリの怒りが充ち満ちているように感じた。だが、巧真はそんなこと気にしない。
『お前って、しゃべらなければ可愛いのにな』
巧真もノートの端に文字を書く。少しストレートすぎただろうか?
『巧真さんって、話していればイケメンですね』
巧真に関してはどちらにしてもイケメンではないと思う。巧真は皮肉を込めて、『ありがとよ』と筆記する。
『私、冗談が好きなんです』
『どういう意味だよ』
ユリはペンを持った手の甲で口を押さえて笑う。そして、何かを書き始めたが、途中で手が止まる。
どうしたんだ?
そんな疑問が巧真の脳に浮かんだと同時に背後の壁が吹き飛んだ。
トラックにぶつかられたような衝撃の爆風に巧真の身体は黒板に叩き付けられる。口から血液が飛び出したが、痛みは感じなかった。巧真が本能的に痛みを拒絶したからだろう。しかし、脳への衝撃は遮断できなかったらしく、頭がくらくらしていた。ふと横に目を向けると、女生徒の身体が真っ二つに折れていた。現実味が湧かず、巧真は、チョークみたいだな、と思う。
脳が徐々に再生していき、口から言葉が漏れていた。
「ユリ……」
ユリの姿はどこにも見えなかった。まさか瓦礫の下敷きになったのか。
巧真は硬直しようとする身体を無理矢理動かし、瓦礫の山に駆け寄る。手が怪我することもいとわずに瓦礫をかき分けると、机の茶色が見えた。さらに瓦礫をどけると、どろどろとした赤黒い液体が見えた。そこから先は見たくないのに、巧真の手はさらに瓦礫を動かしていた。
潰れた顔面。ありえない方向に曲がった四肢。腹部からは手術映像などでしか見たことのない臓腑が飛び出ていた。そして、使いものにならなくなった足には誰のものかわからない片手が載っている。断面から出る骨と神経があまりにもおぞましくて巧真は嗚咽を漏らしていた。
吐瀉物が死体にかかり、内臓に染み込んでいく。
巧真は現実逃避するように瓦礫を死体に覆い被せ、視界から消す。
ユリ。
辺りを見回す。
巧真は、死んだ生徒を弔う気持ちよりもユリの安否を確かめたい気持ちのほうが強いことに気が付いた。しかし、失望はしなかった。世界中の誰もがそうだと思ったからだ。街中で何か事件か事故が起きた時、集まってくる人々がいるが、あれはその人が心配なのではなく、世間話の種になるから集まるのだ。結局、他人事。まさに野次馬なのだ。そして今もそれがたまたま同じクラスの人だったというだけ――そう思いたかった。きっと、そのほうが楽だ。だけど、巧真の視界の先に現れたその人物が、巧真を逃避から引き戻した。
形容するのなら、人形だった。裾が広がった黒いロリータ服。胸にかかる金髪。顔は小さく、肌は白い。その少女が人形ではなく人間だとわかったのは、冷たく光る青い目から微かに生気が感じられたからだ。そして、その青い目は、生徒の死が巧真のせいであることを示していた。
少女の喪服に見えなくもないその格好に、巧真は皮肉を感じる。
「おにいちゃん、ちから……ちょうだい」
少女は手に持っていた黒い傘の先端を巧真に向けた。
巧真は危険を感じ、横跳びする。直後、巧真の真横を黄色の光線が走った。見ると、さっきまで巧真がいた場所が焼け焦げていた。
「はずれた」
少女は傘を水平にスライドさせ、再び巧真に向ける。あの光線は傘の先から出たものなのだろう。
傘に黄色の閃光が現れたと思った瞬間、巧真の身体は自然と動いていた。地面に手をつき、足払いの要領で傘を蹴り払う。傘から放たれた光線はまばゆい光を放ち、窓ガラスを貫通して外の世界を一瞬照らす。巧真は傘を持つ少女の手を捻り、少女を地面にねじ伏せる。少女は吐血したが、青い目と頬は笑っていた。
巧真は手刀を少女の喉元に突き付ける。しかし、少女の表情は変わらなかった。
なぜ笑っていられる?
巧真がそう訝しんだコンマ一秒後、粉塵だらけになっていた傘が四散し、まるで生き物になったかのように巧真に襲いかかる。四つの内一つが巧真の手に命中。咄嗟のことに対応できなかったのか、巧真の全身に激痛が走る。生まれてこの方大事故を起こしたことのない巧真にとってそれは、手を一つ持っていかれた以上の効力を持っていた。少女は掌を広げ、巧真の腹部に突き刺した。
「おにいちゃん……こうさんした?」
寝転んだ状態のまま首を傾げる少女に巧真は底知れぬ恐怖を感じ、口が開かなくなる。
「ねえ、こたえておにいちゃん」
四散した傘の残りが巧真の四肢を刺し、巧真は空中に貼り付けされていた。身動きを取れなくなった上に、恐怖で口が動かないとなると万事休すだった。巧真の中で諦めが増幅する。そして、その諦観が巧真の能力を封じ込めていた。
少女は手をついてゆっくりと立ち上がり、巧真の頬に冷たい手を当て、唇を巧真の口に近づける。少女が放つ甘い匂いが巧真に麻酔をかけ、巧真の意識は遠のいていく。
「何やってんですかあああああッ」
一筋の光から聞こえたその叫び声が巧真の意識を覚醒させた。直後、少女は鞭打ちのようにしなり、壁に激突する。ユリの足蹴りが少女にクリーンヒットしたのだ。傘の破片が巧真の四肢から抜け、血を滴らせながら少女の元に戻る。そして、骨格を再現すると、水かきのような黒い布が現れる。一瞬にして、少女の黒い傘は傘らしい状態を取り戻していた。
ユリは崩れ落ちそうになった巧真の身体を支え、壁にゆっくりと座らせる。巧真の四肢から大量の血が溢れていた。
「ユリ……無事だったのか……」
やっとこのことで巧真の口から声が漏れる。
「ごめんなさい。あまりの衝撃で外にまで吹き飛ばされていました。……って、そんなことより今は自分の心配をしてくださいよ」
「そうだよな……。ああ……痛い」
痛みが全身を駆け巡る。気絶してしまいそうなほどの痛みがやがて心に届き、刹那、巧真の全身から痛みが消えていた。見ると、瓦礫に血が溜まっているが、傷口がどこにも見られなかった。
「ありがとう。ユリがいなかったら死んでたよ」
巧真は壁に手をつきながら立ち上がる。
「私だって、死にそうなところを助けてもらったこと感謝しているんですから、どっちもどっちです」
ユリの顔は恥ずかしさのあまり真っ赤に染まっていた。そのあまりにも可愛らしい姿に巧真はなぜか恥ずかしくなっていた。
少女が壁に手をつきながら立ち上がる。
巧真は邪念を捨てるために唇を軽く噛み、少女を見据えた。
「くるぞッ。しゃがめッ」
巧真が予期した通りだった。巧真たちの上空を黄色い光線が貫く。巧真が反撃に出ようとしたが、先に動いたのはユリだった。ユリは懐から拳銃を取り出し、少女に向かって発砲する。すると、光線を放った黒傘が開き、弾丸から少女を守る。一体、あのフリルのついた可愛らしい傘のどこにそんな防衛力があるのか。
ユリが少女の注意を引いている間、巧真はあの傘の攻略法を考えていた。遠距離から攻撃しても防がれるだけだし、あの砲撃にいつか焼かれるだけだろう。かと言って、近づいてねじ伏せても四散した傘の餌食になるだけだ。
何かいい方法はないのか。
あの傘さえ回避できれば――
いや、あの傘は銃弾を防ぐためで精一杯ではないのか? 今、少女の懐に入ることができればきっと……。
巧真は地面を蹴って加速すると一瞬で少女との距離を詰める。巧真の動きに少女は気付いているが、傘を変形させようとしない。
巧真は内心で喜びながら少女の懐に入り込み、掌底打ちを放つ。
少女が血を吐き出し、壁に激突する――そんな目視が幻覚だと気付いたのは、腕が締め上げられているように感じた時だった。視線を落とすと、黒い布のようなものが腕に巻き付き、まるでとぐろを巻くように動いていた。視線を戻すと、血を吐いていたはずの少女は相変わらず冷たい表情で巧真を見つめていた。おそらく、巧真の腕に巻き付いているのは傘の布だ。これも、あの傘の能力なのだろう。
巧真は一度距離を取り、布を腕から引き剥がす。布は役目を終えたかのように傘の元へと戻っていった。
傘の対応力は圧巻だが、巧真たちの有利は変わらなかった。一人が傘を引き付けている限り、必ずどこかに穴が生じるはずだ。
拳銃から放たれた弾丸が再び少女を襲うが、傘の鉄壁に拒まれる。
――一方、こちらの穴はユリが拳銃の弾をリロードしている数秒だ。幸いここ数回で少女はこの間に反撃してこないが、これから先も攻撃してこないとは限らない。いや、むしろ何か秘策があるのだろう。それをされる前に何か手を打たなければ――
巧真の思案を遮るように少女はなぜか傘を空中に投げる。投げられた傘は開き、少女の姿を隠す。
二人共が呆気に取られた。まさか逃亡する気か? そんな浅はかな思考が巧真の脳裏を過ぎった直後、傘は黄色い閃光を放って爆発。爆風と爆音が巧真とユリを襲う。巧真とユリは窓ガラスと共に吹き飛び、空中に放り投げられる。巧真たちがいたのは三階、巧真は大丈夫だとして、ユリは大怪我を免れなかった。しかも、不幸なことにユリは衝撃で気を失ってしまっている。
「ユリっ! 目を覚ませ!」
落下しながら必死に巧真はユリに手を伸ばす。しかし、ユリは目を覚まさない。巧真の言葉も虚しく、地面はもうすぐそこに迫っていた。
巧真は心から願った。
ユリを助けたい――――
その瞬間、二度目の爆発が起こり、爆風がユリの身体を巧真の近くに運ぶ。爆発音が耳に届いた時にはもう、巧真はユリを抱えて地面を転がっていた。やがて、電灯の柱に当たって、その勢いは止まる。
「ユリッ。大丈夫か?」
腕の中のユリに声をかけるが、返事はなかった。巧真は地面にユリを寝かせ、立ち上がる。
傘をパラシュートのようにして少女が三階からゆっくりと降りてきていた。ふわりと持ち上がった少女のスカートが開いた傘のようで、二つの同じ傘を少女が使っているように見える。
砂嵐を立てながら綺麗に着地した少女は、こてっと首を傾げる。
「はやく、ちからください」
その可愛らしい声を合図にするかの如く、開いた傘の四方から何かが飛び出した。その何かは回転しながら巧真に向かって直進する。巧真が、その正体が弾丸だと気付いた時には、もう弾丸は巧真の眼前に迫っていた。どう身体を動かそうが、回避は不可能。巧真はもう死を待つしかなかった。
「巧真ッ」
目を覚ましたのか、ユリの叫び声が聞こえた。その時、巧真の脳裏にユリの顔が浮かび上がる。走馬灯? ――いや、違う。死んでたまるか。
次の瞬間、時間が止まった。否、実際には止まっていない。そう錯覚したのは、目の前の弾丸が空中で止まっていたからだ。
巧真はしゃがみ、一瞬溜めて地面を蹴る。巧真の周囲を青い光が包み、空中の弾丸を蹴散らしながら巧真は低空を走る。
対する少女は傘を閉じ、完全に迎撃態勢となっていた。黒い傘の先端から黄色い光が現れ、その光は球体となりながらみるみる内に大きくなる。そして、完成を待たずに発射。
巧真と球体がぶつかり、爆発する。しかし、その爆発にも巧真は負けなかった。尚も進み続けるその姿は、獲物を追いかける虎のようだ。
少女は傘を開き、防御態勢を取るが、巧真の勢いを前に傘は紙同然だった。少女は爆発と共に吹き飛び、瓦礫をぶち破って校舎の外壁に激突する。
巧真の周りから青い光が消えた。それはまるで、闘争心の火が消えたようにも見えた。
巧真は振り返り、ユリに駆け寄る。
「んん……」
巧真の腕の中でユリは目を覚ました。
「あれ……あの女の子は……?」
「もう終わったよ」
強張っていたユリの顔が綻んだ。また冗談でも言い出しそうで、巧真は愛おしくなる。このまま抱き締めてしまいたかった。
「ねえ、巧真さん」
「うん?」
「どうやら、まだ終わってないみたいですよ」




