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青い目  作者: 黒糖パン
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魔法使いはいない


 *


 蝉の抜け殻が木に止まっていた。頭上では、たくさんの蝉が鳴いている。蝉が鳴くのは、求愛するためだそうだが、集団でやられると人間にとっては迷惑の他ない。もっと隠密にやってほしいものだ。

 校舎の裏に行くと、蝉の声は相変わらずうるさいが、暑さは校舎が作った影によって幾分かマシになる。

 腰の高さくらいの水道があり、蛇口を回すと水が滝のように流れ出す。触ってみると、お湯のようにぬるかった。とはいえ、乾いた喉に入れてみると案外冷たく感じ、顔を洗うと心地よい温度の水が頬を伝う。

 小枝を踏む音が聞こえ、顔を上げると、そこにいたのはあの少女だった。頬にはえくぼができていて、深い海のような瞳はこちらを見つめている。日々、太陽が身を切るような暑さで襲ってくるのに、少女の肌は数日前と変わらない白さだった。

「待ちましたか?」

 柔らかな声が風に乗って耳に流れる。

「待ってないよ」

 蛇口を捻り、水を止めると、少しだけ周りの温度が上がった気がした。顎まで伝った水が滴り落ちる。

「よかったです。……これ、使いますか?」

 少女が鞄から取り出したのは白いタオルだった。ありがたく受け取り、顔を拭く。柔軟剤の優しい香りに包まれ、ずっとこのまま拭いていたい気分になる。

「ありがとう」「どういたしまして」

 渡したタオルを受け取りながら、少女は砕けた笑顔を見せる。周りに自分以外の誰かがいる時は絶対に見せない笑顔だ。この笑顔を見られるのが自分だけだと思うと、途端に嬉しくなる。まるで、「二人だけの秘密」を告げられた時のような、胸をくすぐられる感覚だった。

「君も水浴びする?」

「私はいいです。あまり汗を掻いていませんから」

 少女はそう言っているが、白いブラウスが汗で透けていて、中の下着が見えてしまっている。気付いているのかどうかはわからなかったが、教えてあげると殴られそうなのでやめておく。あまり触れない――見ないようにしておこう。

「今日は、あなたに渡したいものがあるんです」

 水道の縁に腰掛けると、少女も隣に座る。さっき水を出したせいか、少し湿っていたが、気にしないことにした。

「渡したいもの?」

 今日は、と言うと何度も会っているように聞こえる。確かに夏休みに入るまでは毎日のように会っていたのだが、話すのは一ヶ月ほど前に密閉された教室で会って以来だった。

「あなたがアニメ好きと聞いたものですから……」

 少女は鞄を探り出す。

 これには苦笑いするしかなかった。確かにアニメは好きだが、そのせいでクラスの女子から嫌われているのだから。

「まあアニメは好きだけどな。最近は自粛してる」

「どうしてですか?」

「モテたいんだよ。俺も」

「私はアニメ好きな男性好きですけど……あっ、ありました」

 少女が差し出したのは、漫画本くらいの大きさのものだった。受け取り、表紙を眺める。目に付くのは、赤と黒の混じった制服に身を包んでポーズを決める二次元美少女で、その頭上には『魔法少女はいない』の文字が書かれていた。どうやら、ブルーレイディスクのようだ。

「名前は聞いたことある」

「よかった! 見てないんですね?」

 わざとらしく手を打ち合わせ、嬉しそうに微笑む。

「うん。魔法って言うのもあんまり好きじゃないし」

「大丈夫です! 魔法は最初しか出てきませんからッ」

 裏返すと、三話入っているようで、一話ごとのあらすじが書かれていた。


『第一話 無力

 草木町に突如現れた怪物――腐敗物(さいとうさん)。彼らは街を次々と破壊していく。轟く悲鳴と逃げ惑う人々。そして、逃げ遅れた佐久間愛子が怪物に連れさられそうになる。

愛子の顔が絶望に歪んだ時、光を放ちながら現れたのはピンク色のドレスを着た少女だった。

 少女は魔法の杖から様々な魔法を繰り出すが、さいとうさんには一切通用しない。そして、その少女は必死の抵抗虚しく切り殺される。

 目の前に転がった死体を見て、愛子はその少女が親友だったということに気が付く。


 そして同時に、愛子の復讐心に火が付いた』


 この先で、一体どうやって『愛子』がさいとうさんを倒すのかは知らないが、確かに『魔法少女はいない』みたいだ。

 少し、興味が出てくる。

「見てみようかな」

「本当ですかッ」

 少女の顔がぱあっと明るくなる。でも、逆にそれが疑問を生んだ。

「でも、どうしてこれを?」

 アニメなんて他にも色々あるはずだ。しかも、この作品が始まったのはつい先月の七月とある。つまり、知る人ぞ知る名作というではなく、ただの最新アニメだ。もしかすると、これから名作になるのかもしれないが、どうしてそれをわざわざ勧めてきたのだろう?

 もちろん、ただ単にこの話が好きなだけかもしれないが。しかし、この喜び方は尋常ではない。その程度で収まるものだとは到底思えなかったのだ。

女主人公(ヒロイン)の愛子ちゃんは、復讐心によって、願いを叶える能力を身に付けます。そして、迫りくる敵を次々と払いのけていきます。彼女はまさに正義の味方になったんです」

 少女は一度言葉を止める。

 一瞬だけ、蝉の声が止んだ。

「――あなたも正義の味方になりたくありませんか?」

 正義の味方。自分は愛子ちゃんみたいに世界を救うことなんてできないし、そもそも世界が滅びそうな予兆なんてない。だけど、なぜかこの時、少女の言ったことに同意できた。誰かにこのことを話せば、中二心がくすぐられただけだと言われるかもしれないが、そうではないと確信できた。

「……なりたいよ。正義の味方に」

 一匹の蝉が青空に飛び立った。どこへ行くのだろうか。もしかしたら、危険が迫っている仲間がいるのかもしれない。

 普段は特に気にもしないことが、今は真面目に捉えることができた。

 少女はひょいと水道から降り、右手を差し出す。どうやら、握手を求めているようだ。

 左手を差し出し、少女の手を取った。

「これから、正義の味方を目指す者同士、頑張りましょう」

 水道から降り、頷く。

「ああ。頑張ろう」

 飛行機が空に一本の白い線を描いていた。その下で野球部の掛け声と蝉の鳴き声が飛び交っている。今のところ、世界に異常はないようだ。


「ちょっと待って」

 帰ろうと背中を向けた少女に声をかけていた。

 振り返り、どうしたんですか? という風な顔を見せる少女。大事なことを忘れていることに気付いていないのだろうか。

「君の名前は?」

 その問いに少女は黒い瞳をしばたたかせる。そして、すぐに名前を言っていたことに気付いたのだろう。身体を九十度回転させて、ぺこりと頭を下げた。

「申し遅れました。私は、藤沢ユリという者です」

 相変わらずの堅苦しい言葉遣いにぷっと噴き出してしまう。

ユリの真似をして、頭を下げた。

「俺は――」




 ああ、思い出した。

 どうして忘れていたのだろう。

『魔法使いはいない』を教えてくれたのはユリで、そこから、今では部屋にポスターを貼るほどはまっていた。それに、ユリとは何度も会っている内に距離が縮まっていて、友達以上、恋人未満という関係になっていたのだ。道理で、ユリに助けてもらったあの日、ユリが布団に潜り込んできても不快感を覚えなかったわけだ。

 ユリとの懐かしい思い出が、巧真の脳に水道の水のように溢れてくる。しかし――だからこそ、どうしてユリがあの日、「初めまして」と言ったのかが胸に突っかかった。もちろん、巧真が記憶を失っていることを知っていて、気を遣ったということも考えられるのだが、そうではない、何か計り知れない理由があるような気がした。

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