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青い目  作者: 黒糖パン
20/25

偽善者

男が高く投げた赤いスーパーボールが夕日と重なって掻き消え、そう思った時にはもう男の姿はなかった。

 左横で気配。反射的に身体を向けた時にはもう遅くて、巧真とユリは男の拳を顔面に受ける。二人はそれぞれ左右に吹き飛び、ユリは薬局横の壁に、巧真は停留所のバスに激突する。痛みは感じなかったが、巧真の服には赤黒い血がべったりと貼り付いていた。ユリに目を向けると、口から血が垂れていたが、壁に手を突いて立ち上がっているところ見ると、ひとまず安心だった。

 次に男が狙ったのは、巧真だった。

 瞬間移動かの如く目の前に現れた男の右拳は巧真の真横――バスの前扉を陥没させて突き刺さる。直後に防犯ベルが鳴り響き、巧真の耳をつんざいた。

「おしい」

 巧真の顔、数センチ前で男が歯を見せて笑う。

 明らかに、わざと外した。

 巧真は足蹴りをしようと足に力を入れて、そこで男に足を踏まれて動かないことに気付く。たった一撃で、危機に陥っていた。その力量差に、巧真は愕然とする。

 自由に動くのは、両腕だけ。しかし、バスにぶつかった衝撃で、肩から血が流れてしまっている。幸いにも――というより防衛本能で痛みは感じないが、最大限の力で男を殴ることはできそうにもなかった。

 何か手はないか――そう思考したところで、巧真の視界に入ったのは、男の背後に立つユリの姿だった。男はまだそれに気付いていない。

 ユリは両手で握った拳銃を男の後頭部に当てると、「巧真さんから離れてください」と忠告する。一瞬男は驚くような表情を見せたが、すぐにへらへら顔に戻り、巧真から足を放して両手を上げた。

「おいおい、嬢ちゃん。飛び道具は使わないんじゃなかったのかよ」

「まだ、使っていませんよ」

 男は、ふんと鼻で笑い――次の瞬間にはもう男が振り返っていて、ユリの両手を捻り上げていた。何が起こったのかわからないまま、ユリは苦悶に顔を歪める。男の顔は愉悦に浸っていたが、背後への注意がおろそかになっていた。巧真は四肢を奮い立たせて立ち上がり、男の腰目がけて掌底打ちを放つ。そ

「かはッ」

 男の身体は弓なりに曲がり、地面を数回転してやっと止まる。そしてその周囲は、白い雪の中に、赤く色がついた雪が降ったかのように染色されていた。

「大丈夫か?」

 反動で地面に尻餅を突いていたユリに巧真は手を伸ばし、ユリの両手が青く変色していることに気付く。その時にはすでにユリの顔から苦痛の表情は消えていて、「ありがとうございます」と笑顔を見せていたが、いつまでも巧真の手を掴もうとはしなかった。かといって自分から立ち上がろうともせず、やっと巧真は勘付く。

「折れているのか?」

「わかりません。……ただ、動かないです。手が鉛みたいに重いです」

 ユリの肩は、手を動かそうとしているのか微かに動いていたが、肝心の腕がびくともしなかった。最低でも、捻挫はしているだろう。

 巧真はユリの両手を束ねて握り、目を閉じて深呼吸する。

 意識して、能力を発動させようと思ったのだ。

 倒れた人々を救おうとした時には無理だった。だが、ユリになら、能力応えてくれるような気がしたのだ。そして、巧真の目論見――願い通り、ユリの手から青色は消え、普段のシルクのような白さに戻っていた。

「もう大丈夫だよ」

 ユリは確かめるように手を開閉し、問題なく動いたのを確認すると、腕を折り曲げたり伸ばしたりする。

「巧真さんの能力はすごいですね。ありがとうございます」

 欠陥能力なんだ。だって、ユリと自分にしか使えないんだから。

 その言葉が胸の内で生成されて、しかし言葉として現れることはなかった。そして、その代りに吐き出されたのは、

「そりゃそうだよ。だって愛子ちゃんと同じ能力なんだから」

 ふふふとユリは笑った。

「もういいかな?」

 そう聞こえた直後、ユリの身体は紙同然に吹き飛ばされていて、画鋲で留められているかのようにバスにめり込み、動かなかった。滝のような血が流れ出し、地面に滝壺のような血だまりができる。

「いやはや、油断した」

 男は首を鳴らしながら、巧真を見下す形で睨みつけていた。

 巧真は今すぐにユリを助けなければという衝動に駆られた。だが、その意に反して、身体は男に向く。

「殺す」

 勝手に口が動いていた。

「殺せよ」

 転瞬の間に巧真は男との距離を詰め、青い燐光を帯びた右拳を男の顔目がけて放った。男は身体を後ろ斜めに捻り、巧真の拳が擦過した直後に前蹴りを巧真の腹部に入れる。さらに、陸に揚げられた時の魚のように上に跳ねた巧真の身体に右拳が入れられ、ついに巧真は地面に落ちる。あばら骨が数本折れていたが、すぐさま元通りになり、巧真は口から垂れる血を拭いながら立ち上がる。

「ちっ。ゾンビかよ」

 男が吐き捨てる。巧真はあるいはゾンビなのかもしれない。だが、何と言われようと、男を殺すまではただの死体になるわけにはいかなかった。

 ふいに男はスーパーボールをノールックで後ろに投げた。直後、男の後ろにあった薬局が消し飛び、その上の小型のビルが傾く。ビル付近にいる野次馬を見れば、男がやろうとしていることは明らかだった。

 愛子ちゃんなら、ここで男を放って彼らを助けに行っていただろう。だが、巧真の中で優先すべきはユリを傷付けた男を殺すことであって、他人を助けるのはその後だった。

 地震のような地響きが辺りを揺らし、ビルが倒れ始めた。最初、呆然としていた人々だったが、やがて、ようやく自分の置かれている状況に気付いたのか、悲鳴を上げながら、または恐怖を顔に貼り付けながら逃げ惑う。一人、転ぶ。連鎖して、周囲の数人が転ぶ。他の人は、それに構わずにビルから逃れようと遠くに逃げる。そしてついに、ビルは心臓が震えるほどの轟音を鳴らしながら倒れた。瓦礫に巻き込まれた人数は、十人ほど。助かる可能性は、一パーセントにも満たないだろう。

「正義の味方さんよ。助けなくてよかったのか?」

「俺は正義の味方じゃない。偽善者だよ」

「そうだったな」

 男は、心底可笑しそうに、腹を抱えて笑う。

「さて、答えに近づいてきた」

「どういう意味だ?」

「さあね」

 男は目に浮かんだ涙を人差し指で拭う。

「さあ、殺せ」

 男が呟く。

 巧真の姿は消えていた。

 真横に現れ、眼前に迫った巧真の拳を男はそちらも見ずに片手で掴み、前蹴りで巧真の腹部を破裂させると、後ろ回し蹴りで巧真の身体を文字通り蹴り飛ばす。空中を舞った巧真の姿は、投げ捨てられたゴミそのものだった。

 巧真の身体は数秒の浮遊の後、倒壊したビルに隣接していたビルの二階の窓ガラスを割って、中にあった十数個のビジネス机を巻き添えにし、ついに止まる。その風景はさながら、ボウリングのようだった。もちろん、ボールは巧真でピンは机だ。

巧真の周囲には埃が舞っていたが、窓際では微かな夕日に照らされたガラスの破片が美しく輝いていた。巧真は立ち上がろうと机に手をかけ、そこでぬめりとした気持ちの悪い感触を掌に感じる。身体を起こし、ゆっくりと視線をスライドさせると、そこには、髪をオールバックにして、黒縁眼鏡をかけた女性の顔があった。しかし、その女性の瞳孔は開いていて、少し開いた口からは鮮血が流れていた。巧真は手を開く。掌には、緋色の血が何かの花のように美麗に咲いていた。

また、誰か死んだ。

男は、右半身を朱色に染めながら、元は窓だった場所、割れたガラスの上に立っていた。

「ほら、助けろよ」

 醜く笑いながら、男が言う。

「無理だ」

 血を吐き出してしまいそうなほど、言葉を口にするのが辛かった。辛いのなら、能力を行使して救えばいいのに、いつまで経っても女性は起き上がらず、声を漏らすこともなかった。

「自分と嬢ちゃんは助けられるのに、他人は無理なんだな」

 巧真を見下した言い方だったが、不思議と巧真は頭に来なかった。それどころか、納得していた。まったく、この男の言う通りだ。

「そうらしい」

「ふざけるなよッ」

 巧真が気付いた時には、男が眼前数センチにいて、巧真は胸倉を掴まれていた。巧真は右手で男のその手を掴むが、びくともしない。男の力があまりにも強かったのかもしれないが、あるいは、男の、憎悪に満ちた形相に畏縮してしまっていたのかもしれない。

「どうしてそんなに必死になる? お前には関係ないだろう?」

 あの時もそうだった。クリスマスでの戦闘で、最後に男が「お前が、殺せって言ったんだからな」と怒鳴ったのだ。いつでも笑っている男が別人みたいに怒鳴ったからこそ、巧真はどうしてここまで男が必死になっているのかわからなかった。

「ああ、必死だよ。必死なんだよ。あんたにはわかんねえだろうな」

「わかんねえよ」

 何かに悲しむような顔をして巧真を見つめていた男は、ある時ぷっと噴き出す。

「いやあ、やっぱ駄目だ。俺にはこんな辛気臭い話似合わねえや」

 男の表情が元に戻った。男の顔にはひょっとこのような滑稽な顔が似合っている気がして、巧真は男の言う通りだと思った。

「そうだ。少し、俺に付き合ってくれないか? 行きたいところがあるんだ」


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