最後に
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十二月三十一日
午後五時五分。
西の空が緋色に染まっていた。
山裾に傾いた太陽が、まるで何かを照らすスポットライトのように窓から射し込んでいる。視界が横に移動していて、手前の景色は目まぐるしく変わっているのに、それだけは何かを監視しているかのように消えることはなかった。
視界が定期的に縦に揺れる。それは、電車が線路の継ぎ目を通った時に伝わる振動だった。
巧真は首を横に向ける。
ユリは夕暮れの空に目を向けていたが、しかし、その目は美しい景色を捉えておらず、その宝石のような青い瞳に映っているのは、巧真の知らない、どこか遠い世界のようだった。そして、その天使のようなユリを、巧真はまた、失いたくないと思う。
「なあユリ。本当にやらないといけないのか?」
巧真の弱気な発言を聞いたユリは巧真に顔を向け、怪訝な顔をする。
「巧真さん。まだわかっていないんですか?」
「全部わかっているよ。ただ、ユリを失いたくないんだ。でも、それが無理なら、いっそ俺もユリと一緒に死にたい……」
巧真が気持ちを正直に吐露する。怪訝な顔をしていたユリは、しかし天使のような笑みを浮かべ、巧真をその青く大きな瞳で見つめる。
「巧真さんが自分の死を恐れたのは、人間として当たり前のことです。それは確かにエゴなのかもしれませんが、私はそのことに関して悪いとは思いません。……それに、私だって本当は生きたいですしね」
やめてくれ。
そんなことを言われれば、本当に巧真はまた同じ過ちを繰り返すかもしれなかった。
「でも、私は、本当はもう死んでいて、こうして巧真さんと話すこともできていなかったわけです。だから、悔いはありません。それに、巧真さんは正義の味方になりたいんでしょう? だったら、その願いを叶えてくださいよ」
ユリは泣いていた。しかし、それは悲しみから来たものではなく、巧真と出会い、愛し合えたことへの感謝から来たものだった。ユリは、あの事故の時に噛み締めえなかったことを、こうして感懐することができたのだ。それは、嬉しさの他、何も表現する言葉が思い付かなかった。
巧真は、目尻に涙を浮かべながら、
巧真の能力を持ってすれば、正義の味方になるなど簡単なことなのだろう。だけど、これほどの皮肉があっていいのだろうか? 正義の味方になるためには、一番大切な人を犠牲にしなければいけない。そんなの、本当に正義の味方と言えるのだろうか?
――否、それが正義の味方になるうえでの代償であり、また、神様の言うところの罰なのだろう。だとしたならば、もう逃げるわけにはいかない。例えそれが自分にとっての悲しみだとしても、多くの人を救えるのならば、それが最良なのだから。
――だけど、今だけは――今だけは幸福に溺れてもいいのではないだろうか?
巧真はユリと唇を重ねる。それは、いつかの口づけとは違っていて、巧真は唇を介してユリを感じていた。鼻孔をくすぐる甘い香りを通して、ユリを感じていた。
そしてそれが、巧真が最後に願った『利己主義』だった。
電車は揺れ続ける。これから何が起こるかも知らずに、目的地に向かって進んで行く。その足取りは緩まることがない。
そういえば、この電車に乗って、一体どこに行こうとしていたのだろう。巧真はそのことを、やはり思い出すことができなかった。本気で知りたければ巧真の能力が思い出させてくれるだろうが、巧真はそんなことはどうでもよかったのだろう。
巧真とユリは目を瞑る。
二人の手は、ソファーの上で繋がれていた。
夕日が二人の加護するように温かく包んでいた。
電車が揺れる。
そこで、巧真の意識は途切れた。
ささやかな風が吹き、巧真の短髪を微かに撫で、巧真に何事かを語りかける。日は暮れ、屋根の隙間から見える空は藍色だった。
気が付けば、巧真は駅のプラットホームに立っていた。階段から上がってくる女性や携帯端末を触りながら電車を待つ男子高校生、杖を持ったおばあさんが腰を曲げながら青い椅子に座っていた。線路を挟んだ向こう側では人々が何も変わらない日常を送っている。巧真はこちら側と向こう側の世界は違うのではないかと思ったが、振り返ってみても、向こう側と同じく、人々は日常を過ごしていた。
……元に戻ったんだな。
巧真はそう思った。寂寞感が巧真を襲ったが、ユリを失った今、もうそれをどうすることもできなかった。きっと、これから巧真は一生この寂寞感を背負うことになるのだろう――否、この寂しさから逃れるために巧真は正義の味方となるのかもしれない。
階段を下り、改札を抜ける。
これからどうしようか。
家に帰っても、ユリとの思い出が蘇るだけできっと辛くなるだけだろう。では、困っている人を助けようか。――とは言っても、巧真は人の助け方を知らないし、そもそも周囲の人は皆、自分よりも幸せそうに見えた。畢竟するに、巧真はユリがいなければ何もできなかったのだ。ユリがいなくなってからそれに気が付くなど、どれだけ愚かなのだろう。だが、どうすることもできない。
巧真は途方に暮れながら、ゴールの見えない道を歩く。その道中に困っている人など見当たらず、それ以前に困っている人を助けたところで正義の味方になれるかどうかわからなかった。
不安が、波のように巧真に押し寄せる。巧真はそれに流され、自分の居場所を見失うのだろう。
だが、波は巧真の足元数センチで止まった。そして、何かに引っ張られているかのように引いていく。その時、巧真は違和感を覚えた。
波を引っ張ったものは、果たして、太陽だった。
茜色の光を放つ、あの眩しくも美しい夕日。駅を背にして歩いていた巧真は振り返って、違和感の正体にすぐに気付く。
太陽の位置が高すぎるのだ。
十二月の夕方にしては、あまり陽が傾いていない。もっと明確に言うと、明らかにさきほどまでの夕日の位置から変わっていた。それも、沈むのではなく、むしろ位置が高くなっていて、天頂に近くなっていた。
巧真はおもむろにズボンのポケットから携帯端末を取り出し、時刻を確認する。
『午後十二時十分』
巧真の足は止まっていた。あまりにも驚いて、声さえも出すことができない。
一体どうなっているのか。
まさか、誤った時刻の電車に乗ってしまったのか。いや、それならユリはどこに行った。必ず、事故は起こったはずだ。
――本当に?
その声は、あの、愛子ちゃんのような神様の声だった。そして、その言葉に巧真は全てを疑わなければ、と思う。
果たして、本当に電車事故は起こったのか。
巧真は気が付けばプラットホームにいた。つまり、電車が脱線した瞬間は覚えていない。
……いや、そもそもどうして巧真はプラットホームにいた? 事故が起きたのであれば、巧真は記憶と同じように瓦礫の隙間に挟まり、息絶えたユリを見ているはずじゃないのか? どうして、それは過去のことのように、記憶だけに留まっている?
その時ふいに巧真の脳裏を過ぎったのは、またしても神様の声だった。だが、これは幻聴ではなく、巧真の記憶だ。
――君はもう充分罰を受けたよ。
あの時は、電車事故でユリを失うことも罰だと考えていたが、今思うとそうではないのではないか? まさにその言葉通り、巧真はもう、充分に罰を受けていて、もうこれ以上受ける必要は――それ以前に、その言葉がピリオドのようになって、それ以降、罰なんてなかったのではないか?
巧真の脳はフル回転で動いていた。
神様は、一日が五分ずつ減っていく現象は、巧真が時空を歪めたからだと言った。だが、本当にそうだったのだろうか? いや、疑うまでもない。明らかにあれは神様によるものだったのだ。
神様(、、)は(、)一日(、、)を(、)五分(、、)ずつ(、、)減らす(、、、)こと(、、)に(、)よって(、、、)、巧真が(、)繰り返す(、、、、)前(、、)の(、)十(、)数日(、、)と(、)巧(、)真(、)が(、)繰り返した(、、、、、)十(、)数日(、、)の(、)時間軸(、、、)を(、)ずらした(、、、、)のだ(、、)。
最初に五分減ったのは十二月二十日。そこから三十一日まで一日五分ずつ時間が減ったとすると、およそ三百分、つまりは五時間のずれが生じていることとなる。現在の時刻は、十二時十分で、事故が起きたのはおよそ五時十分頃であるから、まさにぴったりだった。
巧真の脳裏に、いたずらっぽい笑みを浮かべる白黒のユリ――神様が蘇る。
巧真の頬にふいに笑みが浮かぶ。周りの人から見れば巧真はおかしな人だが、巧真にとってそれはどうでもいいことだった。
巧真の足は自然と動き出す。ゆっくりだった歩はしだいに速くなり、ついには走り出していた。地面を白く染めていた雪は消えていた。だが、民家の屋根に積もる雪はまだ残っていて、巧真にはまるでそれが走る巧真を応援している人々のように見えた。
やがて、見慣れたアパートが視界に入る。ユリと繰り返した世界で出会ったのはここだったなと巧真は思う。この場所にきっと特別な意味はないのだろう。だけど、なぜか巧真はこの場所が不思議な力を持っているような感じがした。それは、アニメの舞台となった場所、いわゆる聖地と同じようなもので、普段は何気ない場所なのに、ふとしたきっかけでその意識が一片してしまうのだ。
そして、巧真の部屋もまたそれであった。
ユリの寝顔が脳裏に蘇って、巧真のスピードに追い付けずに後ろに流れていく。
巧真が階段を駆け上がると、錆びた鉄がぽろぽろと涙のように下に落ちていく。
巧真が扉を開くと、きぃと寂しそうな音を立てる。
ポスターがたくさん貼ってあるいつもの部屋が目に飛び込んできて、そこには一つの人影があった。
ベッドの端に座り、巧真に目を向ける、長い髪の少女。
その少女は困ったように苦笑いを浮かべていて、巧真は胸の奥から何か突かれるものがあって、それを堪えるために一歩踏み出した。




